③<重要>児童発達支援ではこんな視点で子どもを考える。(5領域につながる)
①・②でShinchi的な視点先行での子どもの見方をざっくりですが、書いてきました。
食事を通して、座るということと箸を使うってことがいろいろな力の集合体であり、力を切り抜いて何かをできる力を養うのは無理ってことを書いてきました。
(文章下手なんで伝わってないのであれば、そういう事です( ´艸`)
で、今回は私が一番大切にしてる。視点!
全体像について書いていきたい思います。
はじめに
全体像ってことで話を進めていきますが、ちょっと抽象的になりますので、これは考え方って感じになると思います。
そもそも子どもって障害があろうがなかろうが、発展途上の人間です。
なので、運動だって、理解だって、言葉だって、排泄だってぜーんぶ課題にしちゃおうって思うと課題になってしまうんです。
健常児であれば、定形発達を基本は進んでくれますのであまり難しく考えなくとも、それなりの環境があれば発達をしていきます。
しかし、障害児の場合は環境があったとしてもその感覚や刺激などが正しく脳に伝わらなかったり、その量が通常より多く必要だったりします。
なので、そこには工夫や配慮が必要となっていきます。
そこには、全体感という視点がわたしは重要だと思っています。
全体感とは何なのか
強みを見つける
障害児を見るときにどこを見ていきますか?
私たち療育者は、弱さに対して何かの療育などの支援を求められることが多いので、「言葉が出なければ言葉の支援」「運動が弱ければ運動の支援」となりがちです。
よわさに対して、クローズアップしちゃいがちです。
親も療育者も本当に弱さに対して厳しいと常々感じます。
私は、強みを見つけるようにしています。
ADHDの子どもが、走り回って落ち着きがない・・・当たり前じゃないですか!!だってそれが特徴の障害なんだから!!
でもよーく見てください。その動きの中でその子どもの個性や強みが現れる場面があります。
視線がそれちゃうけど、また視線を戻すことが出来るとか。
周りの友達を見て、走れる場所を選んで走っているとか。
自分の体のことを理解して、無茶をしない程度に走り回っているとか。
視線を戻すってことは、意識が途切れても戻れる。継続できる理解があるんかな?
選んで走っているってことは、空間認知とか対人への意識があるんかな?
自らの運動能力を分かっているのならば、自分の体の感覚はある程度はいっているのかな?ってね
それから、単純に優しいとか楽しめるとか、笑顔が素敵とか好きな遊びは集中できるとか・・・
この辺に沢山たくさん療育っていうか、発達を伸ばすためのヒントがある。
弱さを見つける
障害特性はそのままなので、それはあまり深く考えずに私は、ごっくんします。
人への関心がない。
揺れに対して過剰に怖がる。
人が多いと動かなくなる。
大きな音が苦手。
受け身である。とか
この内容は、いうなれば発達の凸凹の凹の部分。
この凹の部分があるから、上手く発達意欲につながらないのか?刺激が脳に入力されないのか?
その子どもの現状のから逆算して、まずは一番のネックであろう凹の部分を考えて見つけていきます。
子どもの力を足し算的に考え伸ばす
では、どうすればいいのかってことです。
先程説明した、長所の力を利用して短所の部分を伸ばすことを考えます。
この辺は、子どもの力の分析力とその力と力の結びつきを考えることが必要になりますので、ちょっと難しいかもしれません。
イメージ的には、血管は身体全体に張り巡らされています。
しかし、その部分部分に血栓があり流れが阻害されている。
子どもであり障害児であるから、たくさんの血栓があるのだが、どの部分からその栓をとれば、良いのかってことです。
体の末端の方から栓をとったとしてもあまり意味がありません。
心臓に近い部分から栓をとってやると、血流が進んでいきます。
血管は色々なルートがあるので、どのルートから栓を抜いて開放していくのか?
それは、一人ひとり同じなはずはありません。
障害の重さも違えば、感覚も違う、長所だって短所だって、性格だって、家庭環境だって違う。
だから、全員オーダーメイドなんですよ。
どんなに経験を積んだ療育者だって、支援を方針には頭を悩ますんです。
具体的な療育の考え方
自閉症=絵カードすれば良いでしょ!
要求言語がない=ぺクスをすれば良いでしょ!
って直ぐに、当たり前のように同じ支援内容を持ち出す支援者は疑った方がいい。
既製品をあてはめられると子どもも親も苦労をします。
だって、四角の形の子どもに、三角の既製品を押し込むんですよ。
痛みも伴うし、恐怖だって伴う。
本人だけではなく、家族もね。
そんなことも気づけない療育者や保護者は
泣いている子どもを見て、「がんばっている」と勘違いする。
泣くぐらいの方が、療育としての効果があるように感じるって大間違いをしている人も少なくないのかもしれません。
時によっては、発達を促すために、子どもの背中を押すために、子どもを追いこんだり泣かすことは、当然あります。
でも、それはかなりの話をしたり、その子どもは必ず一歩踏み出せるという自信のある場合が殆どです。
療育者ならば、ちゃんと、そんな説明を保護者にすることが出来ますか?
保護者ならば、ちゃんと、そんな説明を療育者から受けていますか?
全ては、流れや裏付けがあるんです。
間違うこともありますが、子どもに対してのオーダーメイドのビジョンを持てない療育者はダメです。
この辺は、経験や学習度合いでスキルの差が出やすい部分ではありますが、例えば、笑顔で通えるようなって欲しいとか、運動を好きになって欲しいなど、その子どもに寄り添いながら漠然とした、思い出もいいと思ういます。
だって、それはその療育者が一生懸命考えたオーダーメイドの形だからです。
一生懸命寄り添って考えている療育者は、その形が違っていることに気付くと、修正を必ずすることが出来ます。
だから、安心できるのです。
三角なんだと、無条件の人は修正する気持ちも、気づきもないので無理です。
まとめ
人が人を育てる。
間違いがあって当然です。
まさしく、血の通った人と血の通った子どもとの関係から成り立つのが保育・療育なのです。(ここでは、生活も意識してあえて保育とう言葉を入れます)
笑顔で接し、子どもの為に本気で怒り、一緒に泣くことが出来、子どもの成功を我がことにように喜び、一緒に一喜一憂できる保育士だからこそ、その子どもの全体像が見えるだと思います。
どこで苦しんでいるのか?って
そんな場所を優しく手を添え、さすって温めその先に血を流していくことが出来るのです。
その作業は、すぐに結果の出る内容ではありません。
言葉が出ない子どもたちに対して、その保育士が”人の温かみ”を感じる子どもに変えることが出来たとします。
すると、その子どもは、人と繋がりたいという思いにつながります。
だから言葉というコミュニケーションとしてのつながりを求めるようになり、言葉が出る。
これの流れこそが、血管であり、つながっていく感じが血流となります。
これが療育であり、保育なんだと思います。
知識もスキルも必要ですが、それ以上に想いが何よりも必要だと
思います。
そんなことが出来る保育士はやっぱり尊敬です。
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