のらねこ、日本人はむしろ空気読めてない
一般通念として、『日本人は空気を読むことを大事にし、そして空気を読むのが上手』と言う考え方があります。
つまり日本人以外の世界中の民族は、どいつもこいつも空気も読めないアホばかりだと。
。。。んなわきゃねぇダロ。
ってのが今回の主旨です。
だとすると平均的な外国人はどこまで空気が読めて、そしてその能力は日本人と比べてどうなんでしょう――?
いつもお読みいただきありがとうございます。
あるいは初めて見てくださった方、久しぶりの方もありがとうございます。
僕は目標管理Webサービス Project Sylphius の開発・運営をしています、TOMCAT HEART の中島です。
何となしに何かがつまらない。なんとなく面白いことがない。
常にそんなふうに考えてしまいがちな人に足りないもの。
それは “目標管理スキル” です。
いつもつまらない感じがするのは、やることがないからです。
だったら自分がやることを自分で管理できるようになれば、それがつまり何でも楽しめるようになるってことと同じだからです。
この のらねこに何ができる? では、目標管理スキルのなんたるかを社会に広めるため、僕が自身で計画して自分で成しえてきた様々なことを、なるだけ面白く書いてお届けする内容です。
現在、“のら地球人に日本が分かる?” シリーズを連載中です。
いろいろな国の様々な言語学習を通じて、幅広い外国文化に触れていないと普通は分からない日本人像。
そういったものを僕の視点で書いていけたらと思います。
1. 実は空気読めてない日本人
そもそも “空気を読む” とは何でしょうか。
それについては様々なコラム記事などで様々なことが書かれていますが、ここではこう定義したいと思います。
そもそも論になりますが、本質的に会話とは、人間同士が感情を共有するための手段です。
現代人の方々におかれましては、会話を情報伝達の手段だと認識していて、人間が会話を通じて感情を伝達しているという感覚が、実はあまりない人もいるかもしれません。
でもその考え方はあくまで文明社会が出来てから生まれたもので、原始時代における会話とは、情報伝達の手段ではありませんでした。
当然ですよね?
原始時代に、そこまで確実に伝達されなきゃいけないような重要な情報なんて存在しないですし。
原始時代は結局、生きるか死ぬかだけじゃん?
にもかかわらず、始祖言語の発生は10万年前とも15万年前とも言われています。
言葉とは、文明が発展するはるか以前の時代からあったと考えられるもの。
ですから言葉は、伝えなきゃいけない重要情報があるから発達したのではなく、伝えたい気持ちがあるから発達したとしか考えられないんです。
言葉は本来、情報伝達のための手段ではなく “感情伝達の手段” なんです。
言葉は情報伝達、感情伝達、どちらの手段なのか。
この違いが今日のポイントとなります。
そして時は流れて現代――とりわけコミュ障を自認する人達は「他人の気持ちなんて分かりようがない」とか、のうのうと抜かしよりにけりまする。
言葉が感情伝達の手段なのだとすると、この発想は完全に “会話の放棄” であり、“人間としての基本的な活動の放棄” に他なりません。
なぜなら、普段から日常的に伝達しているものが、実は全く伝わっていないということになるからです。
日本人が日本人同士で会話をするとき、「それってどういうこと?」と聞き返すことで、文中に使われた一部の単語の意味ではなく、相手の発言意図そのものを聞き返すことってありますよね。
また、夫婦間のトラブルで、『奥さんから買い物を頼まれると、依頼されたものと全く違うものを買ってきてしまう人』の話もよく聞きます。
これら、日本人は「会話が通じなかったら世界中で起こりえるトラブル」と認識してますけど、少なくとも僕が知る範囲では、こういうことするの実は日本人だけなんです。
今まで何人か外国人の友達ができたこともありますし、その中には日本語があまり得意でなかった人もいますけど、こちらの発言意図そのものを理解してもらえなかったことは1度もありません。
もちろん僕の経験の範囲内という狭い世界の話ではあるのだけど、そもそも1回もないというのは確率論的どうなんでしょう??
そう考えると、日本人って、世界全体と比較して空気(つまり相手の気持ち)を全然読めてないことになりますよね。
というより、人間の感情を “空気のように漂ってるもの” というイメージで捉えている時点で、その言葉が誰から発されているかの視点が欠けていることになるのではないでしょうか?
2. 日本人はなぜそういうふうに育つのか
で、この “空気を読む能力” の低さに関して、先進国内では日本の成績だけが殊更悪いことが、様々な調査によって明らかになっています。
曰く、日本人は押しに弱い、
曰く、日本人は幸福を感じる力が弱い、
曰く、日本人はスパイト行動(意地悪行動)が多い、
曰く、日本人は横並び精神が強い
などなどなど。
これら全て、つまるところは “自分の身の回りを分析する力” が弱いからなるものばっかりですよね。
自分の行動方針を決める力が弱いから押しに弱くなる。
喜んでいいのか見極める力が弱いから幸福感が低くなる。
手伝えと言われてもどうしていいか分からないから無計画に突っぱね、それが相手には意地悪に写る。
そんで、どうしたらいいか分からないから、何も考えずに周囲に同調する傾向も高くなるのです。
これら全て、つきつめれば結局は身の回りを分析する力の弱さが原因です。
まぁ、そりゃあそうですよね。
日本は島国だし、地理的な関係で日本人には長らく『外国人』というものがなかったですからね。
自分と全く違う、精神的に相容れない人の心を分析する能力。そういったものを必要とされない時代が、あまりに長すぎたのです。
つまり、日本人自身がどう思っていようと、結局日本は地球の中心なんかじゃないし、日本はどうあがいたところで辺境の田舎なんです。
そう考えれば、海外になぜ “空気を読む” という意味の言葉がなく、日本でだけそういう単語が発生したのかも簡単に理解できます。
あまりにも「できて当たり前」のことすぎるから、言葉を作る必要性が生じなかったのです。
空気を読む能力が高い人と低い人の両方がいて、その区別をするために言葉が必要になったのが、日本だけだったんです。
3. 日本人はいつから空気を読めなかったのか
無論のこと、日本人の空気を読む力が弱くなったのは、別に空気を読むという言葉が出来て以降のことではありません。
私個人が調べた範囲では、日本語が成立するくらいの古い時代から、すでにアヤシかったようです。
それが証拠に、英語はわずか26文字のアルファベットであらゆる文章を執筆できるのに対し、日本語は、漢字・ひらがな・カタカナ含め文字を数千個以上も駆使しないと、基本的な文章すら書くことができません。
だって、日本人は ひらがな だけの文章を(実用に足る速度では)理解できないですからね。
このことを逆に言えば、「文章が圧倒的に親切に書かれていないと理解できない」と解釈することもできます。
また、この文章読解力の低さは単語の語彙数にも表れていて、日本語はだいたい8000語の語彙がないと日常会話すら成立しないと言われています。
それに対して英語はだいたい1500語、中国語の場合で3000語、韓国語は1300語くらいだそうです。
日常会話の基本語彙の数が、日本語の場合だけ圧倒的に多いんです。
なぜなら、ニュアンスの細かい様々な単語をきちんと駆使してあげないと、曖昧な言葉が理解できない人がそれだけ多かったからです。
たとえば、『写真を撮る』という言葉を『写真をとる』とひらがなで書くと、途端に意味が分からないと感じる人が増えます。
前後の文脈も含めて総合的に状況を捉える力が弱いため、それまでずっと『今日は1日中カメラを握りっぱなしだった』という話題に終始していたとしても、『写真をとる』とひらがなで書いた途端に「え? 盗んだの? 持ち上げたの? どっち?」と感じるのです。
カメラを握りっぱなしだったわけだから、この場合の『とる』は『撮る』と解釈すべきと分かってもいいはずなんだけど、分析力が弱いからそうは思わないわけですよね。
でもヨーロッパ諸語ではそんなことはありません。
英語では、日本語の『とる』に相当する動詞は take だけです。
イタリア語でも、英語の take に相当する動詞は fare と prendere の2つ。
日本語のように十数個もあったりしません。
状況に応じて様々な単語を使い分ける必要性を、ヨーロッパの人達は感じていないし、それくらい察せて当たり前だからです。
だから日常会話の基本語彙がとても少なくなるんです。
4. 空気を読めないことによって生じる具体的弊害
で、その弊害はどういったところに現れるのか。
個人的にパッと思いつく範囲では、初めて会う人と挨拶する状況が典型的なように感じます。
日本人は初めて会う相手と挨拶するとき、相手が誰だろうと、みんな一律にピシッとした印象を作ろうとするんです。
状況に応じて態度を変えることが基本的にありません。
むしろ、常にピシッと生真面目でいることが正しい(あるいは自然なこと)と思ってもいますよね。
でもこれ、実は決して正しくも自然でもないんです。
常識で考えたら、初めて会う相手に対しては “相手が望んでいる態度” をとるのが一番印象がよくなるはずです。
でも、相手の望んでいるものを推測する力が弱いから、常に同じ態度をとってしまうのです。
で、それが無難かというと別にそんなことはなく、たとえばイタリアでは、初めて行くアウェイの場で生真面目な振る舞いをすると、空気になろうと取り繕っていると伝わってしまうようです。
イタリア人は、生真面目にピシッと待機している人を真面目な人とは思わないし、何よりそんな人は望んでいないからです。
相手の言葉を妨害する勢いで積極的に大声でしゃべる方が、やる気があると思われやすいようです。
また日本人は初めて会う相手に丁寧な会釈をしますが、アメリカ人にこれをやると「握手を拒否された」と感じる人もいます。
まぁ、当然ですよね。
アメリカでは初めて会う相手とは、最初に握手するのが常識ですからね。
相手の手に触れないなんて、常識知らずもいいところです。
5. 今回オチはありません
といっても、別にね。
日本人が実は空気読めてないからって、それをどう改善しようとか、そういう話は今回はありません。
だってすぐにはどうしようもないことだしね。
個人的には、そういう不出来な一面を「和を重んじる」とか無理やり良い方に捉えるのはやめた方がいいと思うけど、でもそれだって僕自身がそう思うだけのことだし。
ただ僕としては、そういう空気も読まず『常にキチンと』はやめようって、いつも思ってはいます。
常に真面目であるべき
常にちゃんとしているべき
常にがんばり続けるべき
常に・常に・常に。
自分自身の態度が “常に同じ” じゃ、その場にいるはずの相手の気持ちを無視しちゃってるし、それって結局はマイペース・自分勝手ってことだし。
いろんな国の言語を雑多に学んでいると、会話相手の気持ちを分析する能力を鍛える意識が凄い大事なんだなって、ホント思います。
だってそれが本当の “空気を読む” ってことだからね。
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ここまでお読みいただきありがとうございました。
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