【創立70周年記念企画】エッセイ「東京創元社、私の一冊」その11:「お城で暮らしてるみたいに」文月悠光
東京創元社では創立70周年を記念して、全国の書店様で2024年4月と7月、そして11月の3回「創立70周年フェア」を開催しています。そのうち7月のフェアでは『創立70周年記念小冊子』という文庫本サイズのブックレットを作成し、配布しました(2024年12月現在、小冊子の配布は終了しております)。
その中で「東京創元社、私の一冊」というテーマで小説家、編集者、声優、ライター、詩人、歌人等、各方面で活躍される総勢15名の皆様に小社で刊行している書籍を1冊お選びいただき、その本にまつわるエッセイを執筆いただきました。Web東京創元社マガジンでは、そのエッセイをおひとりずつご紹介させていただきます。
「お城で暮らしてるみたいに」
文月悠光(ふづき・ゆみ/詩人)
『ずっとお城で暮らしてる』シャーリイ・ジャクスン/市田泉訳(創元推理文庫)
東京創元社の名前を知ったきっかけは、桜庭一樹さんが東京創元社のウェブマガジンに連載されていた読書日記だった。当時札幌の高校生だった私は、文学について話せる友人がおらず、桜庭さんの読書日記が読書のお手本だった。イアン・マキューアンも、佐々木丸美も、車谷長吉も(雑多!)、この連載とその書籍版で興味を惹かれて手に取ったはずだ。日本中にそんな文学少女がいたに違いない。
シャーリイ・ジャクスンの代表作『ずっとお城で暮らしてる』も読書日記で知った一冊だ。主人公の少女・メリキャットは、姉のコンスタンス、伯父のジュリアンと共に、ブラックウッド家の古い屋敷で暮らしている。彼らはかつてこの屋敷で起きた毒殺事件の生き残りらしい。事件の犯人扱いされて以来、屋敷の外に出られなくなった姉に代わり、食料品の買い出しはメリキャットが担うが、彼女が一歩外に出れば、一家への容赦ない悪意が降りかかる。そのとき、村の子どもたちが口ずさむ〈メリキャット お茶でもいかがと コニー姉さん/とんでもない 毒入りでしょうと メリキャット〉という歌は、読書好きの間でも有名だろう。
状況が悪化するにつれて、メリキャットはまじないのような儀式に熱中し、「月の上で暮らしてる」といった妄想に固執する。しまいには荒れ果てた屋敷で、姉妹は彼女たちだけの平穏な暮らしを取り戻すのだ。窓から差し込む日の光に感謝すらしながら。
〈ブラックウッド家の女たちはみんな、大地から来る食べ物を受け取り、保存してきた。濃い色のジャムやピクルス、瓶詰めの野菜や果物――栗色、琥珀色、深緑色の瓶が地下室にずらりと並べられ、永久にそこにとどまっているはずだ。ブラックウッド家の女たちによる詩のように〉。
詩のように美しく、絶対的なものとして並ぶ瓶詰めをはじめ、屋敷の台所には、女たちが代々受け継いできた道具が並んでいる。あるべき場所にあるべきものがある秩序を守ること。破壊から目を背け、ままごとのような暮らしを続けること。姉妹は自分たちが「幸せになれる」という確信を捨てない。屋敷の存在に怯える村の人々の方が不幸に見えてくる終盤の展開に私はゾクゾクした。
本作を再読して思い出した記憶がある。まだ四、五歳の頃、自宅の窓から見える隣家の窓をよく観察していた。時折、窓明かりに女性の人影が揺れるのだ。何か悲しいことや訴えたいことがあれば、私はその影を窓辺に確かめにいき、親しげに呼びかけた。そのとき胸に広がる甘くて温かい感覚を味わい尽くそうとした。すごく幸せだった。お城で暮らしているみたいに。
私は見知らぬ女性の姿に何を重ねていたのだろう。今思い出すとゾッとするが、私は自分を隣の家の子にしてもらえると信じていたのだ。幼い心を救うための妄想は、ときに狂気と紙一重なのだと思う。閉塞的な暮らしに加え、さらに姉という共犯者がいたならば……。幸せな記憶だったはずの出来事に、確かな狂気が潜んでいた。私はもうメリキャットをひと事とは思えない。
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■文月悠光(ふづき・ゆみ)
詩人。1991年生まれ。主な著書に詩集『適切な世界の適切ならざる私』『屋根よりも深々と』『わたしたちの猫』、エッセイ集『洗礼ダイアリー』『臆病な詩人、街へ出る。』などがある。
本記事は東京創元社編集部編『東京創元社 創立70周年記念小冊子』に掲載されたエッセイ「東京創元社、私の一冊」の一部を転載したものです。