求めていた京都は古寺とパン屋にありました
先日、失踪記か旅行記かも分からぬnoteを書いた夜、京都に住む前職の後輩をランチに誘ったら運良く翌日会うことができた。
おすすめの京料理を味わいながら「ぽつねんとできる場所」をいくつか教えてもらった。
その一つが、蓮華寺というお寺だった。
あぁ、そうそう、この感じ。
伊右衛門のCMに出てきそうなこの静謐感。
友人曰く、決して有名ではないらしいが、知る人ぞ知る、通好みのお寺らしい。僕は寺社仏閣巡りの素人ではあったが「知る人ぞ知る」「通好み」という魅惑の言葉に誘われて、恥ずかしげもなく訪れた。
多少の人はいたが、皆、思い思いに座り、ぽつねんとしていた。それぞれが意識的に大きな音や声を出さないよう心を配っていた。
寺の雰囲気だけでなく、そこにいる人の雰囲気もまた良かった。ここが好きな人なら仲良くなれそうだ。お寺が主催する社交パーティがあれば喜んで参加したが、間違いなくそういうものを開催する気配はなかった。
縁側に座り、ぼんやり庭の苔や草木を眺めていたら、ふと一句思い浮かんだ。
数百年変わらぬであろうこの庭の静謐を前に、人生の儚さを水の飛沫(しぶき)の如きと喩えてみたが、多くの人がちょっと考えれば思いつきそうなありふれた内容だった。
またコロナのせいで、飛沫(しぶき)ではなく飛沫(ひまつ)を想起させた。人生を飛沫(ひまつ)とは思いたくなかった。
それでもなお、思いついた時には気分が良いので、これを「辞世の句」にしてもいいいと思った。しかし「辞世の句」を読むにはまだ早すぎるので「渡世の句」にしようと思った。もちろん、そんな言葉があるのかは知らない。
渡りきるのが精一杯の世の中なら、時には自分への応援歌を謳ってみるのもいいものだ。
道中に「陽ノ光」という雰囲気の良いお店を見つけた。店主も東京から来られたということで話が盛り上がった。
秋物のブルゾンがあるということで、試着させてもらった。着心地が良くて気に入った。
失踪中の人間がブルゾンの試着姿を撮ってわざわざネットにあげるなんて聞いたことがない。しかし聞いたことがないのをやるのが好きな性分だった。店主も写真掲載を快く許諾してくれた。
夕暮れ時には新しいブルゾンを身にまとい「京都京セラ美術館」を訪れた。先日の「偶然は用意のあるところに」というコラムで紹介した西澤徹夫さんの設計した美術館。とんでもなく立派な建物だ。僕はMUCA展を観た。バンクシーの作品があった。
翌朝6時30分に友人から教えられたパン屋を訪れた。
早朝にも関わらず地元の人や観光客やらで大賑わいだ。
「ここのエビカツサンドが絶品で、旅行中、何度も訪れた」と友人から聞いていた。数多ある旅行先の選択肢の中で毎日訪れたくなるほどのパン屋なら覗いてみたい。
ボリュームのわりに1つが280円とか250円とか良心的な価格設定が多く、観光客のためのお店というより、地元の人に愛されている感がたまらなく良かった。
エビカツサンドを一口食べた時の衝撃は忘れられない。世の中にこんなに美味いエビカツサンドがあったとは。しかし、言うほどこれまでの人生でエビカツサンドを食べた記憶もない。だがそんなことはどうでもいいくらい美味かった。
失踪日記がグルメ旅行記に変わってもいいと思えた瞬間だ。今回の失踪というか旅を通して「まだ出会ったことのない美味いものにもっと出会いたい」というシンプルな結論に至った。
これで旅を終えてもよかったが、それでもまだ続けたのは「会いたい人」がいたからだ。
いい年した男が「会いたい人」といえば、やはり美しい女性であると物語にもはずみがでるのだが、僕が「会いたい人」はおじさんだった。おじさんがおじさんに会いにいくのだ。この世で最も需要のない物語だ。僕は滋賀へ向かった。
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