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児童発達支援(療育)に、プレイセラピーを取り入れてみる
とある精神科病院のプレイルームの見学をアテンドしてきました。
私が現在進行形でご支援をしているこども発達支援センター めぶき園(児童発達支援事業所@鹿児島県肝付町)では、支援のリニューアル準備中です。
特に、個別支援を新たに導入するに際して、プレイセラピーの考え方や枠組みをご提案させて頂いています。
プレイセラピーは、(たぶん)多くの心理士(公認心理師・臨床心理士)にとって馴染み深いものです。大学院の教育課程で学び、その臨床のベースにあるものです。しかし、臨床に出てはや10年、周りを見渡してみるとプレイセラピーを実践する場自体が存在していないことに気が付きます。少なくとも、わたしが臨床を行う南九州エリアではそうです。勤めていた精神科病院でも導入を検討しましたが、様々な事情から見送りました。小学校の支援では、相談室におもちゃが置かれても良いように思われますが、みる影もありません。プレイセラピーはどこにいってしまったんでしょうか。
さて、児童発達支援のガイドラインや報酬体系を読み込むと、プレイセラピーの考え方が適用できることが分かります。適応や訓練といったいかつい言葉が並ぶのは、行政支援の性質上いたしかたありません。こうした外的な効果を支える内的資質(今の流行りでいうと非認知能力?)にプレイセラピーが寄与できるという説明は十分可能です。
自閉傾向のある子どもや、情緒コントロールが難しい子どもなど、孤立しがちで、あえて前言語的な相互的関係の中で発達を支えていく必要性の高い子どもたちにとって、プレイセラピーの設定でこそできる支援というものが見えてきます。
エビデンスベースドな介入、ABA(応用行動分析)、言語療法のように、目的と効果をはっきりと定義していくアプローチは、分かりやすく安心を呼びやすい。一定の価値があります。
一方で、「遊び」や「関わり」といった、子どもが持つよりベーシックで包括的な働きにアプローチするプレイセラピーには、また違った価値があるように思われます。プレイセラピーは、何か理想に近づけるのではなく、人格や息遣い、気持ちと紐づいた運動など子ども存在すべてを、訓練された主観性でまるごと扱おうとします。発達支援のコンセプトにもぴったりです(むしろこれまでなぜなかった?)。
もちろん、検査など標準化されたアセスメントを導入したり、個別の困りごとにもアプローチしながらであることは言うまでもありません。
正式なトレーニングを受けていない職員ができるのか、プレイセラピストの採用ができるのか、持続的にその専門性を維持することができるのか、といった技術的、倫理的な問題は存在しています。「セラピー(治療)」を厳密に捉えると、「セラピスト(治療者)」しかできません。先達の書籍を読めば読むほど、難しく奥深いものです。
しかし、「Play(遊び)」の言葉にあるように、人のもつごく自然な働きを利用したアプローチです。そこまで肩肘をはらずともまずはやってみて良いのではないか、という思いにもなっています。
現状の「(課題という名の)遊ぶ」支援を、プレイセラピーと定義しないとしても、発達支援事業という公的性質上、何らか専門的な枠組みの必要性は変わりません。そもそも「プレイセラピスト」と呼べる専門家は数えるほどしかおりませんし、増える将来も期待できません。プレイセラピストを増やすにも、在野での実践の場が必要です。障害福祉領域へのプレイセラピーの応用は、臨床家の課題であるようにも思われます。
田中千穂子先生もこのように述べておられます。
長期的な視野も含めて人の発達を考え、セラピーを行うという発想は、わが国のセラピストには欠如しているように思います。
それは、これまでの心理臨床では情緒的な問題は扱っても、発達的な課題は扱わず、その分野は主に療育に任せてきたことが影響していると思います。しかしこれからの子どものセラピーにおいては、発達的な課題を含めた情緒的な問題が増えてくることが予測されます。
個々の子どもの人生全体を考えたうえで、今、生じている問題にどう対応してゆくかという発想は、今後とても重要になってくると思います。
(太字はnote筆者による)
地域に公認心理師養成大学院があることを考えると(宮崎県にはありませんが鹿児島県や熊本県にはある)、安定的にプレイセラピストが育つ環境のデザインは可能なのではないでしょうか。
当面は、わたしも自身もプレイセラピストとして再デビューを目指します。機微の分かる園長や職員さんたちとともに挑みます。