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教えること、教えられること
私達は、いつでも誰かに教え、教えられている存在といえます。
実際に、人に何かを教えるということ。そして教えられるということは、誰しもしたことがあるのではないでしょうか。
それは教師や教育関係のような仕事だけの世界ではありません。
先輩から後輩に教えること。上司から部下。親から子へ。
それらは、年齢が上の者から下の者へ行われるのが一般的です。
しかし実際は、年齢だからというよりも、ある分野で経験の豊富な者が経験が浅い者に伝えるという面が強いのです。経験豊富な者に年上の人が多いので、そのように感じるのですね。
パソコンやデバイスについて、年配の慣れていない社員が、若い詳しい社員から教わるというのはよくあること。
また年齢の近い人同士でも、教える、教えられるという関係があります。
人は社会的な動物ですから、他者との関わりを欲します。
また社会基盤が強化され、自分の身も守られるようにするには、他者から教わり、他者に教えることで、その社会全体が向上することが有効です。
そして人は、必要な時、また興味がある時に、自分より詳しい人に教えてもらいたいもの。さらには、教えた他者がより良くなることに喜びを感じるものなのです。
これは私自身、生徒やボランティアスタッフに来てくれている大学生や社会人の方のサポートをしていて大いに感じることです。
それくらい、何かを教える、教えてもらうというのは身近なことなのですね。
『教うるは学ぶの半ばなり』
という言葉があります。
これは東洋古典の代表的な書物の1つ、「書経※」の一節。
意味は「人に教えるということは、半分は自分が学ぶということでもある」ということ。
教える・教えられる関係が発生する時、教えられる側のみ学ぶと思いがちですが、実は教える側も多くのことを学んでいます。
なぜなら、教える側はどんな質問が来ても答えられるように自ら学んでおかなければなりませんし、どのように伝えれば相手が分かってくれるか工夫をしなければなりません。またその時の自分自身の在り方さえも、相手に伝えているもの。
教えるということは、とてもクリエイティブなことなのです。
ですので私達は、生徒が教わる側のみならず、教える側になることはとても素敵なことだと考えています。
サドベリー教育はアメリカ生まれの若い教育方法ですが、その起源ははるか古代ギリシャまでさかのぼります。
私自身、ソクラテス・プラトン・アリストテレスが教育を行っていた箇所に行ってきましたが、そこでもやはり教えることで教えられるということが行われていたとのことでした。
当たり前の様でおもしろいのが、誰かに教え・教えられる関係というのは東西を問わないということ。
「年齢ミックス」はサドベリースクールに無くてはならないものですが、それは年齢に関係なく、教え・教えられる関係が自然と発生するシステムとなっているのです。
一般的には学校というのは「教えられるところ」というイメージが強いと思います。
しかし、生徒もスタッフも含めた年齢ミックスの中で、互いに教えられる、教えることがあるのがサドベリースクールの良いところなのです。
スタッフ自身も、今年はたくさん終えてもらった1年でした。
皆さまよいお年をお過ごしください。
※書経は近代の日本になじみ深い書物で、「昭和」や「平成」はこちらの一節から名づけられています。また東洋の文化ではこれらの書物を読み、自らを磨き高めてきたとされています。