
ヒノモト王国の金枝篇[ト説]
家康が西国大名を異様に警戒していたのは何故か?
後世、その想定通りになったので、家康の洞察力はすごかった、みたいになってるわけですが、単なる脅威であれば、少なくともお国替えくらいは、やっておくべきだったでしょう。
攻め滅ぼすとなれば、相手は窮鼠になりますから、リスクが大きくなりますが、国替えなら相手の意見も分かれますし、押し切れたように思います。徳川だって国替えを呑んだわけですしね。
それをあのような形で残したのは、わざわざチャンスを与えたようなものではないか……。
今回は、それを「謎」として、少し考えて見ました。
参考にしたのは、フレイザーの『金枝篇』です。
宗教的権威を持つ王が弱体化すれば
それを殺し新たな王を戴く「王殺し」の風習
金枝
イタリアのネーミの村には、ネーミの湖と呼ばれる聖なる湖と、切り立った崖の真下にあるアリキアの木立とよばれる聖なる木立があり、木立には聖なる樹(ヤドリギ)が生えていた。この樹の枝(金枝)は誰も折ってはならないとされていたが、例外的に逃亡奴隷だけは折る事が許されていた。
ディアナ・ネモレンシス(森のディアナ)神をたたえたこれらの聖所には、「森の王(レックス・ネモレンシス)」と呼ばれる祭司がいた。逃亡奴隷だけがこの職につく事ができるが、「森の王」になるには二つの条件を満たさねばならなかった。第一の条件は金枝を持ってくる事であり、第二の条件は現在の「森の王」を殺す事である。
この構造を、この国の云い伝えに当てはめると、こんな流れが浮かび上がります。(「歴史」とは云いません。トンデモなので…)
ヒノモト王国では、西から東遷してきた者だけに王になる資格があった。
王は、西から東遷してきた者の挑戦を受けて立つ義務があった。
王に挑戦する者は西の頭梁になり、東遷の軍を起こさせねばならなかった
すぐに思い浮かぶのはJinmuの東遷ですが、実は一足先にNigihayahiが畿内の盟主になっていました。JinmuとNigihayahiは、どうも同族(ないしは同郷)だったようです。これで東遷の例は二つ。
ほかにも、Oujinが半島からやってきた説があり、その場合、当然、九州、瀬戸内海経由ですので、それも東遷ということになります。
逆に、時代を遡れば、出雲の勢力が出雲や丹後から大和まで進出してきている。それも方角からいえば、東遷。
出雲は大和政権に国譲りしたことになっていますが、ともかく、後に祟ります。その祟りがすさまじかったために、逆に大和の大王家では「神譲り」したフシがあります。つまり、出雲のカモイをヒノモト国の神とした……。内宮に祀られているのは出雲のカモイではないか説です。
だから、明治になるまで王が参拝することはなかったと。ご先祖様なら、そんなことはあり得ないと。そもそも王宮から遠く離れた場所に移したことからしておかしいと。それだけではありません。後に遷都した京の都の上下カモ社も、おそらく出雲系……。
仮定に仮定を重ねているまさにトンデモ話ですが、ともかく、そうなると
出雲は国家的聖地となり不可侵の地となる
わけです。地域紛争はいいんですよ。王軍として攻めると王が祟られる。
その不可侵の不文律が、九州各地の故地にも適用されることになったのではないでしょうか。不勉強で例を挙げられませんが、高千穂、宇佐等々、由緒ある場所がいくつもありそう。
だから、家康は攻められなかった。
秀吉は攻めたじゃないか?
知らなかったんじゃないかと思います。だから祟られて滅亡したのかも。
半島にまで侵攻しましたからね。
もしかしたら、最古の聖地は伽耶国があったところかも。そこが高天原であり、後の王統が高天原系ではなかったとしたら、そこは最も危険ゾーン。
ちゃんと祀るために取り戻すのならよかったかもしれませんが、いきなりズカズカと軍隊で攻め寄せれば、それはマズイ。最悪だったか。
ヒノモト王国には、そんな不文律、オカルトの伝統(呪い)があるのではないか……
ちゃんと手順を踏んで王位を継承したものには、秘密が伝えられる。ところが、力任せとか、めぐり合わせで、にわかに王座に就くと、そういうことがわからない。
家康は天下人になるまでに時間がかかったおかげで、
準備が出来ていた。西を滅ぼせば祟られると知っていた!
いつか攻めてこられるとわかってて
挑戦を受けねばならない義務があった!
と、そんなふうに謎解きをしてみました。
お付き合い、ありがとうございました。