心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その23

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
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 新宿セミナー
 高校1年の頃は映画ノートをつけていて、それを見て勘定した記憶によれば、劇場で年間90本くらい映画を観るかなりの映画マニアだった。
 高校2年になっても同じようなペースで映画を観ていたが、そろそろ大学受験の勉強を始めた方がいいと親に言われ、そんなに逆らう理由や動機などもなかったので夏休みには新宿セミナーという新宿にある予備校に通った。別にどこの予備校がためになるという情報があるわけでもなく、たまたま何かの広告で見て、新宿に行かれれば予備校帰りにどこか面白い場所に寄れるかな。というくらいの不届きな考えで選んだのだと思う。
 高校2年向きの英数国セットで午前中に3時間授業を受けるタイプの夏期講習だった。
 英語の講師は全然どんな人だったかあまり印象がなく、数学の講師は頭が禿げ上がっていていつもニコニコしている楽しそうなおじさんだった。二人とも、わりあい普通のことしか言わない人で、テキストのレベルも標準的、学校の勉強とあんまり変わらない印象だった。国語の講師がなんとも味があり貫禄のある人で、「美しい花というものはない、花の美しさがあるだけだ」という小林秀雄の名文句を突然引用し一人で頷いたりしながらしゃべったりして深みがありそうなことを言う渋い人だった。でも、確かに感心はしたが、学力がついたかどうかはわからなかった。
 もっとも、2学期になって学校の授業を受けると、現代国語の授業に関心が持てるようになっていたので、なんとなくいい影響は受けていたのだと思う。
 新宿には当時も映画館がたくさんあったが、予備校の帰りに映画を観たいとは思わなかった。
 じっと椅子に座って授業を聞いた後に、またじっと椅子に座って映画を観るという気にならなかったのである。多少映画に飽きて来た時期だったのかもしれない。
 将棋のように自分が主体的に考えたり決断したりできるようなことがやりたくなり、当時新宿にはいくつか将棋クラブがあることを知っていたので、予備校帰りに行ってみた。
 将棋から脱出するための「読書・映画作戦」はあまり長続きしなかったのである。

 新宿将棋センター
 当時の新宿には東京将棋道場・新宿将棋センター・藤代将棋クラブ・新宿天狗クラブと4つの将棋クラブがあった。

 最初に行ったのは東京将棋道場で。ここは規模としては中堅位だったが、あんまり強い相手がいなくて2~3回しかいかなかった。
それなりに流行っている将棋クラブらしかったが、自分にとってはどうも印象が薄い道場だった。

 次に行ったのは新宿将棋センターだった。
 ここはおそらく100面以上将棋盤が置いてあったのではないだろうか。確かに「~将棋道場」ではなく「~将棋センター」というネーミングの方がピッタリしそうな場所だった。
 当時は日本最大規模の将棋クラブで、店内にそばを食べる場所もあった。営業時間が長くて、たぶん朝の10時くらいから夜の12時くらいまでやっていたと思う。とにかくすごい熱気で、混んでいる時は盤が足りなくなり、終わりそうな将棋に目をつけてその後ろで順番待ちをしていた。
 ここでは5段で指している人は非常に少なく、たまにしかこなかった。あまり強い相手がいない感じで、4段で指して概ね連戦連勝だったが、一人Sさんという作業着を着ている面白いおじさんに最初2連敗した。
 序盤作戦がやや変わっていて、毎回独自の右玉戦法でくる。2局とも、序盤でかなり差をつけられてしまいそのまま押し切られた。対局態度も一風変わっていて、Sさんは自分が指そうと思う候補手を順番に露骨に口に出して言っていき、相手が嫌そうな顔をするとその手を選ぶという面白いけど変なやり方を取り入れていた。自分がいいと思う手よりも相手が嫌がる手を選ぶというのも、勝負事の戦い方としては他力本願で感心できないし、しかもそれを直接相手に確かめるというのもなんだかあまりにも露骨である。でも、それでSさんはなかなか勝率がいいようだった。
 Sさんは形勢がよくなると、駒台の上で手をいっぱいにひろげてからゆっくりと指曲げていき、駒台をゆっくりとつかむような独特の動作をする。あの動作が出ると、こっちにとっては難局なのだった。
 Sさんの序盤戦術については家で研究していって、7筋(自分が先手の場合)位取り作戦がいいのではないかと考えた。実戦でも7筋の位をとり、7筋から9筋方面の薄みをつくようにしたら序盤で互角以上に戦えるようになった。また、番外戦術に対しては、どんな手を言われても全然反応しないようにしたらSさんは、「なんか反応があるはずなんだけどな。おかしいなあ」と言いながらあんまり自分から見て恐くない手を多く指すようになった。やはり相手の反応をかなり参考にして指し手を決めていたのである。これらの対応によって、7~8割くらい勝てるようになった。
 4段で指して勝率が高いので席主の金田さんから注目され、奨励会入りを勧められた。正直に以前入っていたことを話すともう一度やってみてはどうか、と言われた。
 「体が弱い」「腰を痛めた」「そうした経緯から親に反対されてやめた」という話をしたら、「将棋と腰は関係ないのではないか」「体が弱かったら何をやってもダメなんであって、それが奨励会の退会理由になるのはおかしい」と言われ、なかなかいいことを言う人だと思った。
 金田さんは、一般社会と将棋界のこと両方について比較的バランスよくわかっている人だったと、今でも思う。あれだけの大きな将棋クラブを成功させただけのことはある。
 もしかして、金田さんのお世話になって奨励会に入っていたら辞めないですんだ可能性もあったような気がした。この時にやる気を見せて、自分の両親の言っていること考え方などをうまく金田さんに話し、よく相談して奨励会再入会の道を探っていたどうなっていただろうか。
 うまくいったかどうかはわからないが、やってみる価値はあったと思う。だが、あまり強い相手がいなくて面白くなかったので新宿将棋センターには行かなくなってしまった。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その24

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