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古沢嘉通/人間的な、あまりに人間的な――2023年ヒューゴー賞騒動【紙魚の手帖vol.18 GENESIS掲載記事】

古沢嘉通 Yoshimichi FURUSAWA


 英語圏SF&ファンタジー界において、2010年代を代表する作家が中国系アメリカ人作家ケン・リュウであることに異論をはさむ向きは少なかろう。「紙の動物園」(2011)で、史上初となるヒューゴー賞・ネビュラ賞・世界幻想文学大賞短編部門三冠達成で名を馳せ、以降の活躍は、周知の通り。中国SFの翻訳家としてもとてつもなく優秀で、彼が翻訳した劉慈欣りゅう・じきん『三体』で、中国人作家初のヒューゴー賞戴冠をもたらし、その後の中国SFの隆盛に多大なる貢献を果たした。

 では、2020年代を代表するのは、だれなのか? その有力候補をお教えしよう。R(レベッカ)・F・クァン。ケン・リュウ同様、彼女もまた、中国で生まれ、幼いときにアメリカに移住したという共通項を持つ作家である。1996年5月29日生まれなので、まだ28歳の若さなのだが、大学在学中の21歳のときに長編ファンタジーThe Poppy War (2018) でデビュー。三部作の第一巻となったこの作品でネビュラ賞にノミネートされるなど“それなりの”注目を浴びたが、なんといっても彼女の名前を斯界に広めたのは、長編第四作のBabel: Or the Necessity of Violence: An Arcane History of the Oxford Translators’ Revolution(2022)だ。この題名『バベル――あるいは暴力の必要性――オックスフォード翻訳家革命秘史(仮)』がいみじくも示しているように、翻訳行為により魔法的力を発揮する「銀」をもって世界の覇権を握る19世紀の英国で、その中心となるオックスフォード大学王立翻訳研究所「バベル」を舞台に中国生まれの孤児だった主人公ロビン・スウィフトたち四人の学生の壮絶な青春を描いた邦訳1600枚を超えるファンタジー巨編。2022年8月末に発売されるや、ティックトックなどのSNS中心に若い読書人のあいだで大評判になり、ベストセラー・リストの上位を賑わすようになった。筆者もタイトルと内容に惹かれて読み始め、一週間後に読み終えるとすぐレジメを書き上げ、各所に売りこみをかけたくらい、惚れ込んだ。その甲斐あってか、版権を取得した東京創元社から翻訳の依頼を受け、2024年1月に脱稿。大長編であるだけに長い編集作業を経、いまのところ、2025年1月あたりの刊行を目指しているところである。

 当時作成したレジメでは、2023年発表の各種文学賞の候補には必ず入ると断言したのだが、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞という業界の三大賞のいずれかは取ってほしいと願っていた。というのも、無名の新人作家の分厚い本は、いくら訳者が賛辞を並べたところで、そう易々と読者に手に取ってもらえるようなものではない。ここはぜひ有名な賞のお墨付きがほしかった。

 すると、まず、2023年5月にネビュラ賞長編部門を受賞、6月にはローカス賞のファンタジー長編部門を受賞した。そうなると、ヒューゴー賞受賞も当然視野に入ってくる。ネビュラ&ヒューゴー二冠となれば、新人作家としてこれ以上ない肩書きになる。しかも、この年の世界SF大会(ワールドコン)は、中国の成都市で開催されることになっていた。ヒューゴー賞は、その年のワールドコン参加者の投票で決まる。つまり、投票者のかなりの数を中国人SFファンが占めており、中国系作家による作品で、なおかつ中国も重要な舞台になっているため、これは最終候補にさえ入れば、ほぼ確実に受賞する、と期待していた。

 ところが、7月6日に発表された長篇部門最終候補6作品にBabelは入っていなかった。「あ、辞退したんだ」というのが筆者の脳裏に浮かんだ最初の感想であり、おそらく大半のSF関係者もそう思っただろう。ネビュラもローカスも獲っている作品がヒューゴー賞にノミネートされないというのは、辞退以外考えにくい。成都ワールドコンは、中国の政治体制に対する批判や、ウクライナ侵攻支持を公言したロシア人作家セルゲイ・ルキヤネンコをゲスト・オブ・オナーのひとりに選んだことに対する批判などから、ヒューゴー賞のノミネートを辞退したり、大会への参加を取りやめたりする作家の声が上がっており、R・F・クァンもそのからみで辞退したのではないか、と思われた。

 成都ワールドコンは10月18日から22日にかけて開催され、21日には、ヒューゴー賞贈賞セレモニーがおこなわれ、大会はつつがなく終了した。

 しかし、ロングリスト(予備投票上位15位までの投票数を明らかにするリスト。予備投票の上位6位までが最終候補作になる)は、セレモニー後すぐに発表されるのがつねであるのだが今回は発表されなかった。ヒューゴー賞の規約では、ワールドコン終了後、90日以内に公表されるものと規定されているのだが、ちょうど90日後の2024年1月20日に発表され、そこから前代未聞のヒューゴー賞の不正を巡る騒動が勃発した。

 ロングリストの発表で、各部門の上位6作に入っていた一部の作品が「候補資格なし」のひと言で、ノミネーションを取り消されていたことが判明したのだ。長編部門ではR・F・クァンのBabel(ロングリストの順位は3位。1位トラヴィス・バルドリー『伝説とカフェラテ』、2位T・キングフィッシャーNettle & Boneと僅差で並んでいた。最終的に受賞したのはキングフィッシャーの作品)、短編部門では海漄ハイ・ヤー「尽化塔」(同6位)、映像・短編部門では、ニール・ゲイマン共同制作・製作総指揮の『サンドマン』第6話「翼の音」(同3位)、ファンライター部門ではポウル・ワイマー(同3位)、アスタウンディング賞(最優秀新人作家賞)部門ではシーラン・ジェイ・ジャオ(同4位)。このうち、クァンとジャオが中国系作家であることから(ジャオは中国系カナダ人)、いわゆるエクソダス系作家への差別や検閲があったのではという疑惑もある。そのため具体的な理由を記さずに候補資格なしにしたことに対して、このヒューゴー賞関連の集計や候補作資格の確認等の作業を司る機関であるヒューゴー賞管理小委員会の委員長デイヴ・マカーティのフェイスブックに問い合わせが殺到した。するとマカーティが質問者に非常に失礼な対応を取り、なおかつ具体的な理由をいっさいコメントしなかったことから、炎上騒ぎになった。

 オミットされた当事者であるクァンは、自身のインスタグラムに、「自分は辞退していない」ことを表明、ニール・ゲイマンは直接マカーティのフェイスブックに自身が深く関わっている『サンドマン』のエピソードがオミットされた理由を何度も問いただし、ジャオやワイマーもまた、SNS等で自身に対する不当な排除に不信感を表明した(中国人作家海漄の反応は、寡聞にして知らない)。

 そして、2024年2月14日、クリス・M・バークリーとジェイスン・サンフォードというライターが共同名義で「2023年ヒューゴー賞――検閲と排除に関するレポート」なる長大で詳細な報告書を発表した。そのなかで前述の管理小委員会の一員であったダイアン・レーシーの内部告発と、リークされた小委員会内の電子メールによって、(1)マカーティ主導により、「中国、台湾、チベットなど中国当局を刺激する怖れのあるトピックに焦点を当てている作品や個人をチェック」し、(2)中国のSF専門誌〈科幻世界〉が作成したヒューゴー賞ノミネーション用中国語作品推薦リストを元にした組織票投票(候補リストスレート投票と呼ばれるものである)が疑われる中国語作品の大量削除の可能性が明らかにされた。なお、ヒューゴー賞の規約では、スレート投票は禁じられていない。

(1)については、かなりずさんなチェックだったらしく、中身を読まずとも問題となるかもしれないトピックを扱っていそうかどうかで判断されたようだ。事実、小委員会から委託されて作品チェックをおこなった人物は、メールで、「最優秀長編候補作の潜在的問題――Babelは、中国のことをたくさん書いています。中身を読んではいませんし、中国の政治には詳しくないので、この作品が“中国に否定的なもの”としてとらえられるかどうか判断できません」と書いている。Babelは、中国の話題が多出するが、政治的に問題になるようなところはまったくなく、事実、大陸版の中国語訳が2023年10月に刊行され、一カ月で三刷りになるほど売れた。中身をちゃんと読んでいれば、オミットされることなどなかったのではなかろうか。また、チベットに旅行したのが問題視されたと思しきファンライター部門の候補者ポウル・ワイマーは、実際に行ったのはネパールであったことを明らかにしている。

 この報告書の発表により、短編部門を「ラビット・テスト」(本誌vol.15掲載)で受賞したサマンサ・ミルズと、シリーズ小説部門を《時の子供たち》シリーズで受賞したエイドリアン・チャイコフスキーが、受賞を辞退することを自身のブログで発表した。

 当事者であるマカーティは、報告書発表以降、いっさい口をつぐんでおり(自身のフェイスブックも関連発言を削除の上、書き込み不可にしている)、自作の集計ソフトでまとめた投票の生データ公開も拒んでいることから、はたしてマカーティの背後に中国関係者がいたかどうか(当人は、中国当局の公式な関与はなかった、と断言している)を含め、今回の騒動の真相や動機は不明のままだ。とはいえ、内部告発者の証言やリークされたメール、ロングリストの投票結果が従来とは統計的に著しく異なる傾向を示していることから人為的な操作が疑われていること、そしてロングリストの公表をぎりぎりまで引き延ばしたことという状況証拠は十分出揃っている。要するに、ワールドコンを問題なく開催したいと思っていたマカーティ(成都ワールドコンの副実行委員長も兼ねていた)と大会関係者たち(?)が、中国側に過剰な忖度をして、問題になりそうな個人や作品を事前に検閲したのみならず、中国語作品ばかりがノミネートされることを危惧して、スレート投票を口実に、中国語作品をロングリストから削除したという言語道断な不正行為がおこなわれた「可能性がある」のが、2023年のヒューゴー賞だったというわけである。

 2024年のワールドコンは、8月にスコットランドのグラスゴーでひらかれるが、8月11日発表予定の2024年ヒューゴー賞の最終候補作がすでに今年3月末に発表されている。ポウル・ワイマーがベスト・ファンライター部門にノミネートされ、またアスタウンディング賞は厳密にはヒューゴー賞の部門ではなく、デル・マガジン社がスポンサーになっている別の賞であることから、スポンサーの意向によりジャオの候補資格が延長されて、同賞候補に特別にノミネートされた。しかし、それ以外の不当に排除された作品については、クァンのBabelも含め、なんの救済措置もとられなかった。

 ちなみに2023年の世界幻想文学大賞では、Babelは長篇部門の最終候補五作に入ったが、受賞にはいたらなかった。

 なお、2024年5月、中国二大SF賞のひとつで中国版ネビュラ賞にあたる第15回華語科幻星雲賞が発表され、Babelは外国語部門の金賞(ノミネート5作品のうち最優秀作)を受賞した。すなわち、マカーティたちの忖度はまったく無意味だったのだ。

 というわけで、今回の大騒動で、はからずもヒューゴー賞を受賞する以上に注目を集めてしまったBabel。2020年代最高のこのファンタジー大作を読者のみなさまにお届けすべく、目下、東京創元社編集部ともども粉骨砕身努力中であり、いましばらくお待ちいただければ幸いである。


【編集部補足】
その後、8月11日に発表された2024年ヒューゴー賞で、ファンライター部門をポウル・ワイマーが、アスタウンディング新人賞をシーラン・ジェイ・ジャオが受賞した。また、2023年に正当な理由なく候補から除外された人々に対する公式謝罪決議案と、ヒューゴー賞運営方式の改革案などがビジネスミーティング(総会)で議論され、可決された。公式謝罪は9月4日に行なわれた。
なお、Web上に「ヒューゴー賞は審査員制である」とする記事があるがこれは誤りで、ファン投票によって決められる賞である。また、「ヒューゴー賞は英語化(英訳)された作品でないと受賞できない」とする記事もあるがこれも誤りで、世界中のどこで、何語で刊行された作品でも受賞資格がある。

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本稿は8月16日刊行の『紙魚の手帖 vol.18 AUGUST 2024』の記事を転載したものです。


■古沢嘉通(ふるさわ・よしみち)
英米小説翻訳家。1958年北海道生まれ。大阪外国語大学デンマーク語科卒。イアン・マクドナルド『火星夜想曲』、マイクル・コナリー『ダーク・アワーズ』、クリストファー・プリースト『夢幻諸島から』、ケン・リュウ『紙の動物園』など訳書多数。

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