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友がみな我よりえらく見える日は

先日、こんなタイトルの本に出会った。

『夢を叶えるゾウ』の著者として知られる水野敬也さんが号泣したという本。読んでみて号泣はしなかったが、すごくあたたかい気持ちになった。

普通に生活しているだけで、自分以外の人がみな我よりえらく見えてしまう時がある。

それはふと何気なく開いたSNSであったり、たまたま見かけたニュースであったり。自分の友人や同年代、自分より若い人が「自分には追いつかない」と思うような活躍を見てしまった時など、ふいに訪れる。

でも、僕はある時、このカラクリに気づいた。

弱っている時ほど、人の活躍がまぶしく感じてしまう。

光が強いほど影もまた濃くなるように、人の活躍が必要以上にまぶしく感じるときは、たいてい自分が弱っている時で、そんな時ほど、自分の至らなさの影がより濃く感じてしまうのだ。

僕はこの現象を「まぶしく見えるだけバイアス」と名付けて、みんなに注意を呼びかけたい。実際はそんなにまぶしくない。

「隣の芝生は青い」とはよく言ったもので、「より青く見える」ように、青色のフィルムが貼られたルーペで覗き込み、青い部分だけを拡大解釈してしまうのだ。

自分だけ「置いてけぼり」を食らったような感覚に襲われるかもしれないが、相手は自分を「置いてこう」なんて思ってない。(万が一思っているやつがいるとしたら、君はすぐに友達をやめたほうがいい)

まぶしく見えるような人も、実は、その人なりの悩みを抱えていたりする。

和田アキ子もかつて「人はみな 悩みの中〜♪」(歌詞:阿久悠)と歌っていた。50年以上も前にそう歌っているのだから、古今東西、みんな、たいして変わらないのだ。

僕も以前、SNSの情報だけをつなぎ合わせて「うわぁ、この人すごいなぁ」と打ちのめされたような気持ちになることがあったが、いざ会ってみると、その人なりの深刻な悩みを抱えていたりしていた。

僕もまたSNSの情報だけをつなぎ合わされて「なんか最近、お前、絶好調だよな〜、俺なんて全然だよ…」と友人に言われたことがあるが、当の本人は絶賛悩み中だった。

わざわざSNSで「俺はもうダメかもしれない・・・」と書かかないだけで(書いたら心配されて不毛なやりとりが増えるだけなので)、打ちのめされた気持ちになることは年に数回、楽天SALEが開催されるのと同じくらいの頻度で訪れる。時が経てば、当たり前のように去っていく。

お互いが勝手に相手の芝生を妄想して自己憐憫するのは社会的生産性が低すぎるので「もう、いい加減、自己憐憫ゲームやめませんか?」キャンペーンを打ちたくなる。

自己憐憫ゲームの先にあるのは、SNSで叩かれている人を見て安心しようとする、さらに生産性の低いゲームだ。「あの人よりはまだマシだ」ゲームと名付けたい。ゲームというより悪趣味に近い。それが始まってしまうと「他人の不幸は蜜の味」といったもので、なかなか抜け出せなくなる。

つまるところ、すべての出発点となる「まぶしく見えるだけバイアス」はみんなの貴重な時間を奪うだけなので、誰かに嫉妬を感じてしまったら、ぜひこの言葉を思い出して、認知の歪みを修正してほしい。

また、もう本当にしんどいなと思った時、僕はある友人の言葉を思い出す。

ナチュパラのいろいろなサービスデザインを手掛けている馬場としのりくんに、昔、下北沢の喫茶店で悩みを打ち明けたことがあった。

その時、彼はこう言った。

「大丈夫ですよ、宇都宮さんが悩むほど、立派な世の中じゃないですから」

その言葉が、妙に心を軽くしてくれた。そして、

「休むだけじゃなくて、いっぱい楽しいことして遊んでください」

と付け加えた。本当にそうだと思った。
そして僕の中の舞子さんがそっと耳元で囁いた。

「あんたは遊ぶために生まれきたんどす。
 だから遊ばにゃ損どす。
 一番あきまへんのは、
 自分で自分をおとしめることどす。
 落ち込む必要なんかありまへんのどす」

片言の京都弁がお座敷遊びと無縁の人生であることを物語っているが、以来、勝者になることより笑者になることを目指している。

追伸
最近、僕が通ってるビジネススクールのワークショップで、自分が過去最も悩みまくってた時の黒歴史をさらけ出したので、もし興味あればこちらもお楽しみください。


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宇都宮秀男
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