エッセイ⑤
図書館についての話
散々、創作について語っていたのだが、私は素人である。今回は、図書館について話したい。
私の過ごした地域では、公共図書館が無かった。私が中学校3年生の頃に、図書館ができた。そのため、小中の頃の大半は、学校図書館かもしくは古書店、書店が情報を知る手段であった。私は、漫画を描きたい、創作をしたい、知りたいという人間であり、常に情報に対する飢えがあった。
私が司書という職業に興味を持ったきっかけは、中学生の頃であった。
2013年辺りだったと思う。その当時、戦争をテーマにしたある本の映画が公開され、メディアでも話題となっていた。学校図書館にも、著者H氏の小説はいくつか入っていたため、クラス内でも読んでいる子は数人いた。その当時は、作者の政治思想についてなど詳しいことは知らず、小説は小説として読んでいた。その年の夏休みの読書感想文の課題で、私は著者H氏の本を読んだ感想を書いた。
すると、夏休み明けに学年集会が開かれることになった。
「教育に悪影響があるかもしれないので、H氏の本は図書館から撤去することにした」という内容であった。同じ中学校に通っていた友人に、この出来事のことを覚えているか聞くと、「職員室に小説が置かれていたよね」と話していたので、確かなことである。
図書館から本が無くなる。私にとって、その出来事が衝撃的であった。その集会後、先生に呼び出された記憶もあるが、正直、トラウマになっているため、何を言われたのかあまり詳しいことは思い出せない。
なにより「私、もしくは生徒の誰かが読んだことで、その本が規制された」ということにショックを受けてしまった。
教育に悪影響を受けるという、先生の言葉は正しいことかもしれない。だが、どの点に悪影響があるのか、この本の問題点はどこであるのかといった説明を受けないまま、本自体を規制することは、いいのだろうか。「本を買えばいい」という意見もあるかと思うが、私は「知る自由」があまりにも容易に制限できることの怖さを感じていたのであった。この出来事以降、私は中学校の図書館に足を運ぶことができなくなった。
似たようなことは、他の学校でも起きているかもしれない。読書が好きな他の子がこんな思いをするのは、耐えられないと思った。「司書」になればこんなことは起こさずに済むかもしれないという気持ちになり、今に至るのであった。(ただの無謀なのかもしれないし、他にも道はあったのかもしれない)また、図書館を題材にした小説で『図書館戦争』があるが、私はタイトルが苦手で、大学に入るまで読むことを避けていた。
高校時代は、美術部と写真部に入り、「美術を教えることのできる人間ってすごいな」ということで、教育学部の大学に志望していた時期もあった。しかし、美術部の子でアーティスト気質のある子がいて、(アーティストだったらこの子がいるから大丈夫だ)という気持ちになった。また、小中高とずっと仲の良い友人は、記者もしくは出版社に入るために阪大を目指していて、(出版業界やマスコミならこの子がいるから大丈夫だ)という気持ちになった。
最終的に、それならば、私は、「図書館」「図書館の自由」について勉強してみたいという心境になったのだった。
ただ、コロナ禍と同時に始まった大学生活は楽なものではなかった。
同学科の同級生とつながりがない状態でのオンライン授業、入構禁止の大学、館内利用ができない大学図書館と、思い描いていた大学像とあまりにもかけ離れていた。もう筆は取らないと決めて、大学に入学したのだが、図書館について勉強らしい勉強もできなかったため、「創作活動をしても大丈夫」と少しだけ自分を赦したのだった。オンライン授業は楽しく受けていた。(論文サイトで毎日、研究論文を3時間以上読んでいた)
自分自身に「大丈夫」と言い聞かせる日々であった。だが、希望の見えない生活は、思っていたよりも体に負担が来ていたようで、胃に穴が開いてしまった。うっかり、自殺未遂をしてしまったときもあった。
そんな人間でも、大学の卒業答辞を読むことができた。大学生活は、できなかったことの方が多く、後悔していることは山ほどにある。(その中でも、評価して頂いたことは感謝でしかない)
ゼミの先生は「図書館の自由」を専門に扱っているため、私は卒論で専門領域に入り込みこてんぱんになった。(いつも、先生からの問いを1週間ぐらい頭の中で考えて、「こういうことか?」と解釈して実践もしくは聞いたりするのだが、私はどうやら察しが悪いらしい。多分、思うようにいかない学生だったのではないか)
今、図書館界は司書の多くが非正規雇用であることが大きな問題となっている。(先日、決起集会があったという報道があった)私は、働きたての新人で、司書としての技術は無いに等しいかもしれないが、それでもできる限りのことはやっていきたいと思う。