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【8月22日刊行】鈴木力/宮西建礼『銀河風帆走』(創元日本SF叢書)解説[全文]

鈴木 力 Chikara SUZUKI


『銀河風帆走』書影
『銀河風帆走』書影

世界列国、いや全人類は目下科学の恩恵に浴しつつも同時にまた科学恐怖の夢に脅かされているのだ。/このように、恩恵と迫害との二つの面を持つのが当今の科学だ。神と悪魔との反対面を兼ね備えて持つ科学に、われ等は取り憑かれているのだ。斯くのごとき科学力時代に、科学小説がなくていいであろうか。

――海野十三「『地球盗難』の作者の言葉」

 SFとは何か。SFは何のためにあるのか。
 断言しよう。宮西建礼の第一短編集である本書は、その問いに対するひとつの答えであると。ここにはSFがSFであるためのエッセンスが凝縮されている。
 宮西は一九八九年生まれ。二〇一三年、本書の表題作で第四回創元SF短編賞を受賞。当時は京都大学農学部資源生物科学科に在籍する学生で、二十三歳の若さだった。
 それから十一年。共著の写真集『京大吉田寮』(草思社、二〇一九年)を別にすれば、書き下ろしを含む本書収録の五編が、商業媒体で発表された宮西の全作品である。
 寡作の人である。短編集の刊行を辛抱強く待ち続けた読者も多いのではないか。本書はその辛抱に報いて余りある収穫である。
 ここからは収録作を個別に見ていこう。
「もしもぼくらが生まれていたら」(初出は『宙を数える 書き下ろし宇宙SFアンソロジー』創元SF文庫、二〇一九年)は創元SF短編賞受賞後、六年の空白を経て発表された受賞第一作。高校生三人組が、地球と衝突する小惑星の軌道を変えようとする物語だ。小惑星が地球と衝突するというストーリーだけでも十分読者を惹きつけるものだが、本編にはもうひとつ設定に捻りが加えられている。ネタバレにならない範囲で言うと、本編は〝かつては盛んに書かれたが今ではほとんど顧みられなくなったSFのサブジャンル〟を現代的に再生したものである。その問題意識は世界情勢を考えると発表当時より二〇二四年現在の方がより切実に響く。読者は本編を読み終えたあと、ぜひタイトルの意味するところに思いを致してほしい。第五十一回星雲賞日本短編部門参考候補作。発表後、伴名練編のアンソロジー『新しい世界を生きるための14のSF』(ハヤカワ文庫JA、二〇二二年)に再録された。
「されど星は流れる」(初出は堀晃ほか『Genesis されど星は流れる』東京創元社、二〇二〇年)ではパンデミック下の世界で、高校生二人の始めた天体観測が、多くの人によるネットワークへと拡がっていく。機材も資金も足りず、それどころか直接会うこともままならない高校生が創意工夫で天体観測する姿が本編の読みどころ。パンデミック×部活動×天体観測というテーマでは、辻村深月も『この夏の星を見る』(KADOKAWA、二〇二三年)という青春小説の秀作を発表しているが、そちらが天体観測ネットワークの形成をあくまで人間ドラマとして捉えているのに対し、本編では観測を通じた知の集積の過程から、人間にとって科学とは何かというテーマへと踏み込んでいる。この点こそ本編がSFである所以だろう。
「冬にあらがう」(初出は『紙魚の手帖』vol. 12 東京創元社、二〇二三年)も主人公は高校生である。近未来、世界規模の食料危機が起こる中でセルロースをグルコースに変える化学実験に挑む姿が描かれる。全編ほぼ実験の繰り返しながら退屈との印象を与えないのは、明日にでも現実に起こりうるような設定の危機意識と、政治経済のシミュレーションにリアリティがあるからだろう。一方で登場人物が夕焼けを見る場面は幻想的な美しさに満ちているが、その意味するところを考えると衝撃的でもある。こうした何気ない描写が、本編に小説的な膨らみを与えている点も見落としてはなるまい。なお蛇足だが星新一は学生時代、敗戦直後の食料難に対処するため主人公たちと同じ研究をしていたという。
 書き下ろし作品「星海に没す」は、これまでと一転して深宇宙が舞台となる。他星系へ向かう宇宙船を管理する「わたし」ことAGI(超知能AI)が、AGI破壊を目論む人類の宇宙戦艦と戦う。人間の感覚からすれば長大な、だが宇宙的尺度からすればわずかな距離を挟んだ攻防は谷甲州の《航空宇宙軍史》を彷彿とさせるリアリティとスリルに満ちている。一方で「わたし」の思考は、自分の存在意義とは何か、自分に与えられた使命の意味とは何かをめぐって展開する。激しい宇宙戦と静かな思索が同時進行する構成が本編に奥行きを与えている。
「銀河風帆走」(初出は大森望・日下三蔵編『極光星群』創元SF文庫、二〇一三年)の舞台も遠未来の宇宙。銀河系規模の破滅から逃れるため、エトクとレラという知性を持った宇宙船が地球生物の遺伝情報を積み別の銀河系を目指す。遠くへ、未知の世界へ旅立とうとする人類の意志を高らかに謳い上げた作品であり、地べたに咲くタンポポと、深宇宙を往く宇宙船のイメージが、痩果の綿毛を媒介として二重写しになる瞬間は感動的だ。同時に本編は、知性が自然を改変してしまっていいのかという環境問題を地球規模より遙かに巨大なレベルで問うた作品でもある。創元SF短編賞の選考委員からは「この長さで遠未来の深宇宙を描き切る筆力と蛮勇は貴重」(大森望)、「正統派の宇宙SFで、イメージの広がりが素晴らしい」(日下三蔵)と評された(「選評」大森望・日下三蔵編、同上書)。第四十五回星雲賞日本短編部門参考候補作。
 ところで本書を通読した方は、デビュー作にすでに全体を貫く通奏低音が響いていたことにお気づきだろう。鍵は第4章で、エトクとレラが、将来自分たちが播種した世界での幸せについて交わす会話にある。「新しい人間は〝大切なもの〟を犠牲にすることなく幸せになってほしい」とレラは言う。「もしも~」でも、「されど~」でも、「冬にあらがう」でも、主人公たちは幸せになる道を模索しながら、そのために〝大切なもの〟を犠牲にしようとする動きは断固として拒否する。方向性は違うが「星海に没す」のAGIも宇宙の彼方での思索の果てに〝大切なもの〟を見出すだろう。レラの言葉こそ、宮西作品の基底をなす祈りにも似た倫理なのである。
 その倫理を裏で支えているのが科学である。ここでもう少し、宮西作品と科学の関係を考えてみたい。
 実は宮西は、自作に関して二回注目すべき発言をしている。一回目は表題作で創元SF短編賞を受賞したときである。

 ぼくの作品が、ふだん宇宙に馴染みのない人が天文学や宇宙開発に興味を持つきっかけになったとしたら、それにまさる幸せはありません。(「著者のことば」、同上書)

 二回目は「されど星は流れる」を発表したとき。

 流星同時観測の認知度向上と普及、そして系外流星発見の一助になればと思い、この物語を書きました。(「ちいさなあとがき」、堀晃ほか、前掲書所収)

 なぜこれらが注目すべき発言なのか。
 SF作家ならば科学知識の普及を願わない者はいないだろうし、SFを読んで何らかの科学知識を身につけた読者もまた多いだろう。しかしこれはあくまで一般論・結果論であり、ガーンズバックの時代ならともかく現代においてSFが科学知識普及のための文学ではないことは、今さら指摘するまでもない大前提である。
 こうした状況下では、たとえ科学知識の普及が作品の主目的ではないにしても、自作についてここまではっきりと書く作家はかなり少数派に属する。「個々の人間は無力でも、科学を駆使すれば少しくらいなら〝世界〟を変えられるかもしれない」(『紙魚の手帖』vol. 18[東京創元社、二〇二三年]掲載のインタビューより)という思いが、宮西にこのような愚直なまでの態度をとらせるのではないか。それはSFとしては一種の先祖返りなのかもしれない。だが、同時に宮西作品はその鋭い問題意識によってみごとに現代の小説としても成立している。
 もちろん科学は無条件で善なるものではない。現実と同じように、本書収録作の中でも人間はしばしば科学によって〝大切なもの〟を犠牲にし、幸せどころか災いを招いてしまう。しかし、それでも、人間は科学によって進み、いつか〝大切なもの〟を犠牲にすることなく幸せになることができるのではないか。それを希望と呼んでもいい。
 このとき読者の胸には、本稿の冒頭に掲げた日本SFの先駆者・海野十三の言葉が甦ってくるに違いない。
 そう、本書には〝科学小説〟の初心が息づいているのだ。


本稿は8月22日刊行の『銀河風帆走』巻末解説を転載したものです。


■ 鈴木 力(すずき・ちから)
1971年生まれ。東洋大学SF研OB・SFセミナースタッフ・ライター。SF作品の解説・ブックレビューなどを執筆する。最近の仕事に、荻堂顕『不夜島』レビュー(SFマガジン2024年4月号)など。

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