心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その8
元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その7
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。
両親と下村夫妻
奨励会を受ける時に、大事件というほどのものでもないのだが、わりと印象的なことが一つあった。それは、今考えるとなかなか大切なことだったのだと思う。
奨励会の試験の前に、下村先生は、奨励会の入会試験の受験料3万円と手紙の入った封筒を自分に渡し、親に渡すように言った。
その時の言い方は、「私が中井君に是非ともプロ棋士になってもらいたくて奨励会の試験を受けてもらうので、受験料は私に出させてほしい」といった感じだったと思う。
その手紙とお金を見て自分は、以前叔母さんがとろろ芋を買ってきて母が激怒し、とろろ芋を本棚に投げつけたことを思い出した。「下村先生から受け取りました」と言ってそのお金を母に渡すのはどうも気が進まなかったが、かと言ってその場でどうやってことわっていいかもわからなかったので、仕方がないから受け取った。
帰りのバスの中でも、憂鬱だった。
「うちはね、うちは…、おばさんに養ってもらっているわけじゃないんだからね」と大声で叫びかつ泣きながらおろしかけのとろろをちぎっては投げちぎっては投げして、その部屋にあった本棚にたたきつけた時の母親の鬼気迫る形相や凄まじい目つきを想い出した。
だが、引き返したり電話をかけたりして下村先生に相談するのもどう言ったらいいのかわからい。「先生にお金を出してもらうのは、親が嫌がるかもしれないので、とりあえず、渡していただいたお金は見せないで、受験料がかかるので出してもらえるか親に相談してみてもいいですか」といったことを公衆電話から電話をかけて下村先生に相談してみた方がよかったのだが、そういうことを思いつかなかったし、そういうことをうまく話す表現力もなかった。
結局、手紙とお金は家に持って帰り、そのまま自分が出し渋って持っているとさらにややこしいことになるので、勇気を出して母に渡した。
母は嫌そうな顔をして、「受験料くらい私たちで出すわよ」と言った。手紙の方は、自分にも見せてくれた。手紙の内容は、「中井君は筋がよい将棋を指し、将来有望なので、奨励会の試験を受けさせたい」といった感じの問題のないものだったようだが、下村先生が受験料を出すということについては納得がいかないようだった。母は、一応それを受け取って、考え込んでいたが、結局受けとった。
その後どうしたのか聞きにくくて聞けなかったが、たぶんお金は返さないでそのまま受験料として使ったのではないかと思う。「次回I将棋クラブに行く時にお金を下村先生に返してきなさい」とは言われなかった。
奨励会の入会試験は、受験生同士で3局指し、現役の奨励会員とも3局指して、指し分け以上なら合格、ということだった。
入会試験に合格したのは自分を含めて5人だった。受験生の人数を正確に覚えていないが、10人以上いたような気がする。
自分は4勝2敗の成績をとり6級で入会することができた。
奨奨励会員になってからは、席料はただにしてもらえることになったこともあって、I将棋センターには平日の学校帰りにも行くようになり、毎日のように道場に来るアマチュア強豪の人や下村先生に指してもらった。
アマチュア強豪と指すときは、勝った方に下村先生が3000円くらいのお金をあげるという条件で指すことが多かったが、アマチュア強豪の中には、勝ってもお金を受け取るのを断る人もいた。「何かかかってないと真面目に指してもらえないから、懸賞金をつけておく」と下村先生は言っていたが、本音ではないような気がした。なんとなく、おばあさんが孫にお年玉を上げて喜んでいるような雰囲気があったように思う。
奨励会6級では、アマチュア強豪には歯が立たず、負けてばかりいたので、なかなかお金をもらえなかった。
それと、下村先生とは30番勝負というのをやっていて、30局指して5番買ったら5000円もらえるという条件で指した。
先生は、道場の仕事もしながら指していたので、時々間違えてくれて、わりあい勝つことがあり、5000円もらえることもあった。
家に帰ってそのことを正直に言うと母はしぶい顔をしたので、その後は黙っていることにした。親が知らないところで、下村先生が自分に口実をもうけてお小遣いをくれることは続き、正月などは掃除を手伝うと何千円かいただいたし、将棋に勝ってお金をもらう機会も何回かあった。
何年か経ってからわかったことなのだが、母が電話でどういう趣旨でお金を渡しているのか下村先生に問うということはしていたようだ。
「将棋を指してお金をもらうことに慣れさせるために渡している」
という答えだったそうで、そう言われて、母はどうも嫌な気分だったらしいのだが、それに対して抗議するための論理を思いつかなかったのか、どうにも抗議する気力がわかなかったのか、とにかくなんらかのいきさつでそれはそのままになっていたようだ。
ここも、なかなか重要なところだったと思う。
こうしたことについて自分の両親と下村先生夫婦でよく話し合ってうまくやっていく方法を見つけてくれていたら、自分のその後の人生は変わっていたかもしれない。また、自分と親との関係も少し違ったものになっていたかもしれない。
でも、それはなかなか難しいことだったのだと思う。自分の父はその頃は中央公務員で民間企業にいたことがなく、母も会社に勤めたことがなくてあまりいろいろな視点から物事を考えることは苦手なようだった。下村先生の奥さんが、4人の中では普通のOLと将棋クラブのおかみさんの両方の経験があり、一番柔軟に物事を考えられそうな人だったが、下村先生を立ててあまり積極的にこの問題にかかわろうとしていなかった。自分の両親と下村先生は完全に違う世界の住人で、下村先生の奥さんだけがある程度両方の世界のことがわかりそうだったのだが、うまく役割を見つけてこの問題にかかわることがどうも難しかったようだ。
あの4人が同じテーブルに座って話がかみ合うようにする方法というのを見つけられる人がいたら、その人は大天才だと思う。
※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その9
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