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ひかり(2)

「ひかり(2)」

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1985年1月(252号より)

「おい、まだか」

ドアを開いて顔がのぞき込んでいる。

「いま問診が終ったとこ。

順番が来るまでここで待っとくように言われてん」

亜里子のグラグラする頭をお手でささえながら、

私は、かすれた声を張り上げている。

大学病院の小児科は、母子づれでいっぱいだった。

しかし私には、どの子も亜里子より軽い病気のように思われてならなかった。


「遅いなぁ、えらい待たすなぁ」

夫の顔にも、焦燥感があらわれている。

やっと順番が来て、診察室に入ると、

若い医師の後ろにインターンの学生が、ずらりと並んでいた。

診察台に寝かされた亜里子のまわりを学生たちがとりかこむ。

赤ん坊は、大人たちの顔を見て無心に笑っている。

医師の手は、亜里子のお腹を強く押し、2回〜3回それを繰り返す。

「肺は、きれいやなあ」

こんどは、亜里子の首を押さえてもむ。

ヒイェーという感じで激しい咳が、口をついてでる。


「百日咳特有のものや。よく見とくように」

全身をくねらせて咳き込んでいる赤ん坊を見下ろして、医師は学生たちに言っている。

「肺炎までは行ってません。

三日後に又来てください」

「あのう、入院は出来ないでしょうか」

「入院しますか。ええと、病室はどうだったかな」

「今、いっぱいなんです。

空いていた部屋に、昨日T君が、はしかで入ったばかりです」


看護婦は、あわてて言った。


「じゃ、ともかく薬を出します。

三種類ありますから、必ず指示通り飲ませてください。


もし、具合悪くなることがあったら、今晩でも、夜半でも入院させてください」


私は、亜里子を抱いて立ちあがると、

「どうも、ありがとうございました」

と、医師に頭を下げて病室を出た。


「この薬を飲ませてください。

三日分あります。もし吐くようでしたら、夜半でもいいですから、入院の用意をして、

すぐに連れて来てください。

でも、まだ大丈夫ね」


亜里子の顔をのぞき込んで、ベテランの看護婦は、やさしく笑った。


「まだ、大丈夫ね」

と言った言葉の重みを、わたしは、自分の身体の節々にきざみこんだ。

「あぁ、神様、大丈夫でありますように」

帰りのタクシーの中で、リュウやクミのはしゃぐ声を聞きながら、わたしは

「大丈夫でありますように」

とばかり、繰り返していた。


遊んでいる子供を見つめながら、夫と私は黙ってテーブルについていた。

夫の表情は緊張のため厳しくなっている。

「ごめんなさい。私が悪かった。

ボーッとしてたから、

亜里子をここまで追い込んでしまったんよ。

でも、大丈夫、きっと直して見せる。

絶対直して見せる」


「そや、お前が悪いんや。

出産の時、出血多量でお前が死にかかったから、

俺が心身うち込んで、仕事も家事もやって来たのに、

お前は、亜里子の育児はそっちのけで、本ばかり読んでたやないか」

罰があたったのだ。

赤ん坊は眠らせてさえいればいいと簡単に考えていたから、

お乳をやることと、おしめを変えること以外何一つ考え及ばなかった。

四人目という安心感にあぐらをかいていたのだ。

「誰のたすけも借りない。私が直してみせる」

「よし、お前にまかす」

病院からもらって来た薬を、八時間ごとに三種類飲ませなければならない。

午後二時に飲ませると、夜十時、翌朝六時の三回である。

二時間ごとぐらいに亜里子は咳込み、痰が喉の先まで出かかる。

指を突っ込んで、痰をとろうとあせると、

ベビー服の中の小さな体は、いまにも力つきてしまいそうである。


咳の発作が終ると、すぐ乳をふくませる。

昼間なのに、まわりは暗く沈んで見えた。

開け放った窓から入り込む風だけが、初夏のメロディを奏でて通りすぎて行く。


午前二時、三種類の薬を飲ませ、おしめを変え、乳首をふくませる。

亜里子が咳き込む。

風景は重たく、だんだんと悪霊たちの姿が見えて来はじめた。

夜の闇のなかで大鼓をうち鳴らし、呪う声で赤ん坊を彼岸へ連れ去ろうとする。

亜里子がえんえんとせき込む。

ああ、何と重たいんだろう。

わたしは何処にいるんだろう。

夫は夜勤でいない。

赤ん坊の背中をさすり続ける。

ダイやリュウは寝てるのかな。

クミも寝てるのかな。

子ども達のべッドを覗く。

ダイもリュウも、ふとんをけ飛ばして、お腹を見せて寝ている。

ふとんをかける。

この子たちは生きている。

クミはどうかな。

クミのふとんをのぞく。

ぐっすりと眠っている。

ああ、クミも生きている。

闇の中でベタベタ張りついてくるものは、何だろう。

死神たちが、部屋中に眠んだ顔をならべて、赤ん坊をとり囲む。負けてしまいそうだ。

助けて欲しい。

朝になれば何とかなる。

朝が欲しい。

太陽が欲しい。


「ひかり(3)」へ続く

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1985年1月(252号より)

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