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[暮らしっ句]秋の声[俳句鑑賞]

未来は向こうからやってくるのか
それとも こちらが扉を開けていくのか
という話がありますが、
「秋」についてもそれが云えそうです。
今回は、こちらから「入っていく」句を集めてみました。

といっても、そこは冥界の入口……
でも、最後はちゃんとロマンチックになりますから!?
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 長持に鍵穴一つ 秋の声  佐藤みほ

「長持」ですから箪笥とは違います。あまり出し入れしないものがしまわれている。それは「秋冬もの」かもしれませんが、何年もしまいっぱなしのものかもしれません。おそらく後者でしょう。前者なら「鍵穴」に目がとまったりはしません。中身を頭に思い浮かべたはずです。
 つまり、中に何をしまっておいたのか、すぐには思い出せなかったので「鍵穴」が意識された。作者は、鍵穴から覗き込むように、中のものを思い出そうとしたのだと思います。
 そのことと「秋の声」がどう関係するのか?
「秋」には冥界(死後の世界)への入り口というニュアンスがあると思います。それはこの記事を通して明らかにするつもりですが、「長持」はいわば柩(ひつぎ)。作者は「鍵穴」を見つめながら、過去の扉を開くかどうかを思案している……。
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 土器の落ちゆく谷より 秋の声  平居澪子

「土器(かわらけ)投げ」のことですね。山の斜面の展望台から、少し離れたところにある目標物にむかって素焼きのお皿を投げる。目標物の向こうは谷底。作者はその谷底に「秋」を見つけた…。
 イメージとしては「谷=地の底」、「土器=副葬品」であり、意識はされてなかったかもしれませんが、第六感が「冥界」の声を聴いている。
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 法隆寺堂内に坐し 秋の声  田中藤穂

 日本の仏教は葬式仏教と云われるくらいで、当然、お寺も半分「あの世」のようなものですが、「法隆寺」はまた特別。何しろあそこに葬られているのは聖徳太子でありその后ですから。おそらく二人とも渡来人か、その子。そして、その結末は悲劇。ゆえにかなり丁重に葬られはしたのですが。その実質は「封印」。
 つまり、法隆寺の堂内は、死者と生者が和やかに交流する場所ではなく、呼び覚ましてはいけない場所なんです。だから作者もそっと思いを寄せた。音なき音が聞こえるほどに。「秋の声」とは、そんな秘めやかな弔い……。
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 天平の秋 声こもる螺鈿琵琶  長谷川翠

「琵琶」だけなら、夏の「怪談」のイメージになりそうですが、「天平」が効いてますね。古代なんだけど、そこには志ある若者たちが海を越えた(遣唐使)「青春」が息づいている。
 また正倉院ということでいえば、先の聖徳太子夫妻とも関わりのあるペルシアの宝物もあるわけで、やはりロマン。ロマンは冥界にも色を添えます!
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 秋の声 芭蕉遺墨の余白より  川村清子

 少し芭蕉のことを調べたことがありますが、案外、知られていないことが多い。たぶん「聖人化」が進んだせいでしょう。「隠密説」などはまだ知られているほうです。
 もっとも「余白」は、そのような「謎」やスキャンダラスなことではありません。言葉のイメージが明るい。
 作者が関心をもったのは、たとえば、芭蕉が詠んだ「蝉の声」と一緒に聞こえていたはずの鳥の声。「古池」にいたはずの魚とか。
 たとえていえば、大谷選手が語っていた中学時代の思い出の、その場にいたのに語られなかった同級生。いわゆる影の薄い存在。
 芭蕉によってはじめて発見された「美」や「趣き」「をかしみ」は数多くあれど、しかし、見向きもされなかったもののほうがはるかに多い!
 こんなに愛しているのに、振り向いて貰えないワタシ… なんて話はしませんけど、わたしの場合は雑草、「その他A」として、共感しました~
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 冥界の入り口シリーズ、最後の句は

 夫恋の「井筒」の中より秋の声  三宅文子

「井筒」はお能の代表作。夫を愛し続ける妻の霊が登場します。学がないので間違ってるかもしれませんが、この夫婦、幼馴染。なんですが、結婚後は夫が浮気を繰り返します。なにしろ夫はあの業平。
 しかし、ずっとけなげに待ち続けている妻の姿にうたれ、その後は仲睦まじく…… という話だったと思います。なのにどうして、妻が成仏できずにさまよっているのか?
 それはともかく妻の霊が井戸(井筒)をのぞき込むシーンがあるのです。水に映った我が身の老いさらばえた姿に愕然とするのですが、映像はすぐに若き日の夫の姿に変わる……。元の話にあったのは「映像」なんです。それを作者は「声」と云い替えた。
 この変更がこの句の見どころ。「映像」が見えなければ、妻の霊は自分が老いたことを意識せずに済みます。そこに夫の「声」とくれば、もうあの頃にタイムスリップ。昔を懐かしむという元の設定は消え、すっかりあの頃に戻ってしまう。しかし、そうなるとますます成仏できない。
 先ほど、よりを戻したのに、どうして妻は死後、さまよっているのか? と言いかけましたが、その背景にあるのは仏教観なのでしょう。愛も煩悩であれば、捨てなければ成仏できません。妻にはそれが出来なかった。
 相愛のまま死んでも、それはこの世のハッピーエンドであって、死後でも一緒に居たいと願えば、それは妄執。「もうラクになりたい」と思う人と「幸せのただ中にある」人と、どちらにとって「死」がつらいか? 受け入れがたいか? ということ。
 世阿弥が「井筒」を自画自賛した理由も、そのあたりにあるのかも。
 最高の幸福こそが最高の悲劇でもある。失うのがこわくなるから…。

 と、重い話になりましたが、それは当事者にとっての話。他人にとってはそれが、ロマンチックになる。でも、こんな云い方をすると、他人の不幸は蜜の味という陳腐なオチになるので、もう少し考えてみました。

 自分のことでも時間が経つとロマンチックに思えてくる… ということがあるんじゃないでしょうか? 冥界の入り口からふりかえる自分のドラマが最高の感動作だったりして。ロミオとジュリエットやタイタニックよりも!

 もしかしたら「井筒」の本意もそこにあるのかもしれません。煩悩を捨てて成仏するんじゃなく、最高の幸せをを思い出して、それ以上のことは望まないと。そんな心境で、この世を去っていくのではないでしょうか。

 ガラにもなないことを云ってますが、わたしが云ってるんじゃなくて、

それは きっと「秋の声」~


出典 俳誌のサロン 
歳時記 秋の声
ttp://www.haisi.com/saijiki/aki%20no%20koe.htm


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