見出し画像

障害者週間にて(2)

こんばんわ。
日曜日の夜いかがお過ごしですか。
昨日の夜は、なぜか三男坊が夜中ずーっと泣いては起き、っていうのを繰り返して、寝不足です。妻も寝不足ですが、今日はランニングイベントがあったので、アドレナリン出て、元気いっぱいで飲みに出掛けました。この後、明日の朝には疲れが出てどーーーーーん!と落ち込むことは目に見えている。
それが今から憂鬱な夜です。
寝かしつけで一緒に寝てしまおうか…

さて、昨日からの続きを考えたいな~とPCに向かいました。
障害者週間に障害者のことを考えてみる、どれだけ当事者の立場でいろいろと考えられるのか、そういう時間も良いなぁと思います。

障害者と出会うために必要なこと

障害のある人とない人が出会うには何が必要なんでしょうか。
個人的には、実は何も必要ないんじゃない?って思います。
何も必要ないって、何も特別なことは必要ない、っていうイメージ。

「障害のある人たちと交わるために、特別何かしなくちゃいけない」

っていうイメージを持つことなく、それが当たり前のこととして、準備できればいいじゃんって思う。
あ、優しさは必要かな(笑)
イベントだって時間と工夫、それとお金は必要になると思うけど、誰もが参加して、楽しめるようにしたらいいじゃない。
できるだけ多くの人が参加したいと思えるように工夫できれば、きっと扉は開くんじゃないか、そう思います。

合理的な配慮の義務化で機会は増えるか

合理的配慮が義務化されて、求めに応じて合理的な配慮を提供しなければならないと法律では決められています。障害のある人が、何かに参加しようとした時、それに参加しづらい障壁があれば、配慮をしなければならないというもの。そうでもしないと交わる機会が限定的になってしまう。
こういう法律によって、障害のある人とない人が自然に交わる機会が増えていけばいいなぁ~
と思う反面、自分自身で、うまく「求め」られない人たちはどうすればいいんだろう。そんなことも考えてしまいます。求めたい人が、「求め」られるような環境は整備されているんだろうか。
障害のある人たちの中には、自分の障害を把握できていない人や自分の言葉で「求め」られない人もいると思います。
そういう人たちと交わっていくためには、何ができるんだろう。

日本で生活するということ

日本にはまだまだ、「障害のある家族を家に留めておきたい」とか「施設に入れて社会の目の触れないようにしてあげることが、彼らの尊厳や幸せな生活を守る」ことに繋がるとか、そういう一種の「恥」として取り扱うような文化があると思う。実際に知的障害のある人の親御さんとお話しした時に、そういうことを仰っていた方がいた。ご高齢の方は特にこういう考え方が強い。
そう思うのが当たり前であった、そういう社会。
日本には、優生保護法(ゆうせいほごほう)なるものがあって、そういう法律を前提にした社会構造が出来上がってきた。この法律は、1948年(昭和23年)から1996年(平成8年)まで存在したので、本当につい最近まで、国民はこの考え方の下で、教育を受け、生活をしてきたことになる。

少しずつ意識も変えていけるはず

そういう社会で生きてきたから、当然のことながら、自分も当事者が抱える障害者を「恥」として取り扱ってしまう認識が、意識の奥底にあるのかもしれない。
仮に自分の身近に障害のある人が居たとしたら、障害者と一緒にどんどん外に出ていこう!と思えるまでの過程で、外に出したくないって思う瞬間もあるような気もする。
そういう社会で生活しているということを受け止めないといけないと思し、そういう環境で生まれ育っていることを自覚して、その意識をどこかで変えていこうという勉強をしなければいけないだろうと思った。

御礼

本日もお付き合いいただきありがとうございました。
障害者と出会うためにどう変われるのかっていう難しい問題について、考えてみましたが、やはり「これが正解!」と言えるものを見つけるには時間がかかりそう、それでも障害者週間という期間に少しでも自分事として考えてみることが必要である気がしました。
また、お時間がありましたら、覗いていいただけると幸いです。
よろしくお願いいたします。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集