メイヤスーをカンタンに読む(図解付き)|『有限性の後で』1章
『有限性の後で』
2010年代その広がりを見せ、インターネットを介して話題になった哲学的潮流「思弁的実在論」。その中心的人物であるカンタン・メイヤスーの代表作『有限性の後で』(2006) は、思弁的実在論に共通する「相関主義批判」を理解する上で重要な著作と言えるだろう。
本編はその相関主義批判について書かれた『有限性の後で』1章を、できるだけ素直に分かりやすく読んでいく。
一次性質・二次性質
一次性質・二次性質についての理論がある。「一次性質」「二次性質」という用語の初出はロックであるが、原理はデカルトから見られる。この古い質の理論はすでに失効してしまったように思われるが、我々は今こそこの理論を立て直すときである。
ロック・デカルトの哲学は事物の持つ性質(一次性質)と、事物と我々の感覚の間にある性質(二次性質)の2つを分けた。そして、現代においてこの質の古典的理論は失効している(特に現象学など、二次性質を思惟実態の変容とするロック・デカルトは強く批判される)。しかし我々は、感覚的なものが関係であって、事物に固有の性質ではないという区別は強く維持している。質の古典的理論を失効させたのはなんだったのか。
質の古典的理論(デカルト主義のテーゼ)が主張するのは単に質の区別だけではない。すなわち、古典的理論は次の2つを主張している。1.感覚されるものは主体と世界の関係としてのみ存在すること。2.対象の数学化可能な性質は主体との関係に関わらず対象の中に存在すること。そして、失効したのは特にこの後者なのだ。
批判哲学以後・カント以後
我々は質の古典的理論をナイーブなものとみなす。それは、質の古典的理論が完全に批判哲学以前のものであるからだ。(→批判哲学以前の理論が失効した事の本質は2章)
主観的観念論者のバークリー以後、我々は思考から抜け出して世界「それ自体」と「私たちにとっての」世界を比較できないことに気がついてしまった(独断形而上学による素朴実在論の失効)。ここでは、事物と表象を一致させられない。
カントはここで対象を再定義する。客観的な表象と主観的な表象を区別するのは(事物と即自の対応ではなく)間主観性―すなわちある共同体への同意―である。ここで科学的な客観性の基準が即自から「相関」へと更新されたのだ。
相関・相関主義
科学的=間主観的言説を正当化するものは即自(基体)ではなく相関(correlation)である。相関主義は、主体と客体それぞれの領域を独立に扱わず、世界と私たちの関係に注目する。彼らは悪循環や即座の自己矛盾に陥ることなく即自について語ることはできない(相関的循環)と主張する(また、関係項に対する関係の優位を謳う主張を「相関主義的ダンス・ステップ」と呼ぶ)。カント以降、哲学者のバトルラインは「誰が真の実体を思考しているか」、ではなく「どちらが最も根源的な相関を思考しているか」になったのだ。
(これは25ページ、上で言及している箇所よりももっと先、で言及され2章以降明確になることであるが、事前にここに書いておく)相関主義は批判哲学移行の乗り越えられない点として語られる場合、2つの様態で語られうる。一つは相関性以外の何物も把握しないというテーゼを掲げる超越論的な相関主義、もう一つは相関それ自体を(世界精神や意志のように)実体化する思弁的・形而上学的な相関主義である。後者は形而上学を含んでおり、厳密には相関主義ではない(2章以降、主観主義的形而上学・思弁的観念論と呼ばれる)。ちなみに、主観的観念論は神のような永遠の主体を提示することで原化石を所与として扱えるので、祖先以前性の問題では言及されない。(→思弁的という用語は63ページで「絶対的なものにアクセスできると主張するあらゆる思考」と定義される)
相関主義のイケナイところ
1.相関主義以降、現代人は〈大いなる外部〉を喪失し、独断論を失効させたことの喪の作業が不十分になっている。閉塞感を感じている。
(→見る限り本編では回収されていない伏線。『亡霊のジレンマ』へ続くと思われる。というのも、『有限性の後で』と『亡霊のジレンマ』はもともとメイヤスー未公開の博士論文の前半後半がベースになっており、内容的なつながりを維持しているらしいのだ。)
2.相関主義は、「人間にとっての」ことにしか言及しないという態度によって、祖先以前的な言明に科学が望むような基礎づけを与えず・無意味化する
人類の発生以前の現実を祖先以前的・祖先以前性(ancestral)と呼ぶ。また、こうした祖先以前性の物証を原化石と呼ぶ(例えば年代測定に使われる放射性同位体など)。
デカルト主義(対象の一次性質において数学的質が保証されており、科学的言明はこれによって保証される)によれば、祖先以前的言明はその指示対象が(どれだけ古いものでも)実在のものとして提示されうるような言明である。(→3章以降この方向で立論する)
対して相関主義においては(あらゆる存在は贈与によって存在するから)原化石が贈与以前の・贈与に先立つ存在だとは考えられない。
相関主義は祖先以前的言明の意味を二重化し、さらに後方投射することでその客観性を保証する。すなわち、相関主義において現化石は、贈与以前の存在として贈与される(贈与される-そのうえで贈与以前の存在と見なす)と考えられる(意味の二重化)。また、その客観性は過去の実在との一致ではなく、現在においてその経験(=科学者の検証)が権利上万人に再生産できることに基づいていることによって定義される(後方投射)。
しかし、相関主義は祖先以前的言明を科学者に対して正しく保証していない。メイヤスーによれば祖先以前的言明は科学者が意味する通りの実在論的言明でしかありえない。というのも、相関主義の意味する通りならば、祖先以前的言明は不可能な出来事を現実のものとして語っている・思考可能な対象を持たない客観的な言明である。これが意味するのは、科学者は実験によって実験に意味を与える外的指示対象を目指しているにも関わらず、(相関主義者にとって)本当は、科学者は思考不可能な対象の実験によって実験そのものの普遍性を目指していることになる。(これでは科学者のしていることの意味がわからない。)そして、相関主義は科学と距離を取らざるを得なくなる。
(メイヤスーはこの後、相関主義による現化石の問題の無効化について①反事実的条件法による解消②超越論的視点による祖先以前的時間の無化、という2つの案を考慮する。が、①は時間的な隔たり・主体の不在を、空間的な隔たり・目撃者の不在にすり替えていることで、②はむしろ科学的時間が超越論的時間の条件であることで、無効化に失敗するとしている。それぞれ議論としては興味深いが、取り上げると煩雑で長くなってしまいそうなので割愛したい。)
2章への導入
我々はここで、祖先以前性が哲学の問題を構成することを理解する。一つは「いかなる条件のもとで、祖先以前的言明が意味を保持するのか」。そして、こちらはより根源的であるのだが、もう一つは「祖先以前のものについての知を作り出す経験科学の能力をどのように考えればいいのか」である。後者は次のように言い換えられる、「いかにして何らかの存在が、その現出以前の存在を表すことができるのか」すなわち、ある物証が経験そのものに先立つ世界についての情報を数学化された言説によって解明可能なものとして提示するのは何によってかである(これを〈現化石のパラドクス〉と呼ぶ)。
我々は相関主義に対し祖先以前性の問題・〈現化石のパラドクス〉を突きつけることで実在論へと歩みをすすめることになった。我々は批判哲学以後・相関主義以後の哲学者として、(批判哲学以前の独断論に逆戻りせず)祖先以前的言明を科学にとって有意味にすることのできるデカルト主義のテーゼに至りたい。(→なぜ批判哲学以前のデカルト―独断形而上学―でも思弁的観念論でもなく、新たなデカルト主義なのかは2章)
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【参考】
カンタン・メイヤスー 千葉雅也・大橋完太郎・星野太 訳 『有限性の後で』 2016年 人文書院