続 料理探究家のトリセツ
Q トミーさんと台所の関係性を教えてください。
いい問いは、真を導くと思う。
聡明で繊細な彼女から、その宿題をもらった時にあらためて、自分の内側を見直してみた。
料理をつくりだす場所には、いろいろな呼び名がある。
キッチン、厨房、台所、、、
私のなかの台所は、とくに、命を育む場所であり、料理家の土井善晴先生の言葉をお借りすれば、『自分の居場所に帰る場所』『安心や愛に帰る場所』
料理は祝福と弔いを込める行為で、愛する技術を磨く行為。(※エーリッヒフロムさんの影響)
という自分なりの理解がある。
とにかく不器用に生きている自覚がある中で、料理をすることで、自分の居場所や、いろいろな人との関係性を育んできた。
自分にとって料理は、不完全な自分が、いろいろなことを愛すること、愛する技術を磨くためのツールなのだ。
その中で、自分自身と台所の関係を見つめたときに、ちょっっと気づいてしまった。
やっっと?かもしれない。
自分のためだけに料理する時限定で、まずいものができるという事。w
明らかに、自分のためだけの時に発生する。
と、いうことは、、、
自分を愛せていない、自分を愛する努力をサボっている、ということである。
ガーン。
もうちょっと、自分との時間を大切にしよう!と大いに気付かされた。
以来、地道に自分の為に料理しています。
私は料理する事のちからを信じている。
壱岐島での体験で、一番のギフトは、そのちからに確信を持てたこと、そして、それぞれのちからを信じているひとたちに出会えた事だ。
デザイナーはデザインの持っているちからを、建築家は建築の持っているちからを、農家は農業の、
カレー研究家は、カレーの、魚屋は魚の、スパイス商はスパイスの、醸造家は醸造の、
それぞれ作り出すものに信頼と情熱を持って仕事をしている。
写真家は写真の、本屋は本の、音楽家は音楽の、ダンサーはダンスの、数えたらキリがない。
それぞれの物語。
ちからとは、可能性や愛に置き換えられる。
それぞれが、その仕事の過去と今と未来を自分の仕事と共にみつめている。
じぶんと、誰か、自身と他者の間に、そのチカラを置くとき、社会の中に、''希望''が自然と生まれるんだと思う。
写真もまた、自分と誰かの間に置く事のできるもので、全てが現実に起こっていること。
自分の内側と外側のバランスが半分半分なのが、ほんとに良い。
写真の持つチカラを発見して、自分で撮れば良いのだ、写真なら自分と世界とのバランスがよりとれやすい!ということに気がついたとき、深く呼吸ができたような気分になった。
(※ユージーンスミスとジンケブレッソンの影響)
写真をはじめて、真っ先に気がついたのが、わたしに撮られてくれている人たちの信頼と愛。
その笑顔に幸せもんだな、と思いつつ、もうちょっと自分で自分を、、ね、と心の中で笑いながら。
仕事で、料理や雰囲気の写真を撮る機会はもちろんあるけれど、ひとやひとの営み、一瞬の光が撮りたい。
写真もまた、不器用で不完全な自分の、いろいろな愛する技術を磨いてくれ、新しく、自分と世界を繋ぎなおしてくれる。
そんな気がしている。
カメラを持ったわたしに出会ったら、是非、あなたを撮らせてください。