見出し画像

[暮らしっ句] 菊 2 [俳句鑑賞]

供養(鎮魂)編

 父呼んでをり 菊の闇ふくらみぬ  浦川聡子

「父」が呼んでいる気がする。
「父」を呼びたい気持ちがある。
 でも、それだと「父」は成仏できないし、わたしの執着も増す。
 それは「闇」。
.

 白菊を束ねて 闇 を遠ざける  根本眞知子

 供養は「闇」を遠ざけることでもある。
 願うべきは故人の成仏であり、伝えるべきはこちらの無事…。
.

 白菊や 膝崩さずに帰る客  しおやきみこ

 菊は喪の華でもあります。そして俳句もまた喪の詩です。
 説明しない。感情をあらわにしない。写生でなくとも淡々と描写する。時に冷淡なくらいに…… それは何故か? 芭蕉が鎮魂の術として俳句を編み出したからです。
 ……なんてことをいきなり云われても ? でしょうが、作品があれば、わかっていただけるかと思います。
 ここには葬儀、法事、死などの直接の言葉はありません。しかし、わかる。悲しみ、未練、成仏を願う気持ち、親族への同情、労り等々、万感の思いが「膝崩さず」の一語に集約されている。
 そして「客」。いうまでもなく作者の仮託なんですが、この場合はそれにとどまりません。「客でさえ、そうなのだ。自分たち身内ちは……」です。
 今日では、いろんな俳句がありますし、近代は「死」や「あの世」が隠された社会でもあるわけですが、「喪の句」は凄い。芭蕉が蘇ってくる。
 俳句はやはり「怨霊と鎮魂の国」で生まれるべくして生まれた藝
.

 母の日の無かりし母に 菊供ふ  岸野美知子

「わたしの母は、子どもに祝ってもらう機会がなかった」…… 子どもとは作者です。ろくな孝行もせず、今になって花を供えている自分自身を詠んでいる。
 しかし、自分を責めるとか亡き母に詫びるというのではありません。(あなたの子どもに生まれてよかった)(かけがえのない日々を過ごさせていただきました。ありがとう)です。

 これを、生きてる間に感謝されるよりも、あとあとまで思って貰える方が良い……とか、そっちの方向で考えるとおかしなことになるわけで、人それぞれ。事情は様々なわけで、自分の事情の中で出来ることをやる。そこにウソがなければ、言い訳がない。
 そう、この句の一番のポイントは、言い訳がないことなんです。作者は精一杯やってきた。お母さんもかなり大変だったようですが、娘である作者も頑張った。その清々しさがこの句を特別なものにしている。
.

 磨かれし 無縁の墓に菊香る  登嶋弘信

 家族はさまざま。愛情豊かな場合もあれば、結びつきが絡まり、かえって重荷、足かせになる場合もある。
 ただ、物事には両面があって、家族が和気あいあいであればあるほど、他人との区別が出やすい。
 わたし、ひと頃よく墓地を散歩していたのですが、なんとなく無縁墓石に手を合わせていました。他人の墓は他人の墓で、そんなことはしませんが、無縁の墓には「他」がない。
 無意識にやってたことなんですよ。その時のことを書いているのは、たまたま通りがかった老人に、「無縁仏にそんなに熱心に手を合わせている人をはじめて見た」と云われたからです。(そうか、普通の人はそんなことしないんだ)と。

「磨かれし」が、またいいですね。意味わかります?
 考えられることは二つ。一つは、長年の風雨にさらされて、摩耗していることを「磨かれし」と美化した可能性。
 もう一つは、遠い縁者なのか、通りがかった奇特な人なのかはわかりませんが、本当に墓が掃除されていた可能性。
 わたしは前者だと思います。せちがらい事をいうようですが、長年、放置してきたということは、お寺へのお金が滞納されているということ。となると、長居は出来ないんですよ。最低限のことだけやって、そそくさと後にするしかないと思います。
 いやなことを云って申し訳ありません。でも、そこまで云わないと、この句の真意が浮かび上がってこない。
 作者は、華だけ供えて、そそくさと立ち去った誰かではありませんね。たまたま通りすがった者。しかし、ただの通りすがりではなく「磨かれし」に気づいて、しばし心を寄せた。「菊香る」は、思いを寄せた時間のこと。
 思いを寄せ、それを句にすることが、一つの供養になっている。
 これ見方によっては、薄情な態度なんですよ。じゃあ、自分は水をあげようとか。華が一輪だったら、もう一つの花入れには自分がお供えしようとか、あるいは経をひとつ手向けるとか、やれることがあるといえばありますから。そこがとても大きなポイント。
 敢えて言えば、華を供える、経を上げるというのは形式的な行為。それに対して、その場で句を作るというのは、完全オリジナル、一度限りの手作りの供養。ある意味、有徳の僧の弔いに勝るとも劣らない……ということを、芭蕉は悟ったのだと思うのです。
 お能における「旅の僧」を芭蕉は吟行でやった。それがすべてだとは云いませんが、それがあっての諧謔だったのではないかと愚考……。


出典 俳誌のサロン 
歳時記 菊
ttp://www.haisi.com/saijiki/kiku1.htm



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?