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「深緑野分のにちにち読書」第十二回

作家・深緑ふかみどり野分のわき先生の読書エッセイも今回よりnoteにお引っ越しとなりました。過去の連載も随時転載していきます。(編集部)



●8月某日 『呪術廻戦』芥見下々

 前回、読書日記をちゃんと書くと言ったのにもう間が空いてしまった。本当にどうしようもない。ごめんなさい。

 8月某日、週刊少年ジャンプで連載中(2024年10月現在は連載終了)の超大人気マンガ『呪術廻戦』芥見あくたみ下々げげ、ジャンプコミックス)が、いよいよあと5回で終わってしまう!というニュースを聞いて、急いで『呪術廻戦展』のチケットを買った。もう会期も終了間際で、入場も時間指定の完全予約制のため、私が購入した翌日にはチケットが全部売り切れてしまっていた。

 渋谷ヒカリエの『呪術廻戦展』は、想像していたよりもずっと私の〝ツボ〟だった。
 若い頃絵の勉強をしていたくせに、実を言うと私は美術展がそこまで得意ではない。いや美術館は好きなんだけど、どちらかというと現代美術館の、それも企画展ではなく、変なものとかコンセプトが明確に決まっている展示、あるいは常設展にあったインスタレーションや抽象画などよくわからないものが好きで、有名で古典的な油画や細密画を見ても「そうか~」とわりとあっさり通り過ぎてしまう。
 その点で『呪術廻戦展』は良い意味で予想を裏切られた。
 当初の目的は「舞台裏情報が盛りだくさん」だという図録を購入することだったため、事前情報0で突発的に行って、まあ普通に原画が静かに飾ってあるのかな、くらいの気持ちでいた。

「ひとりだしぷらっと並んでぷらっと出よ~」とじゅじゅさんぽばりの気軽さで入場待機列に並んだ深緑野分は、場内に入るなり五条悟から無量空処むりょうくうしょを食らった漏瑚じょうごさん状態になった。せめて簡易領域くらい会得えとくしておくべきだった。
 印象深い台詞群衆にはじまり、原画、原画と背景をミックスして合成していく映像、スケジュールのこなし方、芥見先生直々に寄せられた「こんなとこまで明らかにしていいの!?」すぎる膨大な情報量、裏話、詳細設定の数々。そして歴代の名アシスタントさんたちによる素晴らしい背景パネルの展示や、アシスタントさんたちが具体的にどんな指示を受けてどんな絵を描いたのか、その手早さや正確性などの芥見先生評などなどまである。
 つまり、超巨大メイキング展だ。しかも情報量が膨大で、とても読みきれない。
 漫画家がみんな原稿用紙にGペンや丸ペンで描いていた頃は、粛々しゅくしゅくと原画を展示して、読者が漫画家の腕のすごさを堪能するのが普通だった。けれども完全デジタル環境に移行した現代の漫画家となると、「生原稿」が存在しないのである。じゃあどうやってお客さんを楽しませるか?が問題になる。
 その結果、編集者との打ち合わせ、プロット、下絵、アシスタントさんへの指示、キャラクターを描いていく過程、アシスタントさんから上がった背景との合成などをまるっと紹介しちゃった方がおもしろいじゃん!という結論になって、こういう展覧会になったのだと思う。
 いやー、だからこそもう最高でした。
 私はメイキングオタクというか、映画にしろ何にしろ舞台裏を覗くのが大好きで、かつて『ロード・オブ・ザ・リング』のスペシャルエクステンデッドエディションをすべて買いそろえてメイキングを何度も見てディレクターズカットで4時間近い本編の複数あるオーディオコメンタリーも全部聞くということをやった人間である。長じて映画の特殊メイクやCGを取り上げた『スタッフロール』(文藝春秋)なんて小説も書いちゃったし。
 そんな感じなので、今回の『呪術廻戦展』は本当に私向きで最高でした。アシスタントさんの仕事っぷりとか、漫画なんてただでさえ描くの大変そうなのに、天下の『ジャンプ』で週刊連載をするという地獄のスケジュールはどうこなしているかとか、そういう「なるほど!」な視点が多くて大変面白かった。
 そんな中で非常に傲慢ごうまんなことを書きますが、意外と芥見先生と自分は創作スタイルが似ていることに気づきまして。
 プロットは、だいたいこんなところに落着すると道筋のポイントを大雑把おおざっぱに決め、登場人物の運命とかもそこでだいたい決めて動かさない。だけど、詳しい内容はより効果が高いものに入れ替え可能にしておく。見通した未来に変更はなくても中身は柔軟に入れ替えるやり方。たとえば、調べてみたら想定していた設定が使えない!とわかったら、物語の中身を、枠と未来は変えずに微調整する。または、このキャラはこっちに行かせるよりあっちをやらせた方が面白いな……よし、ちょっと人員配備を変更しよう、などなど。このつじつま合わせ、アイデアや発想の転換プラス論理的な整理が必要なだけに、やると結構面白い。設定だけじゃなくて導入を変えてみたりとかね。つまり「直す技術」なんだけど、そんなに特殊な技能ではなく、たぶん物語創作者はたいていこれができるんじゃないかな……と思っている。
 あと物語が進んだらもう取りこぼしたものがあろうがなんだろうが自分も一緒に先へ進める。「待った」なし。だからもし自分が詳細に設定を詰めていたとしても、物語の勢いが望んでいないのであれば振り返らない。切るところは切って、足りなかったものは自分の実力不足として引き受け、物語の勢いを止めない。予定していた設定や展開が日の目を見なくても構わない。やっぱり私の脳みそが考えた細々こまごましたことなんて、物語の驀進力ばくしんりょくに比べたらたいしたことじゃないんですよね。
 逆に、物語が必要だと意固地に動かないなら、読者が苛立いらだつのを感じたとしてもその場に留まる。待って、ここは我慢して、ちゃんと書くからと。作者より担当編集者より読者より、誰よりも何よりも、物語自身の声が一番重要。
 物語に対するそういう考え方が、たぶん芥見先生と似ている……と思った。外れていたらごめんなさい。
 ともあれ、充実した展覧会でした。なお目的の図録は完成度がめちゃくちゃ高くて、集英社さんこんなに安くていいんですか!?となった。少年少女たちも購入できる良心価格。素晴らしい。

 ところで本誌『呪術廻戦』、本当に連載が終わっちゃいまして、毎週呪術ロスに苦しんでいます。ちなみに推しは脹相ちょうそうはかり高羽たかばです。大人気お兄ちゃん脹相はともかく、秤と高羽はもっと人気が出てもいいと思う。私は高羽のような人間をからかわずあざけらず、真面目で良心的で素晴らしい人として描いてくれたところが呪術のすごいところだと思っている。普通に描くと馬鹿にされやすかったり脇役にしかならなかったりするタイプのキャラクターを、とても丁寧に描いてくれたことが嬉しい。全編で高羽VS羂索けんじゃくに一番興奮したのは私です。やっぱ領域展開が最強じゃなく、術式しかなくても強いかもしれないジャンケン方式設定が最高だ。ふたりの人気投票順位が低くて悲しい。

 心性が一番共感できるのはやっぱり主人公の虎杖いたどりで、私も黒閃こくせんだけは決める時に決められる人間になりたい。地道で良いから諦めないで最後まで立ち続けたい。
 しかしジャンプの主人公といえば能力が成長して最強になっていくのが定石じょうせきなのに、どうして虎杖は主人公なのになかなか能力が成長しないキャラクターになったのか。その謎は、登場人物たちの手印や特徴から仏教の誰に相当するかという考察をしていた読者の、虎杖はこれだという解釈によって氷解して、ちょっと鳥肌立つくらい感動しましたよ。だとするとすべてのつじつまが合って、泣きそうになってうわーと空を仰いでしまった。そうか、呪術はそういう話だったんだなあ。
 最底辺より深い闇に墜ちたとしても、光はまたたくもの。呪術の新しい話が読めないのが寂しくてたまらない。
 限りなくドライなのに登場人物全員もれなく心が重くて湿っていて、恐ろしくて優しくて、最高に好きな漫画でした。芥見先生とアシスタントのみなさん、素晴らしい作品をありがとうございました。


●9月某日 『精霊を統べる者』P・ジェリ・クラーク、青崎有吾『地雷グリコ』

 ジュール・ヴェルヌは「人間が想像できるものは人間が必ず実現できる」と言った、らしい。
 けれどもまだ本物の魔法が発見されたことはない。確かに科学技術は魔法に見えるけれど、「本物の魔法」は、人間がいくら想像力を働かせて夢に描いても、この世に現れない。ジュール・ヴェルヌ自身、『蒸気で動く家』では「可能性の範囲内にあることはすべて実現されるべきだし、きっと実現される」と書き、ちょっと消極的だ。
 でももし仮に、何かのきっかけであり得なかったはずの超自然的力を手に入れることができたら、人間は、世界はどうなるのだろう? たとえば蒸気機関が発明されたように、魔法がやってきて魔法革命が起きたとしたら? それはスチームパンクならぬマジックパンクだ。

 そんな発想のど真ん中にストレート剛速球を投げ込んできた作品、P・ジェリ・クラーク『精霊を統べる者』(鍛治靖子訳 創元海外SF叢書)を読み終わった。
 舞台は20世紀初頭の1912年、イスラーム社会であるエジプト。とある大変革が起きて以来、現実世界におけるキリスト教/西欧に偏った均衡が大逆転し、イギリスなどは「わびしいちっぽけな島国」呼ばわりをされるほど。

 ある晩のエジプト、ギザの邸宅で、〝アル=ジャーヒズ秘儀友愛団〟の面々が集まっていた。これは没落しつつある英国人を中心にした秘密結社で、団長のワージントン卿はイギリスとエジプトを仲介する重要人物でありながら、アル=ジャーヒズという世界のバランスを変えた伝説的な人物をあがめ、彼にまつわる神秘的な物品を蒐集しゅうしゅうしている。
 しかしその会合の最中に、突如として仮面をかぶった全身黒ずくめの男が配下を連れて現れ、「われこそはそなたらの求める者。アル=ジャーヒズなり。われ、もどれり」と宣言する。突然の出来事に友愛団の面々は狼狽うろたえ、否定したり、信じようとしたりしたが、いずれの者も魔法の火で焼き殺されてしまう。

 このアル=ジャーヒズなる男がかつてもたらしたものは、魔法だ。彼は奇妙な技を使ってこの世の領域の障壁を弱め、それ以来、アラブの精霊、ジンたちが大勢やってくるようになった。世界は人間がジンや魔法と同居する世界へと大変革した。
 魔法の力は、自動人形の蒸気駆動宦官ボイラープレート・ユーナック自動馬車オートキャリッジといったテクニカル面をいちじるしく昂進こうしんするだけでなく、女性の社会進出も進み、エジプトはイギリスより先に女性参政権を認めた。
 しかしアル=ジャーヒズ当人は、1873年、変革をもたらした機械ごと消えてしまい、すべてが謎に包まれたまま。

 英国人太守を含む友愛団の24人が焼死した事件の捜査を任されたのは、魔術省に勤務するファトマだ。彼女は魔術省最年少の女性エージェントであり、日々、魔法――魔法が込められたもの、錬金術、そして精霊ジン――にまつわるトラブルと対峙たいじしている。
 山高帽に高級なスーツ、こだわりのネクタイに磨き上げた靴、洒落者しゃれもののファトマが事件の捜査を行う最中、生きていればとうに百歳を超えているはずのアル=ジャーヒズを名乗る人物が人々の前に現れる。ジンのイフリートを伴ったパフォーマンスが民衆の間に混乱を引き起こし、事件はますます不可解な展開になっていく。
 しかしファトマは「あれは〝成り済まし〟だ」と確信。美しく強き恋人のシティ、そして新任(そしてファトマに続く女性のエージェント)のハディアと共に事件の謎を追う。

 ……と、あらすじはこんな感じなのだが、とても面白かった。
 エンターテインメント作品、それも19世紀末や20世紀初頭が舞台というとイギリスが舞台になることが多いけれど、この物語ではイギリスはむしろ脇役、落ちぶれた国として登場する。代わりの華々しき世界の中心はイスラーム社会で、しかも女性が躍進しているという残念ながら現実ではなかなか実現が難しい世界設定だが、「あり得ない現実×あり得ない現実=リアルになる」稀有けうな例を見た気持ちになった。
 とりわけファトマ、恋人のシティ、相棒となる新任のハディアという主要登場人物の三名が女性であるのが良い。著者は男性だが、まったくそのあたりの障壁を感じない描き方で、三人ともそれぞれに個性豊かで楽しく、かわいらしい。特にシティはもう、初登場の一瞬だけファム・ファタルっぽい雰囲気を出すが、後はずっとシティが強くてかわいくてかっこいいターンが続く。ファトマはシティにめろめろだが、そりゃこんなに完璧な女性がいたら夢中になってしまうでしょう。新任の生真面目で粘り強いハディアもすごくいいキャラクターだ。

 また三人ともそれぞれ別の「女性的シグナル」を象徴しているように思った。ファトマは男性と表現されてもあまり区別がつかないくらい中性的だが、一方のシティは美しくて強く、どこか官能的だが溌剌はつらつとして女性性を思い切りエンジョイしている。またハディアは気持ちがやや空回りしているタイプの思い詰めやすい女性。他にも女性キャラクターがたくさん登場し、大活躍する本作なのだが、設定の段階でそれぞれに担当する「女性的シグナル」が与えられているのではないか。

 歴史改変SFファンタジーとしても、著者が歴史学の助教としてコネチカット大学勤務というだけあって、時代背景の変更ポイントが大変ユニークで面白かった。ネタバレなので伏せるけれど、とある歴史上の人物の肩にとある存在が乗っている描写、あれは特にこの周辺の歴史が好きな人は笑うと思う。

〝精霊を統べる〟とはどのような状態を意味するのかがわかってきて、この作品が否定したかった重要なテーマに触れた時、またアル=ジャーヒズを名乗る人物の目的を知った時、骨が太いエンタメはこうでなくちゃ!!!と興奮した。あとひょっとしてジュール・ヴェルヌか?と思って調べたら、著者のP・ジェリ・クラークはジュール・ヴェルヌの大ファンで本作も影響を受けてるとブログに書いてましたね。そういえばアル=ジャーヒズとジュール・ヴェルヌってひょっとして同世代じゃあるまいか?
 とにかくめちゃくちゃ面白く、今年のSF、あるいは翻訳ミステリのジャンルも、この『精霊を統べる者』が目玉になってきそうな予感がします。まだ読んでない方は今からでもぜひぜひ!

 しかし、海外の小説を読む人はご存知かと思うが、本当に改めて海外の小説って日本のものと全然違う。自由で派手で、漫画や映画みたいなことをやっても許されて、賞まで獲ってしまえるからうらやましい。
 これは私の仮説だが(他にも同じ事を言ってる方がいるかもしれないが)、日本には漫画がある分、「小説=固くて真面目で破天荒なことはやらないもの」という枠組みの中に入ってしまったのではないだろうか。もちろんライトノベルというジャンルがあり、これは魔法などのエンタメを扱うが、どちらかというと読者層はやはり漫画やゲーム、アニメを好む層であり、「小説は真面目で固くなければならない」と思い込んでいる人々とは別だ。

 日本で『精霊を統べる者』のような小説が一般文芸として出版できるかというと、結構難しいし、書ける人も少ない。西尾維新さんとか思い浮かんだけども、たぶんもう「ジャンル・西尾維新」になってる気がする。

 以前、神奈川県立図書館でヤングアダルト=YA文学が日本で少ないという話をしたし、YAが国内でしっかりジャンル化されることは大切だと思っているんだけど、実は日本の一般文芸ってYAと読んでもいいものがとても多いのですよね。中学生や高校生が主人公の文芸作品、推理小説、SFはとても多い。
 日本のエンタメは漫画がになっている比重が大きいのは事実で、じゃあ10代の子は漫画があるから小説を読まないのか? というとたぶん違うんですよね。
 ど真ん中のめちゃくちゃ面白い血湧き肉躍る一般文芸のエンタメ小説、日本だと全然ない。アメリカだとヒューゴー賞、ネビュラ賞、コスタ賞(2022年終了)なんかを獲るようなタイプの小説が、全然ない。というかそういう小説を評価できる賞が日本SF大賞や星雲賞くらいしかないと言うべきだろうか。本屋大賞はYAをよく選ぶのでYA小説賞とほぼ同義な気も、昨今はします。

 翻訳された小説を読むようになると、小説はどこまでも自由だと思える。
 ジョー・R・ランズデールの「キャデラック砂漠の奥地にて、死者たちとたわむるの記」という短編をはじめて読んだ時は本当に衝撃だった。
 賞金稼ぎがダメ泥棒と一緒にゾンビがうろつく荒野をキャデラックで走り、ゾンビにミッキーマウスの耳をつけさせて「いえすのなにおいて」と唱えさせる怪しいカルト教団と出会い、途中で二丁拳銃の修道女(しかも少女)と共闘したりする話なんだけど、すごーく面白いし、こんなことやっていいの!?って脳から汁がぶしゃっと出る感覚がする。こういうふざけてて面白いエンタメ小説、ほんと最高だと思う。

 そういう点で青崎有吾『地雷グリコ』(KADOKAWA)は素晴らしかった。
 もう数々の賞をお取りになっているしここでえていろいろ書くのもなと思うんだけど、私は個人的に、物語やキャラクターの良さはもとより、これほど文章でルール説明をすんなりできる人はなかなかいないんじゃないかなと、そこに驚嘆しました。
 あらすじをざっと書くと、高校生の真兎まとという女の子が、見た目がギャルなのでめられはするんだけども、ある事情や賭け事などの取引として数々の奇妙なゲームを行い、挑戦者として勝っていくという話。
 この各ゲームの勝負はルール説明の時点からはじまっているんですが、とにかく文章の手際がよくてすんなり頭に入ってくる。特に真兎も対戦相手も「ルールの穴」を利用することで自分の勝ちを引き寄せるため、このルールをちゃんと読者がかみ砕けるかどうかで面白さが変わってしまう。もしルール説明の段階から「?」と思われちゃうとその時点で読者は本を閉じちゃうんですよ。でも『地雷グリコ』を読むとわかるんですが、ページをる手が止まらないし、頭の中でざーっと状況を再構築できる。
 これがとても面白くて興奮しました。説明の手際があまりにもよいので気づかれない匠の技。あやかりたい。
 一番好きなのはやっぱり最後のフォールームポーカーかなあ。これはものすごいびっくりした。読み合いの更に読み合いの更に読み合いの更に……みたいな、幾重にもからんだ伏線や揺さぶりにも負けずによくここまで到達しました勇者よ……

 ともあれ、次回は安定的に更新できるようにしたいです。がんばれ!


■深緑野分(ふかみどり・のわき)
1983年神奈川県生まれ。2010年、「オーブランの少女」が第七回ミステリーズ!新人賞佳作に入選する。13年、入選作を表題作とした短編集でデビュー。15年刊の初長編『戦場のコックたち』は、三つの年末ミステリベストランキングでベスト3にランクインしたほか、第154回直木賞、2016年本屋大賞、第18回大藪春彦賞の候補となるなど高く評価されている。著作に『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)、『この本を盗む者は』『空想の海』(KADOKAWA)、『カミサマはそういない』(集英社)、『スタッフロール』(文藝春秋)などがある。


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