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十話・パーティーは始まらない 〈第一章・完〉
興吾に、問い詰めねばならないことは山程あった。
駿に問うべきことも。
しかし菫はまず、霊刀を無に帰すと、興吾につかつかと歩み寄り、その頬をぺしん、と叩いた。まだ八百緑斬は淡く若緑に輝いているままだ。興吾が纏う紫の燐光が自分のそれと酷似していると知る菫は、尚、遣る瀬無くなり、興吾の頬をもう一度叩いた。興吾は紫の目を真ん丸にして、姉にぶたれた頬を押さえている。
「霊刀を帰しなさい」
霊刀は己の物にして己の物にあらず。
神域から借り受けるだけの宝具であるという認識が隠師たちにはあった。
興吾は従順に霊刀を消す。無に帰すだけであれば何の言霊も要らないのだ。
「どうしてここにいるんだ、興吾」
詰問に鮮烈な双眸がやや怯み、しかし彼の譲らぬ意志を示すように、その唇は引き結ばれる。
「…………」
「私たちを尾けたのか?」
「まあまあ、菫。興吾君のお蔭で助かったんだから」
華絵が取り成しに入る。
「それはどうだか解りません」
菫が駿を一瞥した。駿は確かに、霊刀を顕現させようとしていた。それも今まで自分たちが彼の物と認識していた刀とは違う霊刀を――――――。
駿は自らの真の霊刀を秘匿していたのだ。
恐らくは強力なそれを、この土壇場であるからこそ菫たちの目に晒す覚悟をした。興吾の介入は、駿のその意志を思い留まらせる結果にした。
近くの民家の藤棚に遅咲きの藤が咲いていて、微かな芳香を運んでくる。汚濁による異臭が、その芳香で清められるようだった。汚濁を知るゆえの鋭い嗅覚を持つ隠師である菫たちは、張り詰めた気持ちを少しばかり和らげた。
「俺は菫を守りたかったんだ」
ぽつりと興吾が言う。白髪が微風に煽られて、軽やかに舞った。
「それだけじゃないだろう、興吾。お前は早く戦線に立ち、戦いたかったんだ」
「ああ、その通りだ」
紫の目に強い光が宿る。
「汚濁を倒して、菫を助けて、いつか兄貴の仇を討つんだ」
「正式に動く為には霊能特務課と長老たちの認可が要る」
「村崎」
「それまでは自粛しろ」
駿の言葉に唇を噛み締めて、興吾は頷いた。
「解った。でも菫、早く上と話をつけてくれ」
そうやって。
そうやって興吾も戦いに身を置くのだ。菫の心が心配と不安でどれだけ削られるか知らないまま。けれど菫もまた、興吾の真の心までには思い至ることが出来ない。歯痒かった。
(兄さんさえ生きてくれていれば)
今の興吾を、もっと物柔らかに、的確に、諭しただろう。菫は死人に救いを求める自分を内心で嗤った。
「ところで、バンシーはどうするの?」
華絵の指摘に菫たちはバンシーに向き直る。バンシーは腕が喰われても尚、泣き続けている。そういう存在なのだ。
「このままここで泣かれては汚濁がまた寄ってくるわよ」
「それだけどな。聴いたことがあるんです」
「何を?」
駿は答えずに道を隔てたところに蹲っていたバンシーに近づくと、その顎に手を掛け、持ち上げると自らの唇でバンシーのそれを塞いだ。軽やかに、手を繋ぐくらいの自然さで。
見ていた菫たちの誰もが呆気に取られる行動だった。駿の女好きは知っているが、バンシーが老婆であったとあれだけ失望していたではないか。
すると信じられないことが起こった。
バンシーの顔の皺がみるみる内に消え、曲がっていた腰はすっきりと伸び、頬は薔薇色に、瑞々しい肌に変貌した。そこにいるのは醜い老婆ではなく、妙齢の美女だった。
「バンシーにキスすると美女に変じるって何かで聴いたんですよ」
「それにしても思い切ったわね、あんた」
駿は華絵のからかいを無視して、バンシーに話しかけた。
「君にここで泣き続けられると困るんだ。故郷のアイルランドに戻ってくれないかな?」
バンシーはしばらくぽう、と駿を見つめていたが、やがてにっこりと微笑み、駿の頬に唇をそよ風のように押し当てて消えた。
今度こそ、この場に人外はいなくなった。
「アイルランドで泣かれても私たちには何も出来ないな」
「それはあっちの人たちが考えるわよ。各国に霊能特務課に似た機関は存在するんだから」
「とりあえずは研究室に戻ろうぜ。祝勝会だ」
果たして何に勝ったかも定かではないが、駿の意見に異を唱える者はなかった。
菫は立ち尽くす興吾に声を掛ける。
「お前も来るか、興吾」
「――――行く」
興吾が顔を輝かせると、紫水晶のような双眸も煌めいた。汚濁の件はともかくとして、興吾がこの先、駿のような女たらしにならないかと菫は危ぶんだ。
央南大学に戻る道すがら、軽口が行き交う。
「食えるもん、あったっけ?」
「途中、コンビニに寄る?」
「教授がまだ何か貰ってるだろう」
「サンタクロースが怒るわよ」
「思い出した! 葡萄大福が冷蔵庫にあった。丁度、四つ入りの箱が」
駿が喜色に富んだ声を出す。
「それ多分、持永教授が私たちと一緒に食べようと思って買ったんだと思うんだが……」
「興吾君もいるんだもの。仕方ないわよ。可愛いは正義」
文脈が今一つ怪しい。歌うように告げた華絵に、菫は念の為に尋ねる。
「華絵さん。お酒、呑んでませんよね」
「残念ながら至って素面よ。今、俄然、呑みたい気分。やっぱりコンビニ、寄りましょうよ」
「興吾という未成年がいることも忘れずに。……でも私も、カルーアミルクが飲みたいな。コンビニにコーヒーリキュール置いてあるかな」
所詮は類が友を呼んでいる。
このようにして央南大学史学科研究室の、霊刀ならぬ持永教授の虎の子の美食は、その院生たちにより無に帰されることが多くあった。それをいつも嘆くばかりで声を荒げたりしないあたり、持永の人徳が表れていると言えた。
大学に帰る途中で、根本から伐採された欅の成れの果てを菫は見つめた。
この欅の樹は、駿と初めて逢った時には、高々と天を指して立ち、緑陰を成していた。
あれは大学一年の春だった。欅はまだ柔らかな新緑の色を見せ、央南大学に植わる桜の樹々は満開で、時々、悪戯な風が吹き、花びらを散らしていた。
霊能特務課、隠師の長老たち、その双方から大学にいる隠師の同胞と顔合わせをするよう指定された場所である、文学部棟の一階にある第三講義室に彼はいた。淡い赤紫のクルーネックシャツにグレーのジーンズ。ジーンズの両ポケットに手を突っ込み、窓際に寄り掛かって首を巡らし外を眺めていた。無機質な視線だった。
独りに慣れた人間なのだと感じた。
何と声を掛けたものかと惑っていた菫に、駿のほうが気付いて先に声を掛けた。
〝君が神楽菫ちゃん? かわいー〟
孤高の雰囲気が霧消する。
〝は?〟
〝凄腕の隠師って聞いてたけど、こんな可愛い女の子だとはね。ねえねえ、汚濁退治なんて止めて俺の彼女にならない?〟
ふざけたことを言う男だと菫は一瞬、憤慨しかけたが、駿の目は笑っていなかった。どこか菫を憐れむようで、その為に菫は怒るきっかけを逸した。
〝村崎駿君……だな? これからよろしく〟
駿が右手をひらひらさせた。嫌だ嫌だと言うように。
〝固っ苦しい呼び方やめてよ。呼び捨てで良いよ〟
へにゃへにゃと笑う男に、菫はこれで汚濁を滅することが出来るものかと危惧した。しかしその心配は杞憂だった。駿は隠師として極めて優秀で、いざ汚濁と遭遇すると普段の軟派な態度を一変させた。頼もしくも心強くも思ったものだ。
だが、菫は駿の他の顔を知らない。
隠師の家系だが身寄りがなく、施設で育ち、今は大学院を拠点に汚濁退治をしている。それが菫の知り得る彼の全てだ。
〝もうしばらく秘密にしときたかったんだけどな〟
あれはどういう意味だろう。真の霊刀を菫たちに見せては、都合の悪いことがあるのだろうか。菫の中で駿という男の姿が急速に遠ざかっていく。華絵も違和感を感じていない筈はないのだ。いずれ、追及することになるだろう。その時、駿は何と言って答えるのだろうか。
酒田家の近辺。汚濁が滅され、菫たちが引き揚げたあと。
佇む人影があった。
中性的な容姿。ほっそりした肢体の、腕は持ち上げられスマホを耳に当てている。
「汚濁は消された。バンシ―も立ち去った」
『問題ない。汚濁は幾らでも湧いて出るのだから。特に〝そこ〟は、汚濁の宝庫だ』
「ああ」
『消されればまた生み出せば良い』
「そうだね。嘆き、怒り、混沌の渦……それらに憐憫と礼装の餞を」
『そういうことだ』
「人を使うのも良いけど、僕たちが直接出向くのもありなんじゃないかな」
『当面はまだ、使える兵隊を使うさ。警察組織との繋がりは存分に利用出来る。だが一考しておこう。他に君の意見は?』
「バイオレットの扱いが問題だな」
半ば探るような声音になったのは、彼が菫に抱く感情からして無理もなかった。
『目下、君に一任しよう。遙』
そう言って通話は切れた。
彼は苦笑する。
「簡単に言ってくれる……」
細められる双眸。不思議と優しさをも孕んで。
菫、駿、華絵、興吾、そして……。
この町で躍動する隠師は、まだ出揃っていない。
チェス盤の駒の登場を待つように、彼は敵陣の概要の把握を望んでいた。
月は高く、彼を照らし出しその影を一層、色濃くさせた。
<第一章・完>
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