アートのこと全く詳しくないけど、アートに触れると心が落ち着く
無性にアートに触れたくなることがある。
「アート」と聞いて思い浮かべるもの、その定義は人それぞれでいい。
もともと絵画や美術に造詣が深い人間ではない。むしろ浅い方の人間だと思う。なのに歳を取れば取るほど、アートに触れたくなる頻度、周期が早まっている気がする。
ITの業界でマーケティング的な仕事をしている。仕事をものすごくざっくり説明すると、「生活者にいかに自社の商品を知ってもらうか、覚えてもらうか、思い出してもらうか、購入してもらうかを考え、実行する」ということになる。
そんな世界にそこそこ長く浸っていると、世の中に溢れるあらゆる表現を見る時、作り手のマーケティング的な意図を考えてしまう。それが合っているなんて言うつもりはない。考えてしまうことが問題だ。
コンビニに売られているお菓子のパッケージ、雑誌の表紙に大きく、または小さく載せられたコピー、交通広告、テレビCM……。
僕たちの日常は広告だらけであり、商業的な“意図”だらけだ。もっとうがった言い方をするなら、僕たちの次の瞬間の行動をコントロールしようとする表現だらけだ。
外部的な刺激に限らない。普段の仕事の場面でも、自らの行動には意味や理由を求められる。「なぜそうしたのか」や「なぜその行為が有効なのか」を言葉や数字を浸かって説明すべき局面は多い。組織に所属し、自分以外の誰かと働く以上、それは仕方がないのだけれど。
ロジカルシンキング(論理的思考)、言語化、効率化、生産性、再現性……。こうした言葉が仕事では頻出する。「どういった目標を設定し、何が課題で、なぜその行動をとるべきなのか」が綿密に設計されている方が、多くの場合「優れている」とされるし、その設計が上手い人は「仕事がデキる」となりやすい。
そんな日常だからこそ、アートに触れたくなる。
何度も言うが、アートの定義は人ぞれぞれでいい。ただ、僕が触れたいものとは、作者の「私はこれを描かずには(創らずには、鳴らさずには、表現せずには)いられない」という想いを感じるものだ。もちろん、アート作品にも作者のメッセージが多分に含まれるし、それこそ強烈すぎるほどの”意図”がある場合も多い。
何かを発信する時、「どう表現したらもっと届きやすいか」と「うるせぇ!私はこう表現したいんや」とのせめぎ合いがあると思っている。
ビジネスの場面だと、前者が正解になることが多い。少なくとも、世に出るまでのどこかの段階で必ず前者が考慮されているはずだ。仕事は可能な限り利益を生み出さなければいけない。
一方、僕がアートに触れる時に感じるもの、あるいは感じたいと思っているものは、後者である。
0対100というわけではないが、理解しやすいとか、こうした方が最終的に儲かる、とかよりも「今の私はこれをこう表現したいんや!」の方が強く反映される。
その作者の、アーティストの、根っこにある人間らしさに触れている感覚に陥る。
アートには体温がある。
好きな人と触れ合うように、アートに癒しを求めている。