小学校の卒業文集で…考える二ノ宮金次郎
もとより動作がゆっくりで、兎より亀タイプだと自覚していました。
優柔不断で、家族で行くすらいらーくは好きな洋食メニューにオーダーまで
右往左往して…コーンスープの中に入ったクルトンが好きで、ハンバーグも唐揚げも好き、お子さまプレートにおさまりきれない好物たち。
そんな小学6年生は、合唱団の顧問であり担任であった先生から「音楽の教師に向いている。」と適職診断を受けました。歌うことが楽しくて、元来引っ込み思案だった私は認めてもらえたことと自分が裏方として次世代を育成する立場になる素質があることを嬉しく思ったことを覚えています。
その事を合唱の送り迎えや、運営のお手伝いをしてくれていた保育士の母に話したところ「1番好きなものが脅威に変わるから、音楽が苦痛になるかもしれない…」と考え直すように諭されました。母は、誕生日ケーキなど作るほど料理上手で、パッチワークやテディベア作り、お花やお茶など「できないことがないのでは…」と思うほど器用な人でした。その人生の先輩からの助言に対して、もっと裏方の適職を…と進路を模索し始めました。
中学校での介護施設を併設した慢性期の病院で、理学療法士の方々に出会い人と向き合う仕事に興味関心が湧きました。高校に入って、物理学や数学の限界を感じたため、高校1年生の担任だった家庭科の先生に「女性が自立して働くためには…?」と訊き、「〇〇なら、看護職なら向いているんじゃない?」と言われたことをきっかけに適職テストの結果と併せて、今の産業保健職を志望したことを覚えています。
様々な業種に興味関心があり、「職に貴賤なし」と母から常々言われていたため、学生時代は様々なアルバイトを経験しました。オペラ歌手の付き人、
携帯電話会社のオペレーター、スパイス会社での派遣、スーパーの売り子、
学会の運営スタッフ…いわゆる「影にある仕事」です。その経験を活かして、看護師として働いた後、精神科救急を経て、縁あって産業保健職に入ることができました。
漠然と「企業で働いているイメージ」があり、病院でも、市町村でもなく、ましてや介護施設でもない…本来あるべき場所に戻るようです。
そんな今までを支えてくれた音楽は、小沢健二さんの「ある光」
Mr.children「I’ll be(アルバムDiscoveryより)」、RadioHeadの
「everything in its right place」でした。言霊はあると考えます、突き動かす音楽は猪突猛進な私のトリガーとなって鼓舞してくれています。
音楽の力、作ってくれた音楽家の皆様。本当にありがとうございます。
様々な方の心の光を映し出すために、今は仕事や勉学に勤しんでいます。