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【創立70周年記念企画】エッセイ「東京創元社、私の一冊」その7:「一目惚れ」馳星周

東京創元社では創立70周年を記念して、全国の書店様で2024年4月と7月、そして11月の3回「創立70周年フェア」を開催します。そのうち7月のフェアでは『創立70周年記念小冊子』という文庫本サイズのブックレットを作成し、配布しました(2024年11月現在、小冊子の配布は終了しております)。

その中で「東京創元社、私の一冊」というテーマで小説家、編集者、声優、ライター、詩人、歌人等、各方面で活躍される総勢15名の皆様に小社で刊行している書籍を1冊お選びいただき、その本にまつわるエッセイを執筆いただきました。Web東京創元社マガジンでは、そのエッセイをおひとりずつご紹介させていただきます。


「一目惚れ」

馳星周(はせ・せいしゅう/作家)

装画:miltata/装幀:大岡喜直(next door design)

『007/ロシアから愛をこめて【新訳版】』イアン・フレミング/白石朗訳(創元推理文庫)

「お、ジェームズ・ボンドのじゃん」

 函館の書店で創元推理文庫の棚を眺めているときに〈007〉の文字が目に飛び込んできた。当時のわたしは小学校高学年だったか、中学生になっていたか。文房具屋のついでに本を売っているというような書店が一店しかない田舎で生まれ育ったわたしにとって、母の実家に行く盆暮れは、函館市という都会の書店を巡り歩く数少ないチャンスだった。この日も、デパートに買い物に行くという家族とは別行動をとって書店を覗いていたのだ。

 背表紙に記された本のタイトルは『007 ロシアから愛をこめて』。スパイだの冒険だのといった言葉にあらがいがたい魅力を感じる年頃だ。映画の007シリーズはテレビで放映されたものを何本か見ていた。

 映画は面白かった。原作も面白いに違いない。そう思い、棚から本を抜き出して裏表紙を自分の方に向けた瞬間、得体の知れないものに心臓を射貫かれた。

1975年の58版/井上一夫訳

 裏表紙は映画のワンシーンを切り取った写真だった。後で知るのだが、映画でボンドガールを務めたダニエラ・ビアンキがベッドに横たわり、シーツで胸元を隠した姿で妖艶に微笑んでいる。

 慌てて隣にあった本も抜き出し、ダニエラ・ビアンキの上に重ねた。そっと視線を店内に走らせる。わたしの動きに目を光らせている人間はいなかった。

 レジで会計を済ませる間、心臓がばくばく脈打って、レジ係に不審に思われるのではないかと気が気ではなかった。紙のカバーを掛けてもらった本を鞄の奥に押し込んで、逃げるように店を出た。

 紙カバーはずっと掛けたままだった。家の自室でときおりカバーを外し、妖艶なダニエラ・ビアンキにじっと見入った。

 小説の内容は忘れても、あの表紙写真は死ぬまで忘れないだろう。北海道の田舎で暮らす少年は、一瞬で写真の中の女性に心を摑まれてしまったのだ。

 創元推理文庫で一冊挙げろと言われたら、一も二もなく『007 ロシアから愛をこめて』になってしまうのである。

*     *     *

■馳星周(はせ・せいしゅう)
1965年北海道生まれ。96年に『不夜城』で作家デビュー。同書で第18回吉川英治文学新人賞と第15回日本冒険小説協会大賞を受賞する。98年に『鎮魂歌』で第51回日本推理作家協会賞、99年に『漂流街』で第1回大藪春彦賞、2020年には『少年と犬』で第163回直木三十五賞を受賞した。そのほか『夜光虫』『ダーク・ムーン』『約束の地で』『アンタッチャブル』など著書多数。


本記事は東京創元社編集部編『東京創元社 創立70周年記念小冊子』に掲載されたエッセイ「東京創元社、私の一冊」の一部を転載したものです。


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