旅ランぼちぼち京都 疏水沿いを行く3
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訂正 :
6月18日放送のブラタモリ、ご覧になりましたか?
わたくし、ウソをついておりました。
① みささぎ川 → みそそぎ川
② 木屋町に流れるのが高瀬川。床の立っているのも高瀬川。
ーーー違いましたあ!ーーー
木屋町は高瀬川ですが、床の土台にある川は、みそそぎ川でした。あーー!
鴨川から西に離れた高瀬川ですが、東へ先斗町を超えた鴨川沿いにも川は流れていて、床の足場を流れています。
違う川に決まってるじゃないですか。
ああーー、何十年も住んでいて、若い頃は夜な夜なうろついていたのにそのことに気づかなかった(薄々おかしいとは思っていた)なんて…..つまりこういうことです。
謹んで訂正いたします。
ではなかったことにして、本編をご覧いただければ幸甚です。
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白川放水路・冷泉放水口から、前回のゴール地点蹴上までを走ります。
2022年6月11日
地図にするとこんな感じ。
なかなかの観光地巡りになります。
① 鴨川西岸 二条大橋北
岡崎で疏水に流れ込む白川。その白川の増水時、疏水が溢れるのを防ぐため増水分を鴨川へ逃す短い運河が白川放水路です。通常時は水はなくカラの状態です。
右側は疏水本体の排水溝ですが、排水口直前で90度南へ曲げられ、通常時は全量が鴨川と並行して伏見方面へ流れていきます。
なので通常時はここから鴨川への排水はありません。
西側の土手を上がったところでこんなものをみつけました。
石垣をくり抜いたような四角い穴から絶え間なく水が流れ出てきます。
(鴨川西岸、二条大橋北で北向きに撮影)
位置的には高瀬川のはず・・・・
飲んで鴨川までぶらぶらする時に必ず渡った川。フラフラしながらボーリングしての帰りには、ハマりそうになった。今はちょうど夏の納涼床の足場になってたりします。
その始まりがこんな形だったとは。初めて見ました。
ネットで調べてみました。
出町加茂大橋でみそそぎ川として鴨川から分岐。
二条大橋下流で高瀬川を分ける。(なので今いるここは、まだみそそぎ川ということになる。)
取水地点からここまでは、鴨川公園の地下を流れている。
高瀬川は、江戸時代初期に角倉了以(すみのくらりょうい)、素庵父子によって開削された物流運河
ほんと知らんことは山ほどある!
② 二条大橋
冷泉放水口で南に向きを変えた疏水は、伏見方面へ。
③ 鴨川東岸
冷泉放水口の真上は遊歩道が途切れ、橋がかかっています。
覗き込むと豊かな水量が90度南に曲がり鴨川運河に吸い込まれていきます。
この先の夷川船溜りで二つの水路が分かれています。
ギリ雨の降っていない今日は、白川放水路はカラ運河です。
④ 夷川水力発電所
第二疏水と同時に建設された発電所。当時の市長は西郷菊次郎。西郷隆盛と愛加那の長男です。
煉瓦造りはなんとも味があります。
疏水事務所の横、夷川船溜りに立つ第3代京都府知事 北垣国道像。
明治政府は出し渋ったようですが、このとき受け取った恩賜金が様々な京都の発展に使われ、当時巨額だった疏水予算の一部となったそうです。北垣知事、かなりのやり手だったことは間違いない。
⑤ クランクの入り口。南向きの屈曲部。
⑥ ロームシアター京都
以前の京都会館
「日曜少年のつどい」はいつもここでした。
古くから京都にお住まいの方はご存知ですよね。
合唱や、かぶりものの人形劇。映画なんかもあったかな。当時の小学生のほとんどは行ったことがあるんじゃないかと思います。
♪ にっちようー しょぉねーんーのつっ どっ いー
ここだけ覚えてる。
懐かしさ
甘酸っぱい郷愁
ぼんやりとした少年の記憶
連れてきてくれた母親
そんな思いがふわりと横切っていきます。せつなくなります。
「つどい」は昭和53年(1978)ごろまでは行われていたようです。
⑦ クランク出口
⑧ みやこメッセ
昔話ばかりで恐縮です。
ここはその頃京都で唯一のスケート場「キョートアリーナ」のあった場所。
小学生の頃よくきました。自転車で。片道6キロはあったはず。でも気にならなかった。
帰りには必ずホットドッグを買って食べていました。
跳ね上げた軽バンのリアから、ちょっと怖そうなおっちゃんが作って無愛想に渡してくれるホットドックは、たまらなく美味しかった。
待ってる間、調理を食い入るように見ていました。
① パンに切れ目を入れて、あらかじめ作り置きしてあるカレーキャベツをトングで押し込む。
② ソーセージをキャベツの中に押し込む。
③ 小さなトースターに入れて焼く。
これで完成。
カレーキャベツの黄色が今でも強烈に印象に残っています。
トースターが小さくて一度に二、三個しか焼けなかったのが、腹が立つほど歯がゆかったのを覚えています。
⑨ 国立近代美術館
10 京都市京セラ美術館
11 琵琶湖疏水記念館 外観
12 琵琶湖疏水記念館
琵琶湖疏水記念館の地下から裏側にまわると蹴上船溜りに出て、そのままインクラインに入れます。(結構登りになります。市営地下鉄蹴上から下るのが正解。)
13 蹴上疏水公園
田辺朔郎が育った田辺家は江戸時代、徳川家旗本という名家だったそうです。
何不自由のない暮らしが激変したのは、慶応3年10月、徳川慶喜による大政奉還でした。官軍から逃げるため、家族は江戸を離れ親戚縁者を頼ることになります。このときの逃避行は朔郎に強烈な印象をのこしたようです。
下働きをする母親になんとか楽をさせたい。そのためには勉強しかないと考えた朔郎は、工部大学校を優秀な成績で卒業。卒業論文は「琵琶湖疏水工事の計画」でした。
これが認められ、大鳥圭介校長から北垣国道知事を紹介され、若干21歳の若さで疏水工事の責任者に抜擢されます。
「インクライン物語」より要約
田辺朔郎は何よりも努力の人だったようです。
高瀬川はみささぎ川から分けられた運河。みささぎ川は鴨川から分岐したもの。その暗渠からの出口が二条大橋北にあることは、今回偶然見つけたものでなかなか楽しかったです。
次回は山科から小関峠を越えて、琵琶湖に抜けてやろうと考えています。疏水はこの区間はほとんど地下を流れているので、琵琶湖の取水口までは竪坑を見るのを楽しみにしています。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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