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ある朝のショックストーリー『言葉というものはもはや使えないシロモノなのか??』

ある朝のショックストーリー『言葉というものはもはや使えないシロモノなのか??』


先日、思いもよらぬショックなことがあった。仕事に向かうためにいつものバス停でいつものバスを待っていた時のことだ。

2~3分遅れてやって来たバスはけっこう混んでいた。

ギュウギュウ詰めでこれ以上乗せるのは無理…という場合、たとえ停留所でお客が待っていても運転手の判断でスルーされてしまうことはままある。オレもそれで乗車出来なかったことが過去2回ほどあった。

それもショックな話ではあったが、今回のはもっと別の何とも納得の行かないヤツだ。

今回はほんの少し詰めれば乗れるくらいの込み具合だった。だからその運転手も停車してくれたのだろう。

満員バスは大嫌いで、またいろんな意味で避けたいと思っているオレだが、次のバスを待ったり、他の方法を取っているととても時間に間に合わないので、止まってもらえてとてもありがたかった。

ところが問題はそのあとだ。

乗車ドアは開いた。しかし、オレは素直に乗せてはもらえなかった。入り口付近の乗客が誰も動こうとしないのだ。「えっ? コレみんな人形か?!」と思うほど無反応なのだ。

少なくともICカードをタッチする機械のところだけでも少しの隙間をくれないとどうにもならない。そこでそこにいる人に「ちょっとだけでも動いてもらえますか?」と声をかけた。

それでもその人は動かない。何故だ? 理由がわからない。次には少し大きな声でまわりの人にも「すみません。ほんの少しだけ詰めてください」と声かけした。

驚いた。何とそれでも人々は動こうとしないのだ。奥を見ると、詰められる隙間はいくらでもあった。こんなことってあるんだ! と愕然とした。

そしてふと見たら、いつのまにかICカードをタッチする部分だけ隙間が空いていた。どうして急に動いてくれたんだ? わけがわからない。とにかくやっとタッチ出来た。

しかしまだ問題は残っていた。本当に体を少しでも奥へ進めてくれないと、今度は内開きの乗車口ドアが閉まらないのだ。閉まらないとバスはいつまで経っても発車出来ない。

ほんの少しでいいのだ。それだけのスペースがあることは目に見えている。なければオレだってとっくにあきらめている。と言うか、スペースがなければそもそもバスは止まってくれない。ただ人々が動かないだけなのだ。

もう一度、今度は少々その辺の人を押し退け気味に「すみませーん。少しだけ詰めてください!」と大きな声で言った。そうしたらようやくドアが閉まるだけのスペースが出来、やっとバスも発車することが出来た。

結局オレが人を押したからバスが動いたと言っても過言ではない。何故か運転手は終始無言だった。もしかしたら「こんなヤツらに言葉で言ってもムダ」「ムリヤリ乗ればいい」とでも思っていたのか…。それとも自分が言う前にオレが先に声かけしてしまったからオレ任せにしてしまったのか…。

オレとしてはやはり一緒に声をかけてくれるか、オレの努力を引き取って自分の仕事として円満解決して欲しかった。

しかしこの件で何が一番ショックかって、もはや人間は人の言葉をまったく聞かないほどわがまま・自己チューに成り果てたのかということ。

言葉が通じないなんて有り得ない。たとえ言葉がわからなくてもまともな大人なら、「今、自分が何をするべきなのか」くらいの状況判断は出来るだろうに。

それともアレか? 言葉よりも実力行使で来いってか? しかしそれをやったらまちがいなく逆ギレされるだろう。やられたら絶対ムカつくだろう。

もしかしたら中には少しでも動いてくれたまともな人もいるのかも知れない。しかしその次の人が動いてくれなかったらそこにただムダなスペースが出来ただけで何の意味もない。それどころか動いてくれた人の先がまた少しきゅうくつになったに違いない。

自分がスマホを手にして見るスペースだけは確保しているくせに、今、自分がどういう状況の中にいるのか認識すらせず、他人の言葉も無視して自己中心的に生きている多くの人間たちと、ごく少数のまともな人間たちを乗せたバスはようやく次の駅前停留所に到着、さらにウジャウジャと行き交うそんな人間たちの海へと彼らを吐き出した。


                ・・・End



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晃介
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