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民主主義を破壊する反共カルトと戦犯③-03🏫イジメとネトウヨの棲息地03👹⛩[イジメの実態③]

民主主義を破壊する反共カルトと戦犯③-03🏫イジメとネトウヨの棲息地03👹⛩[イジメの実態③]



表向きの🇯🇵社会では、なかなか見かけないが、ネット上では暗躍して、
まともな日本人🇯🇵を嬉々として集団で迫害したり、虐殺に追いやったりする
ネトウヨと言う「鬼畜👹が実在」しています。薄々気づいてる人も多いですが、残念ながらこれは、ファシスト👹やナチズム🇩🇪との闘いであり、放置すると、
犠牲💀や被害が広がる一方で、もはや避けては通れない🇯🇵社会問題に
なりつつあります。しかし、ネトウヨはあれだけ大勢居ながら、奴らの生態は
資料や研究もなく、全く分かっていません
。このシリーズでは「イジメ」
を介して、その発生や生態を読み解いて解明していこうと思います。
内藤朝雄氏📕の「いじめの構造」はやや難解なので、独自の解説を加えながら
その「イジメの構造と鬼畜👹の実態を明らかに」していきます。

イジメの構造と鬼畜👹の実態を明らかに




イジメの実態③


第1章3節7項 「いま・ここ」の関係


【本能のままに獣や鬼として生きること=ナチス化🇩🇪】

いじめ被害者はみんなの玩具。

このような場での倫理秩序を一言でいえば、「すなおに生きること」だと
いえよう。いじめ被害者は、あくまでも「われわれ」の関係の中で「玩具として
在る。みんなが共に生きる間柄を離れて彼が彼としての実体的な生命やこころを
もっており、それを「われわれ」の「いま・ここ」を踏みにじってまで
尊重しなければならないといったことは、吐き気をもよおすほど不自然な理屈だ。

あるいは、遊ぶ者玩具同じ人間として平等であるという論理は、
人間と牛馬が同じ生物として平等であるというのと同様
「いま・ここ」で現に生きられている関係を無視した奇怪な抽象論理だ。

むきだしの関係主義者たちが、このような不自然で奇怪な論理を押しつける者たち、すなわち人権や普通的ヒューマニズムの側からいじめをやめさせようとする者たちをひどく憎むのは当然である。中学生たちが、人間の尊厳を説く講演者
挑戦的な表情で、上目づかいににらむ」(【事例3】)のは、そういう
ことなのだ。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

自己愛性パーソナリティ障害(NPD)の特性として、「❸自分は特別な存在だと信じている。」「❺特権意識を持っている。」と言う妄想がある。
そして「その”特別である”という誇大妄想を現実化するため」に「❻自分の利益のために巧みに他人を利用する。」と言う特性がある。
なので、「自分が特別であると感じさせるための”玩具が”平等”」であり、
相手の意志を尊重しなければならない」とは、「受け入れ難い理屈
なのである。

自己愛性パーソナリティ障害(NPD)の特徴


【法を超えた秩序=ノリの秩序】

👹群生秩序の「いま・ここ」のもとでは、いじめはよい」。
われわれは、「いま・ここ」が響きあう共同体のなかで位置のある人間として、
仲間の中で生活し仲間と共に生きていくならばいじめをしなければならない

それは個を超えた、大いなる関係の倫理である
それに対して、そのときそのときの感情連鎖の場とは独立して、普遍的に
「人間の生命」が尊いなどということのほうが、不自然な「悪い」感覚
である。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

人として欠陥があるので、自分に「自己陶酔を与えるために存在している玩具」に「人権がある」「平等である」と言う考えは、生理的に受け付けられない
のである。「法の遵守ができず」「抜け道ばかり探す」「正当化する言い訳を探し続ける」浅ましさがあるのである。
また、「仲間の中で生活し仲間と共に生きていくならばいじめをしなければ
ならない
。」のは、もし、イジメに加担しない人がクラスに居ると、
加害者たちから見れば、「いつ裏切られてチクられるかわからない」と言うリスクがあり、それを避けるため、計算高い彼らは「敢えてクラスみんなで赤信号を渡るように仕向け」て「弱みを握るためにイジメ加担させて共犯者にする」のである。

赤信号、みんなで渡れば怖くない


【共犯者にならない奴は自己中で傲慢で人殺しより悪い】

安心して悪事や犯罪ができる環境を作り上げる」のである。
なので、一緒に悪事を働かない者は信用ならない、として、
加担しない人は正しいことをしている」にも関わらず「ワガママ」と
論理をすり替えて」仲間から外し、「人殺しより悪い」と
憎悪を燃やし、「執拗にイジメたり、攻撃する」のである。
なので、「ワガママなのは”ワガママと言う”加害者」の方である。

彼らにとって、人権や普遍的なヒューマニズムは、「いま・ここ」の関係の
絶対性において悪い。わたしたちの関係の絶対性を共に生きようとしない
個の傲慢は、人殺しよりも悪い

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

【悪ノリは神聖にして犯すべからず】全能感=自己陶酔

玩具(イジメ被害者)の生死は取るに足らない。

彼らの心理・社会的な秩序にとっては、ノリは神聖にして犯すべからず、である。
つかの間の全能感ノリこそが「生命」であり、その結果、「玩具」身分の「人間」が死ぬか生きるかなどは取るに足らないことなのである。

いじめが蔓延する場の生徒たちは、仲間とノリを共に生きる付和雷同を通じて、
特有の「よい」「悪い」、あるいは自分たち独自の倫理秩序を体得しており、
それに対して、大人の予想を遥かに上回る自信と自負を持っている。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より
生死は取るに足らない感覚

【人権や死を軽視する感覚】

信頼関係がまったくないにもかかわらず濃密に密着しあっている関係という謎。

彼らの「人間の死💀を軽く見る」傾向や、「個人と個人との間に信頼関係がまったくないにもかかわらず濃密に密着しあっている」傾向は、確かに実感としては驚くべきものかもしれない。

しかし、ここまで本書を読み進めていただいたなら、
中学生たちが人間の生命を軽視することが、もはや不思議でなくなるはずだ。
「いま・ここ」で生きられている関係主義的存在論と倫理秩序を考えれば、
彼らが自信を持って
「あっ、死んじゃった、それだけです」
「死んじゃったら、それはそれでおもしろいじゃん?」
「遊んだだけよ」
(【事例3】)
といった発言をするのも、驚くに値しない
死の実感がない」といわれる中学生たちの言動は、
ここで説明したような、彼ら独自の倫理秩序に整合する帰結である

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

明治期に作られ、第二次世界大戦で大日本帝国が滅びて、反省の上に新しい戦後を始めたハズだったにも関わらず、大日本帝国の失敗を正確に分析し切れず
人間の死💀を軽く見る」ような学校制度をいつまでも維持している時点で
戦後の「日本の教育は根本から全て敗北で大失敗だった」のである。

赤の他人と一日中ベタベタ共同生活することを強いる学校制度のもとで、
生徒たちは生活空間を遊びのノリで埋め尽くしながら、そのノリを規範の準拠点
とする「自分たちなり」の秩序を生きる。そしてこの秩序のなかで彼らは、
酷薄な関係主義的存在論をこともなげに生き抜いてしまう

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

👹群生秩序から読み解く「共同親権問題」

👹群生秩序にとっては「群れ」が何より大事なのである。
例えば「群れ→家庭」に置き換わったケースが「共同親権問題」と言える
であろう。弁護士でありながら「耐えられるDV」などと、DVに耐えられないのは「ワガママ」と、加害者が被害者に「論理をすり替えて責任転嫁する
弁護士兼国会議員だが、彼の思想の根底にも「妻は夫の玩具であり
夫に従わない玩具の生死は取るに足らない」と言う発想が見え隠れしている。
離婚し辛い社会が健全」の谷川とむ議員も似たような思考であり、
👼市民社会の秩序を重んじる岡村晴美弁護士の「人権をベース」にした
耐えられるDV批判」などは、「受け入れ難い理屈」なのであろう。
是非、読者は、この問題を再考して欲しい。

「耐えられるDV」の柴山議員
「耐えられるDV」の柴山議員
「離婚し辛い社会が健全」の谷川とむ議員
岡村晴美弁護士の反論






第1章3節8項 みんなのノリの絆

実は、同じ「」と言う言葉を使っても考え方が違っている
①👼市民社会の秩序の「
  ⇨まず「個人」があって、その個人と個人が絆を結ぶと考える
②👹群生秩序の「
  ⇨まず「みんなの関係」があって、「ノリの絆」「群れの絆」
  「共犯関係の絆
」があって、「個人はおまけ」

このような心理-社会的な秩序においては、”人が生きる絆の質”も異なってくる
わたしたちは、まず個人があって、その個人と個人が絆を結ぶと考えがちだ。

しかし事例にあるような中学生たちの学校共同体では、まずみんなの関係が
第一次的にあり、個人はその第二次的な項として、(関係規定的・函数的に)在る。
当然”みんなのノリの絆”に対して、”個人と個人の絆はそれ自体では無に等しい”

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

【保身で加害加担】

脳死🧠で条件反射のような形で蹴る?

たとえば、ほんの数分前まで「仲良く」じゃれあっていた「友だち」が、
みんなから「浮いた」としよう。すると次の瞬間、「仲良く」していたはずの
生徒は、”当人にも何が何だかわけがわからず意地悪な気持ちになり”
みんなと一緒に「友だち」をバンバン蹴る

このとき、共同体のなかでパブロフの犬のように身体化した
われわれの善き慣習」が、関係の第一次性として生きられている。
このとき蹴っている者の”現実感覚の半分はこすっからい保身”であり、
あとの半分は、「わたしが蹴る」というよりも、「わたしの中から関係が蹴る」、
あるいは「わたしの中からノリが蹴る」とでもいったものだ。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

【集団に同調することが唯一の規範】

蹴られた人が負傷したり死んだり💀して事情聴取されるとしたら、加害者たちは
「何となくノリで蹴っていた」
「おもしろいから蹴った」
「遊んだだけ」
と言うだろう。
その場の空気を読んで集団に同調することが、
唯一の規範である学校共同体では
個人の責任などという事態は生じ得ない」のだから、
彼らは”自分の行いに対して責任をとろうとはしない”だろう。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

集団のノリ」に乗れば、「個人の責任などという事態は生じ得ない」のであり、
個人の責任を取ろうとしない」のは当然だと考える。
いじめ加害者や加害親が「必死で言い訳したり」「被害者の悪評をバラ撒いて
責任を取らずに済まそうとするのは、自己愛性パーソナリティ障害(NPD)の
責任転嫁したがる特性と、👹群生秩序の「個人の責任などという事態は生じ得ない」と言う「無責任かつ傲慢な考え方」に基づくものである。

自己愛性パーソナリティ障害(NPD)の特徴
👹群生秩序の「個人の責任などという事態は生じ得ない」
と言う理屈で責任回避したがるイジメ加害者の親
👹群生秩序の「個人の責任などという事態は生じ得ない」
と言う理屈で責任回避したがるイジメ加害者の親


【ネトウヨの臣民仕草の原型】

自分が好意を持って近づこうとする以前に
運命としてベタベタさせられる生活環境で、
生徒たちは、個人で愛したり、憎んだり、楽しんだり、
むかついたりするのではなく
みんなのノリを感じ取り
その盛り上がりに位置づけられた「自」の「分」としての
「自-分」の感情を身分的に生きる
あるいは、そのようなこころの動きの軌跡として
自分が在るとでも言うべきかもしれない。
このように「ノリ来たりて我を照らす間柄感覚の無責任のおかげで、
生徒たちは”身もこころも軽くなって”、
「ひとりではできないことを平気でやる」

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

👹群生秩序における「ひとりではできないことを平気でやる
 ⇨これを「同調圧力」と表現するのであろう。
決断する前に「自分で調べて考え、判断することなく」この「みんなやってるから大丈夫」と言う「同調圧力」で、「みんなやってるから万が一バレても自分だけ責任取らなくて大丈夫、と予め責任回避も考え、利害計算の上」で「無責任になって簡単に悪事や犯罪に手を染める」のが、👹群生秩序に従う愚かな”日本人🇯🇵の大きな特徴”である。

「みんなやってるから万が一バレても自分だけ責任取らなくて大丈夫、
と予め責任回避も考え、利害計算の上」で
「無責任になって簡単に悪事や犯罪に手を染める」
「みんなやってるから万が一バレても自分だけ責任取らなくて大丈夫、
と予め責任回避も考え、利害計算の上」で
「無責任になって簡単に悪事や犯罪に手を染める」

自壺党🏺の裏金問題

👹群生秩序の「みんなやってるから万が一バレても自分だけ責任取らなくて大丈夫、と予め責任回避も考え、利害計算の上」で「無責任になって簡単に悪事や犯罪に手を染めた」顕著な例が、「自壺党🏺の裏金問題💰」であろう。
他のみんなやってるから」と言う「無責任感覚」で「自民党議員が身も心も軽く犯罪に手を染めていた」ことが証言からも浮き彫りになる。

👹群生秩序の「みんなやってるから大丈夫」で言い訳する自民党議員
👹群生秩序の「みんなやってるから大丈夫」で言い訳する自民党議員
👹群生秩序の「みんなやってるから大丈夫」で言い訳する自民党議員
👹群生秩序の「みんなやってるから大丈夫」で言い訳する自民党議員

弁護士でありながら、「派閥の指示で疑問に思わなかった」などと言い訳する
柴山議員や、「違法だと知らなかった」と言い張る弁護士でも稲田議員など、
👹群生秩序の「みんなやってるから大丈夫」「赤信号みんなで渡れば怖くない」の心理で、「組織的な裏金作りに平気で加担」する自民党の倫理観の低さが
浮き彫りになったと言えよう。
自分達は「選ばれた特別な人間」「特権階級の人間」であるというモラ(NPD)特有の意識が、稲田議員や柴山議員の口から漏れ出てるのを感じ取れるであろう。
まさに「信頼を築く」ためでなく「女性や国民を欺くため」に議員として
言葉を駆使している」様子が伺える。

「派閥の指示で疑問に思わなかった」などと言い訳する柴山議員
「違法だと知らなかった」と言い張る弁護士でも稲田議員
「特別な人間」であるという意識が漏れ出る稲田議員の発言
「国民を欺くための言葉」

このように考えれば、これまで挙げた事例は、余すところなく理解可能になる
もう一度事例に目を通していただきたい。

次章以降では、いじめに関わる「心理-社会的なメカニズム」をより深く分析しながら、この章で述べたことを、さらにくわしく述べていきたい。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より





第1章 コラム1:いじめの定義

【イジメは子どもだけではない】

いじめは若い人たちに特有のものではない。
いじめはどんな社会集団にも生じる。
一定の制度・政策的環境条件下では、老若男女あらゆる集団でいじめは蔓延する。
もちろん教員が生徒を迫害するのもいじめであり、
親が子どもを虐待するのもいじめである。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

【2つの攻撃のタイプ】

いったい何から何までがいじめなのだろうか?
いじめのような臨床的な概念は、実践的な要請に応じて、
日常語から可能性を引き出すような仕方で操作的に定義すればよい。

類書を紐解くと、「被害者の意識を基準にした定義」が散見されるが、
それには問題がある。他人(被害者)が「いじめ」あるいは「苦痛」と感じさえすればいじめであるとすれば、それは何でもいじめになりうる。実際、自分にとって気にくわない他人の言動は、多かれ少なかれ精神的に苦痛である

また、いじめを単なる攻撃と区別しないような考え方もあるが、
いじめと単なる攻撃は異なる
攻撃には、
「目的のための手段」としての「①戦略的攻撃」と、
他人を苦しめることを味わおうとする「②嗜虐的攻撃(しぎゃく)」がある。
実際には、この二つは結合していることが多いが、
それ自体、別のものである。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

【①戦略的攻撃】

「目的のための手段」としての攻撃は、純粋にそれ自体では、
いわば利害計算の「解」すぎない。
戦略的な攻撃の場合、目標にたちふさがる障害が除去されればよく、
”相手が苦しむか苦しまないかはどうでもよいこと”
である。

たとえば子どもの治療費のために銀行強盗をしたら、
それもいじめと呼べるだろうか?
合理的な手段として暴力によって怖がらせる作業は、
それだけではいじめではない。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

【②嗜虐的攻撃】

それに対して嗜虐的攻撃では、他者が苦しむことがはじめから要求されている。
そこで目指されているのは、「加害者が前もって有している欲望のひな型」が、
(殴られて顔をゆがめるといった)被害者の苦しみの具体的な形によって
現実化されること」
である。
加害者は、「他者の運命を掌中に握る感触」を、
壊れゆく他者の苦しみのなかから、我がものとして享受しようとする
(これはある種の自己感覚追求ツールとしての他者コントロールである。
詳しくは第2章を参照)。この「嗜虐意欲」が、「いじめ概念のコア」である。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

自己愛性パーソナリティ障害(NPD)が
自分が特別な人間であると言う全能感
自分が特別な人間であると言う自己陶酔感」を得るために、
他人を利用し」他者を虐げ「他者が壊れゆく苦しみの表情を浮かべる」のを見て
他者の運命を掌中に握る感触」を得て「圧倒的な優越感を感じる」ことで、
全能感」を”具体的に感じとっている”ことがわかる。
それ故、その「嗜虐意欲」が、「いじめ概念のコア」と言う訳である。

自己愛性パーソナリティ障害(NPD)の特徴

他人を利用し」他者を虐げ「他者が壊れゆく苦しみの表情を浮かべる」のを見て

「他人を利用し」他者を虐げ「他者が壊れゆく苦しみの表情を浮かべる」

他者の運命を掌中に握る感触」を得て「圧倒的な優越感を感じる」ことで、
全能感」を”具体的に感じとっている”嗜虐意欲」が、「いじめ概念のコア

「他者の運命を掌中に握る感触」を得て「圧倒的な優越感を感じる」ことで、
「全能感」を”具体的に感じとっている”「嗜虐意欲」が、「いじめ概念のコア」

いじめが成立するためには、
①加害者の嗜虐意欲、
②加害者による現実の攻撃行動、
③被害者の苦しみ

という三つの要素が必要である(いじめの三要件)。
以下では、この三要件を概念の中心に位置づけて、いじめを、
①最広義、
②広義、
③狭義

の三段階に分けて定義する。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

①最広義のいじめ定義A「実効的に遂行された嗜虐的関与」

いじめ概念のコア」にあるのは、「加害者側の嗜虐意欲」である。
それが加害者側の行為を通じて「被害者側の悲痛として現実化」し、
その手応えを加害者側が我がものとして享受」する。
これが「実効的に遂行された関与」ということの意味である。

また「実効的に遂行された」という項目によって、
人知れず丑の刻参りをして藁人形に五寸釘を打ったが何の影響力もなかった」
といった場合を除外することができる
いじめは、一人称の心理的な情熱ではなく、
あくまでも”心理社会的な相互作用として成立”する。

ただこの定義Aだと通り魔のケースも含まれてしまう。
我々がいわゆる「いじめ」らしく感じるいじめの多くは、
”何らかの社会状況に構造的に埋め込まれること”によって生じる
したがって、次に示す広義の定義Bがもっとも自然な定義になる。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

②広義の定義B「社会状況に構造的に埋め込まれた仕方で、実効的に遂行された嗜虐的関与」

一個人による孤立的行為がおよぼす有害作用は、集団化したタイプに比べれば
相対的にたかがしれている。たとえば小学校低学年によくみられる、
グループを組まない乱暴者による純粋な一対一のいじめは、
学級制度(被害者は制度的に所属を強制され、加害者との関係を切断することが
できない)という社会状況に構造的に埋め込まれているが、そこに集団の力は
作用していない


それに対して、もっとも研究に値するいじめの中核群は、
群れた「みんな」の勢い、あるいは「自分たちなり」の特殊な秩序を背景にしたタイプである。そこで狭義のいじめの定義Cは次のようになる。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より

③狭義の定義C「社会状況に構造的に埋め込まれたしかたで、かつ集合性の力を当事者が体験するようなしかたで、実効的に遂行された嗜虐的関与」

以上が、筆者によるいじめの定義である。

内藤朝雄氏📕「いじめの構造〜なぜ人が怪物👹になるのか〜」より






マルティン・ニーメラー牧師の警句🚨


マルティン・ニーメラー牧師の警句🚨
マルティン・ニーメラー牧師の警句🚨






書籍紹介




🏫イジメとネトウヨの棲息地👹⛩シリーズまとめ(INDEX用)



民主主義を破壊する反共カルトと戦犯シリーズまとめ(INDEX用)


伊丹万作「騙されることの責任」

もちろん、「騙す方が100%悪い」のは紛れもない事実である。
その上で更に「騙されることの責任」を考えよう。

伊丹万作「騙されることの責任」

もう一つ別の見方から考えると、いくら騙す者がいても誰1人騙される者がなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。
つまり、騙す者だけでは戦争は起らない。騙す者と騙される者とがそろわなければ戦争は起らない。一度騙されたら、二度と騙されまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。騙されたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
伊丹万作「戦争責任者の問題」より


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