『図書館の自由と検閲』AJアンダーソン著のリアルタイム感想
序
ラルフ・パートン・ペリーの言葉、なるほどと思う。思想の表現、理解ができないと選択肢が見えなくなるということか。
悩める図書館員ってよく聞く表現だよね。自由は制限の内にある。自由に限界があるならば、どこがそれにあたるのか?
図書館員は小心な人間らしい。私、働き始めて2ヶ月目で上司が始末書を書くことになった。多分、小心とかではなさそう。
財政援助は打ち切られる、仕事が危険にさらされ、奪い取られる、図書館サービスも妨げられるという事態が起きるかもしれないのである。とあるが、これは、現代の図書館に当てはまるのでは?少なくとも、私の勤務する大学図書館は、午後の閉館は一人で行う。いつ、変質者が来て殺されてもいい覚悟で、一人図書館にいなきゃならないなんて…司書としての心持ちとは違うのでは?と思う。もしかしたら、私が本を燃やす可能性だってあるのに。(一人に閉館活動を任せるということはそういうことよな?とも思う。燃やさないが)
◇今こそ声を大にして
5月7日付のセンチネル紙上における投書
(娘を殺された家族からの投書)犯人は、残酷なテーマの本や、過激な記事や写真を所有していたとのこと。その他の凶悪犯も、罪を犯すまでにそのような本ばかり読んでいたと書いている。民主主義は無責任を表すものなのか?責任ある人は、責任を持って検閲すべきとのこと。(現代の図書館の立場とは、真逆なスタンスである)
心理学者でも意見が分かれるらしい。異常行動の引き金となるか、免疫、安全弁の役割を果たすか。今の図書館は、どちらかというと後者なのかしら
□ コレジア夫妻および新聞の論説による議論を綿密に検討し、館長からどう対処するか聞かれたとき、あなたならどうするか?
⇒暴力的な内容の資料であっても、資料を収集し提供するのが図書館の努め。
殺人者が事件を起こす前に、そのような資料を読んでいたとしても、閲覧の自由、21条「表現の自由」、19条「思想及び良心の自由」や、13条「生命、自由及び幸福追求の権利」の権利がある。(日本国憲法を参照)
つまり、暴力的な内容の資料も、権利によって守られるのである。この事例の場合、コレジア夫妻の娘が亡くなったことは不憫な出来事であるが、かといって蔵書の資料を規制することには結びつかない。⇒特に、規制などの対応をとるべきではないのでは、という結論。
また、内容が過激なものを規制するということが通れば、他のものもOKとなる?
◇教えることに喜びを
内容の要約
真面目で意欲的なケネディ先生は、政治的革命家の問題を授業で取り上げた。メディア・センターから借りた『終わりなき現代史の課題』を引用したが、著者は、冷笑の的になることこそが、現代の政治的反逆者の基本的特性であるとしている。そのため、本の中にある「マザー・ファッカーよ、壁をぶち破って進め」という言葉の歴史をたどることにした。この言葉を引用したことが問題になる。ケネディ先生はクビを言い渡されるが、断固として闘う姿勢であった。メディア・センターのムーアの元へ、校長が「蔵書からは除籍して欲しい。生徒の誰かが、または父母が来て、学校がその本を持っているかどうか調べることだって当然ありえますからね。もう除籍したと言えるようにしたいのです」
■ あなたならケネディ先生にどんな助言をするか。彼から援助を受けたら、どう応えるか。この種の事件に自由人権協会は関心を示すのか?校長の命令にどう対処するか。あなたは、学校組織への忠誠と知的自由の擁護との明らかな対立をどう解決するか?
⇒授業をしたこと自体は、問題ではない。自由人権協会が関心を示すのかは分からない。やはり、図書館の自由と、学校組織は対立する存在なのか?(図書館の自由の問題は、学校図書館にそもそも当てはまるのか?という論争になるのか)
この問題の場合も、やはり、校長からの指示に従うべきではないと考える。(一度、所蔵しているものであるし、ムーアは、授業の補助になると思い入れた図書である。問題ならば、入れる段階で議論するべきだ)
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