観点の変化〜こころの問題から学習(の)障害へ〜
「書くこと」に苦労する子どもに出会い、改めて学習(の)障害について学んでいます。
文献を読み進める中で、たまたま川崎聡太先生の『ディスレクシア・ディスグラフィアの理解と支援: 読み書き困難のある子どもへの対応』を手に取りました。
この本には、支援にまつわる、ハウツー以前の基本的な考え方が示されている点で秀逸です。
なるほどなるほど、学習方略というのは真に多様だと思わされます。
読まれていない方はぜひご参考に。
他におすすめがあれば教えてください。
学習(の)障害まわりの知見で言うと、もともと私には試験対策の知識と、ウェクスラー式知能検査やASD、ADHDのアセスメントの経験しかありません。
精神科病院でも、LDの検査だけは用意しましたが、もろもろの事情からLDのアセスメントまでは行きつかないことが多かったように思います。
もちろん、診断としてのSLD(限局性学習症)やLD(学習障害)は、広大な「学習の障害」の一端にしか過ぎないことは急いで言い添えておきます。
それゆえ本エントリーのタイトルは、本書にならって「学習(の)障害」としています。
私自身にも、はっきりとはしませんが学習方略の「クセ」みたいなものはあるように感じています。
学校でほとんど勉強する気が起きず、自然、成績はおおむね低空飛行でした。
今でも学ぶことはとても好きですし、学校でも間歇的にハイスコアが出る傾向にあり、IQは相応であったことも聞いています。
本書の乖離診断モデルに倣えば、背景には学習(の)障害があったゆえの何らか影響が匂うところです。
こころの問題と合理的配慮
最近、「こころの問題」としてリファーを受けたクラエントを、学習障害をはじめとした、いわゆる「合理的配慮」の対象としてサポートに繋げることが多くなっています。
これは興味深い現象だなと感じつつ対応しています。
例えば、学校には、学習障害に加えて、知的障害やASD、ADHD、その他のあらゆるメンタルヘルスの問題を抱えた子どもたちが混在しています。
その子らがしんどさから、スクールカウンセラーである私の元に相談に来てくれます。
よくよく紐解くと、知的水準の凸凹さや低さから適応不全起きることでしんどくなっているのではないか、と仮説を立てることができます。
そこで、知的水準に合った対応や環境調整をすることで、しんどさが見事に軽減するということが起こります。
認知機能に由来する本来的な機能改善がされるわけではありませんが、無理のないステップを踏むことにつながりやすく、無用なストレスが減っていきます。
素朴なスクールカウンセリングのイメージ「相談=生徒の話を聴く、以上」とは、また違う臨床の実際が見えてきます。
いきおい「課題解決」的になっていきます。
もちろん、不適応の過程で生じた傷つきのケアは必要ですし、中学生であれば自意識の芽生えのサポートなどは必要ですので、すべてが合理的配慮の文脈で語れるわけではありません。
本当に心理的なケアのみというケースも少なくはありません。
聴くだけというような姿勢が重要な意義を持つこともあります。
これらを分けて考え、機転を効かせる必要があるということですね。
いきおい、「カウンセリング」よりも「アセスメント」に近づきます。
「スクールカウンセラー」ではなく「スクールサイコロジスト」と呼ばれるべき存在になりつつあるのかもしれません。
こころから認知へ、そして脳へ、というところでしょうか。
脳のせいです、とお答えして。。。
原理的には、問題の次元が落ちていると考えることもできますが、さて、こころの臨床家としてはどこで踏みとどまればよいのか。。。