【掌編小説】女郎の恋
時代は昭和。
遊郭の二階の窓、と言っても客を招く部屋のそれではない。かね子は布団部屋の小さな窓から、薄紫色に染まる鰯雲を眺めていた。一夜限りの女を求めてここを訪れる男に抱かれるだけの生活も、もう三十年になる。間もなく五十だ。
昔は人生五十年。とすれば、私は生涯現役というわけだ、そうかね子は呟いた。だが、現役といっても、今は遊郭通りに立たせてもらえず、もちろん玄関にも座らせてもらえず、酔っ払って相手を識別できなくなった客をあてがわれるばかりだった。
顔をピンク色に化粧し、それが遊郭通りの雪洞のピンクとの相乗効果で一層夜の闇に映えたのは遠い昔の話だ。もちろん今もかね子は頬をピンクに化粧してはいるが、薄暗い布団部屋にいるため、それは異様な雰囲気を醸し出すだけの色彩となっている。
昔は綺麗、いわゆる別嬪だった。いや、今も、昔は別嬪だっただろうと思わせるに充分な面影を残している。でも、この仕事では一線は張れなかった。かつてのナンバーワンも年齢には勝てなかった。それでもかね子は辞めなかった。置屋の方も、かつての功労者を無碍に扱うことができずにいた。
いや、正確には、かね子は辞められずにいたのだ。なぜなら、ある男を待っていたからだ。来るはずもないであろう男を……。
名を清三といった。清三は博打による借金にまみれていたが、働かないため、当然金も返せなかった。かね子が働き、借金を返していたが、追いつかず、仕方なくかね子は女郎の道を選んだ。他の仕事も考えたが、効率の良さを考え、女郎になった。ここだと一日に二十人は客をとれた。その分、稼ぎも上がった。
清三はかね子が女郎になったことに対しては何も言わなかった。ただ、賭場通いをやめた。その分、酒の量は増えたが。
他人から見たら、どうしようもない男だったろう。しかし、かね子は清三をどうしても見捨てることができなかった。
出会ったのは三十年と少し前、場末の飲み屋だった。信頼していた男に騙され、まるで身ぐるみ剝がされるように、私財をすべて奪われた直後だった。かね子は金もないのに、浴びるように酒を飲み、酔い潰れていた。そんなかね子を介抱してくれ、酒代まで払ってくれたのが清三だった。男に対して不信感以外の感情を抱けなかったかね子は酩酊状態の中、清三を振り払い、一人で帰ろうとした。
だが、清三は心配だと言いながら、かね子をガードするようにアパートまで送ってくれた。清三はかね子を布団に寝かせると、部屋を出て行った。出て行く際に言った言葉がかね子の脳裏から離れなかった。
清三は、「自分を大切にしろ。あえて自分で自分を苛めなくても、生きていくこと自体がしんどい作業なんだから。そのかわり、誰かが助けてくれるけどな。まあ、待っていればきっとあんたの元にも白馬に乗った王子様が迎えに来てくれるよ」と言ったのだった。
その後、清三とはしばらく会うことはなかったが、半年ほど経ったある日、町で偶然見かけた。今度は清三が飲んだくれていた。かね子は声をかけ、一緒に酒を飲み、清三の話を黙って聞いた。
清三はかね子より五つ上の二十五歳だった。煙管職人で弟子を持つようにまでなっていたが、叱った腹いせに、その弟子が店の金だけでなく、清三個人の通帳まで持ち逃げしたらしい。気づいた時にはもう遅かった。金は全部引き出されていた。もちろん警察に届けたが、調べた結果、弟子の名前も実家の住所も全部でたらめだった。手がかりは全くなく、お手上げ状態だった。それで清三は荒れていたのだ。
弟子を信用していたからこそ、身元を調べるようなこともしなかったし、腕を見込んでいたからこそ、叱りもしたのだ。だが、その弟子に裏切られた。いや、最初から清三を騙し、裏切ろうと企んでいたことがショックだった。金もないのに、飲まずにはいられなかった。あの時の逆で、今度はかね子が勘定を払い、店を出た。清三の作業場兼住居へ行き、しばらく一緒に過ごした。心配だったからだ。そして気づけばそのまま一緒に暮らし始めていた。
それからの清三は何に対しても後ろ向きで、仕事をせず、博打に狂った。かね子が稼いできた金を酒と博打につぎ込んだ。
かね子は、そんな清三を好きにさせた。いつか必ず再起すると信じていたのだ。だが、清三には賭場に莫大な借金があった。
妻でもなく、内縁関係にもないかね子には関係のない借金だった。しかし、かね子はそれを返すために女郎になった。
あの時、すべての財産を失ったあの日、かね子は死ぬつもりだった。だが、そんなかね子を救ってくれたのが清三だった。今度は自分が清三を助ける番だと思ったのだ。
かね子が女郎になったことで頭が冷えたのか、賭場へ行くことはなくなったが、その分酒の量が増えた。文字通り浴びるように、そして、あの時のかね子のように、まるで自分を苛めるような飲み方を繰り返すのだった。
そんな清三に、かね子は言った。「自分を大切にして。自分で自分を苛めなくても、生きていくこと自体がしんどいもんなんだから。だからこれ以上自分を苛めるのをやめて」と。
清三は、一瞬ハッとした表情を浮かべた。かつて自分がかね子にかけた言葉だと気づいたのだろうか。しかし、すぐにそれを隠すかのように、憤怒の色に顔を染め、怒り狂った。卓袱台を引っ繰り返し、襖を破り、酒の瓶を叩き割った。そして、玄関の戸を蹴破るようにして家を出て行った。
かね子は追いかけなかった。今は一人になりたいはずだ、そう思ったからだ。信じていたものに裏切られた清三の気持ちがわかったし、あの時も清三は自分を一人にしてくれた。
そのうちケロッとして戻ってくると思っていたが、しかし清三は何日経っても帰ってこなかった。
かね子は家を出た。それは清三の家であり、清三を待つためにはその家にいるべきだとも考えたが、逆に、自分がそこにいては清三がばつの悪さを感じ、戻ってきにくいのではと思ったのだ。
女郎小屋に住み込み、清三の借金を返した。それが五年も続いた。だが、新たに借金はつくらなかったようで、それ以降、取立ては来なかった。
ある日、番頭に使いを頼まれたかね子は、寄り道をした。清三の家を見に行ったのだ。だが、明らかに誰も住んでおらず、主のいないあばら家は廃れ、今にも崩れ落ちそうだった。
その様子は、現在の清三の姿を連想させ、かね子を嫌な気にさせたが、それでも彼女は清三を待ち続けた。清三はいつか自分を迎えに来てくれると。そしてそのためには、ずっとこの女郎小屋にいなければならないと考え、今もここにいるのだ。
出会い、束の間の同居生活を送ってからもう三十年以上になる。以来清三には会っていないし、行方知れずだ。それでも必ず来てくれる、かね子はそう信じていた。
何度も、自分は男運がない、男に利用されてばかりだと思った。それでも清三に関しては諦めきれなかった。なぜだろう。何度も考えた。そして出てくる答はいつも同じだった。
かね子は、自分を苛めるなという清三の言葉によって前を向くことができた。生きていくこと自体がしんどいのだから、自分を大切にしろという言葉で、死ぬことをやめた。
そんなかね子は、信じることを諦めきれなかった。
清三のことを真面目で腕のいい煙管職人だと近所の人は言っていた。かね子もそう思っている。生真面目な性分だけに、弟子に裏切られたことがショックで博打に走り、酒に逃げてしまったが、心根はやさしく、少し弱いところがある男だったのだ。人を見る目がないと言ってしまえばそれまでだが、清三は弟子を信じ、我が子のように愛したからこそ、厳しい言葉をかけ、時につらくあたったのだ。しかし、その愛は一方通行だった。それを、弟子の裏切りによって知るところとなった。
かね子は清三は悪くない、誰も悪くないと考えていた。強いてあげれば、生きていくための試練を与えられたのだと。それに負けそうになっただけなのだ。でも必ず勝つ、そう思っていた。そう思おうとしているのではなく、本当にそう思っていた。かね子の「自分を苛めるな」という言葉に激しく反応し、出て行ったのは、清三自身がそれをよくわかっていたからだ。わかっているからこそ、必ず立ち直るとかね子は今でもそう信じている。
もしかしたら今も自分を苛めているのかもしれない。世間に苛められているのかもしれない。真面目ゆえ、苛めから抜けきれないでいるのかもしれない。でも、今度は必ず自分の力で這い上がるはずだ。そして私を迎えに来る。
もし、誰かに話せば笑い飛ばされるだろう。呆れて、そして憐れむかもしれない。迎えに来るならとっくに来ている、いつまでも体を売る仕事などさせておくわけなどないと諭すかもしれない。何しろ三十年だ。
でも、かね子は待ち続けるつもりだった。清三が白馬に乗って迎えに来てくれる日を。
薄紫色に染まっていた鰯雲が濃い紫色に変わり、やがて七輪の上で鰯が焼けたように真っ黒になった。遊郭通りの雪洞のピンクが映えだした。
暗くなればいよいよかね子の出番だ。今夜あたり、清三がフラッとやって来そうな気がしていた。照れ隠しに酒に酔って。あるいは、酔ったフリをして。そして、客引きの老婆は酔客をかね子にまわしてくれる。
今夜あたり会えそうだ、そう声に出して呟くと、本当に清三に会えそうな気がした。