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民主主義を破壊する反共カルトと戦犯③-09🏫イジメとネトウヨの棲息地09👹⛩[中間集団全体主義①(反知性の群畜👹)]

民主主義を破壊する反共カルトと戦犯③-09🏫イジメとネトウヨの棲息地09👹⛩[中間集団全体主義①(反知性の群畜👹)]


表向きの🇯🇵社会では、なかなか見かけないが、ネット上では暗躍して、
まともな日本人🇯🇵を嬉々として集団で迫害したり、虐殺に追いやったりする
ネトウヨと言う「鬼畜👹が実在」しています。薄々気づいてる人も多いですが、残念ながらこれは、ファシスト👹やナチズム🇩🇪との闘いであり、放置すると、
犠牲💀や被害が広がる一方で、もはや避けては通れない🇯🇵社会問題に
なりつつあります。しかし、ネトウヨはあれだけ大勢居ながら、奴らの生態は
資料や研究もなく、全く分かっていません
。このシリーズでは「イジメ」
を介して、その発生や生態を読み解いて解明していこうと思います。
内藤朝雄氏📕の「いじめの構造」はやや難解なので、独自の解説を加えながら
その「イジメの構造と鬼畜👹の実態を明らかに」していきます。

イジメの構造と鬼畜👹の実態を明らかに






第5章1節 閉鎖空間でベタベタすることを強制する学校制度


第5章1節1項 学校共同体主義イデオロギー


【カルト学校】

日本は、学校が児童生徒の全生活を囲い込んで、いわば頭のてっぺんから爪先まで学校の色に染め上げよう🧠とする、「学校共同体主義イデオロギー
を採用している。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より


【カルト洗脳】

学校では、ひとりひとりの気分や振る舞いが互いの深い部分にまで影響しあう
集団生活による全人的な教育の共同体が目指され、それがひとりひとりに
きめ細かく強制される
。若い人たちは、一日中ベタベタと共同生活することを
強いられ、心理的な距離を強制的に縮めさせられ
、さまざまな「関わり合い
強制的に運命づけられる
これが自動車教習所とは異なる「学校らしさ」である。
学校運営の根幹は、生徒たちを日々調教して、その骨の髄までて沁み込んだ
習慣の内側から
、この「学校らしさ」を実現し維持することにある。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

個性豊かな子ども達を日々調教して同じようなトルーパー
を育成する時代錯誤なシステムが「🇯🇵学校」なのである。

個性豊かな子ども達を日々調教して「同じようなトルーパー」を育成するシステム
個性豊かな子ども達を日々調教して「同じようなトルーパー」を育成するシステム
個性豊かな子ども達を日々調教して「同じようなトルーパー」を育成するシステム


【「中間集団全体主義👹」】

この学校共同体主義は、ただ夢のような通念として世にいきわたっているだけ
でなく、具体的な教育制度・教育政策に支えられて、特定年齢層のすべてを含んだ

中間集団全体主義👹」として、現実に成立している
(「中間集団全体主義👹」については、第7章で詳しく述べる)。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

中間集団全体主義👹」として、統一協会🏺のようなカルト宗教と日本企業や
日本の学校が変わらないのは、次の統一協会🏺の合同結婚式と
日本企業の入社式、高校の入学式を見れば一目瞭然である。

統一協会🏺の合同結婚式
日本企業の入社式
高校の入学式


【関わり合いの無理強いシステム】

学校は聖なる共同体であるとして、生徒が全人的に関わらないでは済まされぬ
よう、互いのありとあらゆる気分や振る舞いが互いの運命に大きく響いてくる
よう、制度・政策的に設計されている
その制度・政策的ディテールは、生徒を全人的に囲い込み「関わり合い」
を無理強いするように考え抜かれている

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より
カルトの集団生活と同じ


【強制収容制度】

学校では、これまで何の縁もなかった
同年齢の人々をひとまとめにして(学年制度)、
朝から夕方までひとつのクラスに集め(学級制度)、
強制的に出頭させ、全生活を囲い込んで軟禁する
(実質的には強制収容制度になっている義務教育制度)

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より


【小集団自治訓練の場所=学校】

現行の学校制度は、このように狭い生活空間に人々を強制収容したうえで、
さまざまな「関わり合い」を強制する
たとえば、集団学習、集団摂食、班活動、掃除などの不払い労働、雑用割り当て、学校行事、部活動、各種連帯責任などの”過酷な強制を通じて”
ありとあらゆる生活活動が小集団自治訓練となるように、しむける

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

無意味な過酷な強制」の最たるものが「素手でトイレ掃除」のような
掃除崇拝であろう。無能が従順さに興奮するだけの、無意味な強制である。

無意味な素手トイレ掃除の強制
無意味な素手トイレ掃除の強制





第5章1節2項 過酷な政治空間


【自分の運命がいつも周りに左右されるよう訓練される】

このようにありとあらゆる生活活動を囲い込んで集団化する設計は、
水も漏らさぬ細かさで「友だち」や「先生」と関わり合わずにいられず、
自分の運命がいつも「友だち」や「先生」の気分や
政治的思惑によって左右される状態
をもたらす。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

無能教師🧠が気持ちよく威張る一方、怯える子どもたちを量産する。
要するに、教育ではなく、虐待しているだけである。

無能教師🧠が気持ちよく威張る一方、
怯える子どもたちを量産する。
教育ではなく、虐待しているだけ


【コンサル小山の生殺与奪の権!】

そしてあらゆる些末な生活の局面が、他者の感情を細かく気にしなければならない
不安な集団生活訓練となる。立場や生存が賭けられた利害
(「強者」と「弱者」の関係では生殺与奪!)の関連性は非常に密になり、
生活空間はいじめのための因縁づけ・囲い込みの資源に満ちる

こういう環境では迫害や嫌がらせに対して身を守るのが、むずかしくなる

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

ビッグモーターのように、「部下の生殺与奪権を与え」イジメのための難癖や
因縁づけがし放題の環境
だと、大人でも「迫害や嫌がらせに対して身を守るのが難しい環境」になってしまう。ましてや、子どもだと尚更である。

ビッグモーターの「迫害や嫌がらせに対して身を守るのが難しい環境」
ビッグモーターの「迫害や嫌がらせに対して身を守るのが難しい環境」
ビッグモーターの「迫害や嫌がらせに対して身を守るのが難しい環境」
ビッグモーターの「迫害や嫌がらせに対して身を守るのが難しい環境」
ビッグモーターの「迫害や嫌がらせに対して身を守るのが難しい環境」


つまり、現行の学校共同体制度は、身の安全をめぐる利害関係を、構造的に
過密化する。そこでは、他者の気分次第で自分が「安んじて存在している」
ことができるための足場が、容易に掘り崩されてしまう

生き馬の目を抜く」ように、いつ何どき「友だち」や「先生」に足をすくわれるかわからない過酷な環境では、「身の安全」「大きな顔をしていられる身分」
といった希少価値をめぐる人間関係の政治が、過度に意味を持つようになり
そして、とてつもなく肥大する。
すなわち学校が全人的な「共同体の学び」となるように意図された設計が、
最低限の安全を保つのに必要な社会的資源のコストを暴騰させ
そこから過酷な政治空間を生み出すのである。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より


【学校は「迫害可能性密度の高い空間」に設計されている】

ここで、誰かが誰かの運命を左右するチャンスがちりばめられた空間を、
迫害可能性密度の高い空間」と呼ぼう。
迫害可能性密度」は、制度や政策が生活空間におよぼす効果を考えるときに、
シンプルであるが重要な評価の高値基準となる。
強制的共同体主義の学校制度」は、生活空間の迫害可能性密度を著しく高める

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

世界で一番「迫害可能性密度の高い空間」が、パレスチナのガザ🇵🇸であろう。
しかし、日本の学校🏫は、これとほぼ変わらないのである。

世界で一番「迫害可能性密度の高い空間」が、パレスチナのガザ🇵🇸
世界で一番「迫害可能性密度の高い空間」が、パレスチナのガザ🇵🇸





第5章1節3項 学校の聖域扱い


さて、ひとりひとりの若い市民に聖なる学校共同体が運命として降ってくる
制度・政策的マクロ環境(以下この節では「環境」と省略する)が、その、
ひとりひとりの生活の質(Quality of Life)に、どのような環境の効果を
及ぼしているのだろうか?
さらに深く掘り下げて考えてみよう。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より


先の【事例14・いつも人の行動に注意して、びくびく生きている】は、人間関係の政治(集団心理-利害闘争)が生活空間を埋め尽くす典型例である。
この場合、物理的暴力とその可能性を予期させるおびやかしが、
主要な迫害メディア(媒体)となっている。

このタイプの政治空間(生徒や教員による校内暴力団支配)は、通常の市民社会の
論理で考えれば、被害者や目撃者が即座に110番通報👮‍♂️して、学校に警察を呼ぶ
だけで、あっという間に一掃できるはずである。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より


【暴力教師や性加害教師を刑務所に】

【事例14】の「ボス」の一派は学校ではなく少年院に送られるべきだし、
暴行教員は「指導力を認められて」校長になるのではなく、
法が定める犯罪者として刑務所に入れられるべき
ではないか。
被害者には、高額の損害賠償金が支払われるのが当然である。
これが、一部の独裁国家や、武装民兵が支配する地域をのぞく、
まともな法治国家のありかたであろう。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

恐らく日本社会は、長年、脱法しまくりの反共カルトが支配し、法の支配がなく
マフィアが街を仕切っているような権力構造が癒着した街になっているため、
このような「イジメ被害者や性加害被害者などの多くの被害者が救済されない社会」になっていると考えられる。

法の支配がないマフィアが街を仕切っているような権力構造が癒着した街


しかし学校は、心と心の交わりによって、互いのありとあらゆる気分や
振る舞いが、互いの生の深い部分にまで沁み込みあう聖なる共同体
であるとされ、
その内部を市民社会の論理と切断しておく不断の努力によって、特殊な社会
として保たれている。学校の聖域扱いは、制度と政策に支えられた学校運営法
として、さらに、われわれの社会の「あたりまえの善き慣習」として、
定着している。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

学校🏫が、「市民社会の論理と切断しておく不断の努力によって特殊な社会として聖域扱い」されているように、宗教やカルトも伝統を隠れ蓑に「市民社会の論理と切断しておく不断の努力によって特殊な社会として聖域扱い」されており、
その事が「宗教2世の虐待被害」や「学校や家庭のカルト化」に結びついて
いることも憂慮すべきである。

統一協会🏺などのカルトの学校など公教育への侵入🪱

統一協会🏺などのカルトの家庭教育への侵入🪱

カルトや反社勢力を追い出す事が大事


このような学校の聖域扱いが強固なあたりまえ」になると、市民社会の論理
によって学校内の暴力に対処することができなくなる
というよりも、「そんなことは思いもよらない」という現実感覚が蔓延する。
たとえば、スーパーマーケットで市民が市民を殴っているのを見かけた別の
市民は、スーパーマーケットの店員の頭越しに警察に通報するだろう。
その通報者は市民の公共性に貢献したとして賞賛される
しかし学校で「友だち」や「先生」から暴力をふるわれた生徒が、
学校の頭越しに警察に通報したり告訴したりするとしたら、
道徳的に非難されるのは「教育の論理」を「法の論理」で汚した被害者のほう
である。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より


【卑怯者が育成される理由=訴えられないから「何をやっても法によって制限されないという安心感を持つことができる」】

いじめ被害者の多くは、学校の頭越しに警察沙法や裁判沙汰を起こすといった
瀆聖(とくせい)的な選択肢を思いつくこともできない
いじめで自殺する少年の多くは、加害者を司直の手にゆだねるという選択肢を
思いつくことすらできないままに死んでいく

それに対して、加害生徒グループや暴行教員は、自分たちが強ければ、やりたい放題、何をやっても法によって制限されないという安心感を持つことができる。
学校では、厳格な法の適用が免除されるという慣習的な聖域保護政策のために、
「友だち」や「先生」によるやりたい放題の暴力が蔓延する

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

学校」や「宗教」など、「慣習的な聖域保護政策」のためにやりたい放題の暴力が蔓延する。
また、運送業、土建屋、IT関係や介護業界の日本企業の経営者や技能実習生を雇う農家などの中には、「慣習的な聖域保護政策」のために「労働基準法を採用していない会社」などと言う頭のおかしな経営者のいる企業が多く存在する。
頭のおかしな経営者が「群生秩序👹」でやりたい放題に経営していることは明らかである。

労働基準法を採用していない会社
労働基準法を採用していない会社
変だな…と思った会社のルールや言い分






第5章1節4項 悪口、しかと、くすくす笑い


さて、これまで述べたように、聖なる教育の共同体としての学校は、
迫害可能性密度の高い政治的な生活空間でもある。
この迫害の媒体(メディア)は、暴力とは限らず、悪口、「シカト」「くすくす笑い」など、コミュニケーションの操作によるものもある。
コミュニケーション操作を媒体とするいじめについても、
これまで述べた政治空間論(第4章参照)や、さきほどの社会的資源論が、
ほぼそのままあてはまる(ただし、暴力由来のいじめとコミュニケーション
操作系のいじめとでは、法的介入がおよぼす効果という点で、
大きく異なっている
)。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より


【勘違いする】

悪口や「シカト」「くすくす笑い」といったコミュニケーション操作系の
いじめだけで生徒が自殺することがある

市民状態にあって心理的な距離を自由に調節できる人は、
「シカト」などのコミュニケーション操作系のいじめ
被害者が非常に苦しみ、ときには自殺にさえ至ることを、不思議に思う
なんでこんなことぐらいで、そんなに苦しむのか?
単純明快につきあわなければよいではないか
」、という訳である。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より
悪口イジメ自殺


【「自由な市民の状態」ならば「心理的距離の自己決定ができる」】

確かに「自由な市民の状態」であれば、心理的な距離の自己決定によって
即座に彼(変女)から「引く」ことができる
人間誰でも「嫌なやつ」や「敵」の1人や2人はいるものだが、
市民状態であれば公私の境で自由に距離を設定し、
その設定ラインを超えて踏み込ませないことが可能である

この人とはホームパーティに誘い合う仲だが、
あの人はプライベートな関係には立ち入らせず、
関係を事務的なものに限定する、といった心理的距離の自己決定である。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

公私が峻別された市民状態では、コミュニケーション操作系のいやがらせは、
それを不快に感じる側が自由に「引く」ことによって、
大きなダメージに至る前の段階で終息する

嫌がらせをする側は、それ以上相手を追うことができない
すなわち「つきあってもらうことができない

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より
断ると「つきあってもらう」ことができない
断ると「つきあってもらう」ことができない


しかし学校共同体では「単純明快につきあわない」ということができない
朝から夕方まで過剰接触状態で「共に育つかかわりあい」を強制する学校では、
心理的な距離の私的な調節は実質的に禁止されている
学校では、たとえ赤の他人であっても、「友だちみんな」と一日中をつきあわせてベタベタしなければならない。

誰と生々しいつきあいをし、
誰と冷淡なつきあいをするか?を自己決定できない場合、
「嫌なやつ」の存在は耐えがたい苦痛になる。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

【マイクロアグレッションによる精神的ダメージの蓄積】

たとえば、顔を合わせるたびに「ちょっとした」悪意のコミュニケーションを
仕掛けてくる者たちがいる
としよう。コミュニケーションの受け手は、学校では
悪意の者たちとの距離を遠ざけ、その生々しさを薄めることができない

そして距離の調節ができないことに漬け込んで、悪意の者たちは生々しい関係
を保ちながら、永遠と悪意のコミュニケーションを浴びせ続けることができる

やっていることのひとつひとつは、無視、悪口、陰口、嘲笑といった、
一見「たいしたことない」行為
だが、個としての対人距離の調節を禁止された
共同体で「これでもか、これでもか」とやられると、それだけで耐えがたい苦痛

となる。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より
悪意のコミュニケーション
悪意のコミュニケーション

そして、この苦痛から身を守るニーズが増大し、このニーズをめぐる利害構造が
巨大化する
。この巨大化した利害構造に枠づけられて集団心理-利害闘争
政治空間(第4章参照)が肥大し、圧倒的な存在になる。
それは、集団生活を送るひとりひとりの生徒は、「絶対的な運命の力」として
あらわれる。このような生活空間で蔓延する人間関係の政治が、
最初の人間関係の苦しみと、それを避けるためのニーズを拡大再生産する

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より
悪口を言われないようにするニーズが拡大再生産する
悪口を言われないようにするニーズが拡大再生産する
悪口を言う側の心理






マルティン・ニーメラー牧師の警句🚨

マルティン・ニーメラー牧師の警句🚨
マルティン・ニーメラー牧師の警句🚨






書籍紹介



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🏫イジメとネトウヨの棲息地👹⛩シリーズまとめ(INDEX用)



民主主義を破壊する反共カルトと戦犯シリーズまとめ(INDEX用)


伊丹万作「騙されることの責任」

もちろん、「騙す方が100%悪い」のは紛れもない事実である。
その上で更に「騙されることの責任」を考えよう。

伊丹万作「騙されることの責任」

もう一つ別の見方から考えると、いくら騙す者がいても誰1人騙される者がなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。
つまり、騙す者だけでは戦争は起らない。騙す者と騙される者とがそろわなければ戦争は起らない。一度騙されたら、二度と騙されまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。騙されたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
伊丹万作「戦争責任者の問題」より


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