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第15回創元SF短編賞選考経過および選評

【編集部より:こちらは2024年6月17日初出の記事のnoteへの転載です】


選考経過

 第十五回創元SF短編賞の公募は二〇二三年二月十三日に開始しました。二〇二四年一月九日の締切までに五二一編の応募があり、外部協力者を含む第一次選考で二月二十日に六七編を選出したのち、編集部三名による合議の第二次選考で三月十三日に次の五編を最終候補作と決定いたしました。

最終候補作一覧

稲田いなだ一声ひとこえ「廃番の涙」(「廃番となった感情について」より改題)
神無月かなづきけい「わだつみの揺り籠」(「殻と月輪」より改題)
難波なんばゆき「最後のラクダ」
金森かねもりムルむる夜叉やしゃヶ池がいけ玻璃はりのしがらみ」(「夜叉ヶ池玻璃しがらみ」より改題)
三浦みうらはい「からくり千年道中」(「籠中の鳥、恋を知らず」より改題)

 この段階で通過者に感想と指摘を伝え、約二週間の期間で一度改稿していただきました。編集部の総意として、細部の指摘はせず、大きく気になった点を順に伝えました。
 最終選考会は、飛浩隆とびひろたか宮澤みやざわ伊織いおり小浜こはま徹也てつやの三選考委員により四月二十二日、小社会議室で行い、受賞作を次のとおり決定いたしました。

受賞作 稲田一声「廃番の涙」


選評

飛浩隆  Hirotaka Tobi

 募集要項には「広義のSF」とある。よっていわゆる「SF度」の強弱や斬新さのみでは順位を付けない。「作品が達成しようとした狙いが果たされたか」「ここ数年刊行されたジャンルSFのアンソロジーに収録されても遜色なく、かつ記憶に残るか(つまり新人作家として読者を獲得できるか)」を念頭に臨んだ。以下、拝読順に所感を述べる。
■わだつみの揺り籠
 全球凍結後の人類が、深海に棲息する巨大蟹の背面に人口五万の居住施設を築く設定。この「帝王蟹」の由来が明確でなく、またその巨大さが物語にあまり活かされない。メインアイディアと深く関わる帝王蟹の生活環も明らかにされない。なので異常生物や激変環境下社会のSFとして高く評価することは難しい。したがってこの小説の最大の読みどころ――最終場面の凍えるようなうつくしさや、主人公二人の「道行き」の出来映えが評価のポイントとなる。そこがいささか弱い。
 この物語が真に動き出すのは「ルゥ」という人物の脱走からだが、ここが盛り上がるためには、それまでに設定や登場人物の意志、感情の動きをしっかり仕込んでおく必要がある。作者がけんめいに取り組んだのはわかるが、まだ十分でない。ふたつだけ指摘する。ルゥの身に起こったことを最終盤で明かすのであれば、もっと前から帝王蟹の生活環を「謎」として読者に意識させておくとよい。ふたつめは「憑き潮」の扱い。この場面の分量や密度が足りなかった。そうした仕込みの弱さを補おうとしてか、このあと主人公が行動したりものを考えたりするたび語りが嘆き節になる。若い人物の一人称としては、文章の物々しさも気になった。
 読後振り返って思ったのだが、もしや深人しんじんたちの身体は(深海に適応するため)遺伝子レベルでは帝王蟹と見分けがつかない、などの裏設定があるのだろうか。だとすれば多くの疑問は解消されるのだが。
■夜叉ヶ池玻璃のしがらみ
 人類の生活圏が海中へ移行し、巨大水槽を用いた芸能「水劇すいげき」が歌舞伎のように伝承される未来。展開されるのは現代の都会的で快適なライフスタイルそのもので、空間や資源の制約は等閑視されている。とはいえ、これはこれでよく練られた佳品だ。場面の切り替わりは自然でありながら、対比や起伏もあり、心地よい推進力を感じさせる。生き生きした会話にも感心する。「SF」を意識させる描写は最小限に抑えられているが、それゆえに身体加工があらわになる場面は鮮やかに記憶に刻まれた。
 さて、このお話の眼目は最終盤で語り手の心境に起こる変化だ。その変化はたしかにきちんと書いてはあるのだが、「ああ成程書かれていますね」にとどまっていてこちらを刺すには至らない。これはやはり「夜叉ヶ池」の場面の分量があまりにも少ないせいではないか。たとえばストーリーの本筋と劇の進行とをカットバックで見せるなどし、劇の内容と語り手の変化がともに昂揚していったら、さぞかし読みごたえがあっただろう。
 ところで海中都市の設定はほとんど顧みられないが、これこそは作品世界を取り囲むもうひとつの「玻璃殿はりでん」で、しかし主人公らはそれを制約とすら感じていない。ここを使ってもう一押しすれば「いまここで生きる私たち」を強く照射する批評性にも手が届いただろう。ガジェットや設定に凝らなくても「SF性」を宿らせることはできるのだ。
■最後のラクダ
 ラクダの命名にまつわる特別な能力と、その担い手にふりかかる呪いについてのお話。読んでいるあいだ受賞作と甲乙つけがたいと感じていたのは、なによりその奇想の強度による。前半は、古老がまじめな顔をしてとんでもないほら話を語るのを拝聴しているようで、おかしくって仕方がないし、そのエスカレーションと一大都市の滅亡に至るまでの展開も豊かだ。後半、いきなり現代のニューヨークに飛び、呪いの解決をめぐる頭脳戦になるという二部構成もめざましい。
 それだけに欠点や不満も目立つ。そもそも発端となる契約の条件が不自然で、展開の都合に合わせて設計された節がある。「実在するラクダ」とそうでないラクダの違いもわからないので読んでいてまごつく。第二部の奮闘も当初条件のゆるさが悪さをして、面白さの足腰が定まらない。要所要所が閑却されている気配もあるが時間がなかったのか? 見出された解決策も「あ、そこが解決すればいいわけ?」と拍子ぬけして「なるほど!」と膝を打たせるには至らない。
 最後の最後に主人公は「ラクダの全て」を手に入れる。歴史上存在したあらゆるラクダへの愛情と哀惜がただよう場面はいいのだが、この詩情を活かすための、決定的な一手が欲しかった。選考会では改善策も話し合われたが、三十枚くらいで駆け抜けてボロが出ないうちに幕を下ろすくらいしか思い浮かばず、授賞は見送らざるを得なかった。
■からくり千年道中
 とにかく筆の立つ人で、抜群のせりふ回しのみならず地の文のすみずみまで口演の感覚がゆきわたり、大状況から人間模様のささいな波立ちまでがパースペクティブと連続性を保って読者の頭に入ってくる。この淀みない語りの向こうから波が寄せるように浮かび上がってくるのは、からくり女郎の内部に構築されているらしい「人間性」と、それをめぐる登場人物の省察であり、この作品の主題は「人間の自由」だ、と分かってくるし、人間性の剥奪を前提とした吉原を舞台とした理由にも納得できる。
 それらをすべて認めた上で指摘したいのは、しかし全体を覆う既視感だ。流暢な語りも、古風な物語も、現代に問う戦略的意図から選択されたようではないし、吉原の非人道性に対する指摘も、それこそ江戸の時代から繰り返されてきたものとあまり変わらない。言い換えると、三十年前に書かれた作品のように読めるということだ。その枠内にとどまるゆえの完成度とは理解しつつも、たとえばサマンサ・ミルズの「ラビット・テスト」に親しむ現代の読者には微温的と映るかもしれない。
 酷な指摘だろうか? しかし吉原の「魅惑」と文脈にライドして新作を書くからには、そこに挑戦して欲しかった。
■廃番の涙
 感情を操作する薬、新技術で社会変革を画策する天才、平凡な主人公による抵抗。まさに王道であり、大枠から細部まで現代のSF短編として今回随一の仕上がりだ。
 その上で、飛は他の評者よりすこし辛めに評した。オーセンティックなジャンルSFであるからにはディテールを詳しく点検せざるを得ないからだ。疑問点のぜんぶは挙げきれないが、たとえば①レジェンド調合師セクワは人間を「機械化された部分」と「それ以前の部分」に分けて考えているが、どこがその境界か作者は説明しきれていない。これが説得力を削ぐ。②セクワの新作が人の認識変革を起こす仕組みは何段階にも分かれているが、各段階の歩留まりはとても悪そうで、社会に有効な変化をもたらせそうもない。③作者は「失われた感情をどうやって調合できたのか」という謎をかけながら、結局それを回収しきれず別の話にしてしまった。最後に④新作が喚起するのは本当に「感情」なのか疑問の余地がある(あれはむしろ認識の枠組みであり、感情は随伴して生じるのではないか)。
 しかし薬剤〈オーデモシオン〉の作用を香水の三層になぞらえ、美学と科学が寄り添うさまは魅力的だし、新作が喚起する「感情」の正体には現代的な問題提起がある。薬剤のネーミングもセンスがいい。そこに「廃番」のキーワードを重ねて、一つの作品にさまざまな意味の相を創り出した。飛は候補全作の改稿前後を読み比べたが改善度も上々で、地力の高さもうかがえる。意見交換の末、全員一致で授賞を決定した。


宮澤伊織  Iori Miyazawa

 前回に引き続きの選考委員、今回は飛浩隆さんとご一緒となった。飛さんと私で作品の評価が意外と分かれていて面白かった。詳しくお聞きしてみると納得できる理由ばかりで、つまりそれぞれ評価するポイントが違ったということである。異なる視点からの講評、応募者の方にも興味深く思っていただけるのではないだろうか。では早速、具体的な内容に移ろう。
 三浦俳さんの「からくり千年道中」。江戸時代の吉原に、千年もの昔「飛騨の匠」なる者が作り出したというからくり人形が、女郎として売られてくる。玉緒たまおという名が与えられた人形は、人と同じように動くばかりか、まるで心があるとしか思えないような振る舞いを見せる。主人公の治助じすけは妓楼の下働きで、玉緒の面倒を任されていたが、故郷に戻ったことを機に玉緒と離ればなれになる。二十余年の後、吉原を再訪した治助は、見る影もなく朽ち果てた玉緒を身請けして修復する。その過程で治助は、玉緒の内部機構から、かつての匠も誰かのために想いを込めて玉緒を作ったのだろうと気付く。治助は玉緒に鶴の翼を与え、玉緒は空へと飛び去っていく。
 物寂しい雰囲気に満ちた、完成度の高い作品である。文章も達者で、すんなりと読むことができた。からくり人形というモチーフと吉原という舞台設定が無理なく融合していて、終わらせ方もいい。ジャンルとしてはゼンマイパンクとでも言えばいいだろうか、和風の時代物SFの佳作と思う。玉緒の頭の中の仕組みの描写がラストに出てくるが、この辺のオーパーツ的なSFギミックはもっと早い時点で読みたかったし、掘り下げてほしかった。時代小説としてはちょうどいい案配かもしれないが、SFを冠した賞への応募作としては、ややおとなしく見えてしまったのは惜しい。
 人形である玉緒を他の女郎たちがあまりにもすんなり受け容れすぎるという気もしたが、女郎たちが人形を同じ「おんな」として受け容れるという描き方にテーマが現れているとも読める。そこをさらに書き連ねるか、あえて語らないかは難しいところだが、もう少し伝わるようにしてもいいのではないかと思う。この辺りに引っかかりを作らないとフィクションのテンプレ吉原として解釈されかねず、作品のテーマ的にももったいない。
 少しずれるが、この作品からは連作短編でシリーズ化できるポテンシャルを感じた。「飛騨の匠」の作ったさまざまな作品を毎回取り上げていってもいいし、玉緒が千年の間に経験してきた物事を、時代ごとに描くのも面白くなると思う。
 神無月佳さんの「わだつみの揺り籠」。全球凍結後の地球で、人類は海の表層に住む浅人せんじんと、巨大な帝王蟹の背に築いた街で暮らす深人に分かれて共存していた。深人のジニアは、いつか浅人のコロニーに行き、自分の目で月を見るという夢を抱きながら、幼馴染のルゥとバディを組んで、潜行士として資源を調達していた。ある日ルゥが「憑き潮」と呼ばれる現象に襲われ、不治の深海甲殻症を発症する。次第に甲殻化していくルゥが帝王蟹の幼生を産み落とすために海面に向かうことを知ったジニアはルゥを追いかけるが、ルゥは幼生を産み落として死ぬ。ジニアはルゥの尊厳を守るために全ての幼生を殺し、月を見る夢を捨てる。
 海洋SFとしてまっすぐな作品でよかった。開始後しばらく独自の用語が頻出し、時代と場所がよくわからないまま進むので、スタートが遅い印象があるのはやや惜しいが、その後は海底の街を背負う帝王蟹のヴィジュアル、憑き潮に侵されて甲殻化していくルゥ、憑き潮の正体と、テンポよく話が進んでいく。主人公が見たことのない空の雲を浅人が説明するときの「海底の舞い上がる土煙を濃くしたようなもの」という表現がよい。
 問題は、主人公があまり主体的に動かないことだろう。特にバディのルゥが深海甲殻症を発症してからは、見舞うことしかできず、やがてその見舞いにも行けなくなってしまう。そのため後半の読み味が地味なものになっている。「主人公の罪悪感」は物語を停滞させる。クライマックスの、二人で海面へ向かって上昇していくシーンの高揚感は素晴らしく、ラストも凄絶で最高だったので、そこに至るまでの展開が盛り上がればもっと面白くなるだろう。個人的には受賞候補の一作だった。
 金森ムルさんの「夜叉ヶ池玻璃のしがらみ」。気候変動で海が地表を覆い尽くした地球。海中都市でアクリル樹脂メーカーの営業として働く支倉はせくらは、水中の歌舞伎として発展した「水劇」役者の蓮蔵れんぞうと出会い、親しくなる。蓮蔵が身体に人工鰓を埋め込んでいることを知った支倉は、世襲と身体改造で役者を家畜化するような水劇の構造に疑問を持つ。蓮蔵の役者としての選択を尊重しつつ、彼のために何ができるかを支倉は考える。
 文章が非常に美しく、歌舞伎から発展した設定の水劇というモチーフにも合っていた。冒頭は力みが感じられたものの、その後、ざっくばらんな話し方の蓮蔵が登場してからはとても読みやすく、これが本来の著者の文章かと納得しつつ楽しく読めた。視点人物なのに最初のうち内心を語らなかった支倉が、蓮蔵との飲みの席で口を開くシーンは、読んでいるこちらにも心を開いてくれたようで嬉しかった。生い立ちを語る言葉はやや硬く、説明気味だが、このキャラクターならこなれていない語り口になるかもしれないとも感じられたので、意図しているならよい表現だと思う。
 ストーリーには大きな難がある。完結していないというか、話の始まりだけが書かれて終わっている。いいねいいね乗ってきた、この先何が起こるのかなと期待しながら読んでいたら何も起こらず急に終わったので、本当に「ええ~!?」と声が出てしまった。文章がいいだけに、あまりにもったいない。
 前回、第十四回の講評で、主人公が諦めて終わる話はよくないと書いた。今回はそれに、「主人公が決意して終わる話はよくない」と付け加えたい。支倉は蓮蔵の美しさと、それを搾取する構造に荷担する矛盾に悩みながら、彼のために何ができるだろうと「祈るように思って」終わる。その「何ができるか」を書くのがあなたがすべきことなのだ! 架空のキャラクターの架空の葛藤をただ提示しても読者には何も残らない。たとえそれが現実にある問題に根差していようと関係ない。あなたがあなたなりの答えを書いて初めて、読者に刺さる小説になるのだ。何かを決意して終わる話ではなく、その決意に基づく「行動」を書く必要がある。決意には意味がない。この話の場合は決意ですらなく祈りだが、「祈る」「思う」「願う」などのふんわりした締め方を手癖にするのは危険である。
 冒頭の文章の力みについても触れる。水劇の稽古をしている蓮蔵を偶然目にした支倉視点の美しい一文だが、「一刷毛ひとはけ白銀しろがね」「飜然ひらと」「およぐ」といった凝った言葉遣いが集中しすぎている。全編をこの文体で通すならよいが、以降の読みやすい文章と比べるとバランスが悪い。一番効かせたい言葉が目立つように刈り込みたい。「作品世界観に根差しためちゃくちゃかっこいい文章のブロック」を冒頭に入れるのはリスキーでもある。予備知識ゼロで読み始める読者にとって、それは「あなたを歓迎しない」というメッセージにもなるからだ。
 難波行さんの「最後のラクダ」。シルクロードのオアシス都市パルミラでラクダ商を営む男に、一族がラクダに名付けをしなければならない呪いがかかる。三代目が名付けを怠り一族に不幸が訪れたが、想像上のラクダに名前をつけることで不幸が収まる。この能力でラクダ文明が発展するが、パルミラは争いにより滅び、名付けの力は隠される。二千年後、能力者カウサル゠タナカはラクダ全てに名付けを行うことを試みるが、老人の求める「最後のラクダ」の名を見つけることで呪いが解ける。名付けの力は失われ、ラクダ文明も終焉を迎える。
 寓話めいたほら話SF。「ラクダへの名付け」というネタで一点突破しようという発想がすごいし、実際に書ききってしまう筆力は素晴らしい。パルミラで始まった名付けの物語が、二千年の時を超えたマンハッタンで、最初のシチュエーションを再現するように幕を下ろすのもきれいだった。
 問題はいくつかあるが、作品内ルールの不明瞭さと、それに伴う描写の不足が大きい。名付けることでラクダがその能力を持つ(名付けたとおりの存在になる)というルールが提示されるが、このルールの運用が曖昧に感じられた。《空飛ぶラクダ》《とても速く計算する機械を作るラクダ》などさまざまなラクダの名が登場するものの、それらはストーリーが崩壊しない程度の、都合のいい範疇に収まっていて、シンプルなルールを縦横無尽に使い倒す面白さがない。現代の読者は、ルールの可能性と相互作用を徹底的に突き詰めた能力バトルマンガで目が肥えているので、ここが甘いと通用しない。また、いろいろなラクダによって発達したラクダ文明は相当奇妙な様相になっているはずだが、ほとんどは名前の面白さでしかないので情景が想像しにくい。時代が進んだ後半も、現実の社会の物事がちらほらラクダで置き換えられているくらいの描写しかされていない。あえて絵に描けないようなことを書くのは小説ならではの手法だが、そういう意図はあまり感じられない。結果、リアリティーラインが曖昧になり、この話をどのくらいの真剣さで読めばいいのかわからなかった。
 冒頭にアラビア語でラクダを指す言葉を多数挙げていて、これがこの話の発想元になったのだと思うが、読者の読めない単語をずらずらと並べるのは、書き出しとしてはかなりまずい。おそらくここはエピグラフのように機能させたかったのだと推測する。エピグラフは作品の冒頭に引用や警句などを置く「かまし」の手法で、何かありそうな雰囲気作り、後々わかるふんわりした伏線、読者への威圧などの機能がある。だとしたらここは、たとえば最初に書かれた一行、「アラビア語にはラクダを表す名詞が千二百以上、存在するといわれる。」を置いておくだけで必要十分だ。小説冒頭の小難しい文章は、読み飛ばされると思って間違いない。
 稲田一声さんの「廃番の涙」。ナノマシンで人工感情を生成するコスメティック「オーデモシオン」が普及している未来。新人感情調合師のミナモト・コズは、憧れの感情調合師セクワ・ジュンの化粧品メーカーに入社する。セクワが新たに開発したオーデモシオン『ほろびたもの』が大ヒットするが、ミナモトはセクワの意図に疑問を抱き……。今回の受賞作である。
 香水になぞらえたであろう人工感情というアイデアが、アイデアだけに終わらず、最後までストーリーを動かすエンジンになっているのがとてもよかった。文体も平易な中に必要な情報が織り込まれていて読みやすい。作中登場する人工感情の過去作タイトルもシュールで好みだった。
 注目の感情デザイナーによる新作は何か?↓なぜそんな感情を作ったのか?↓人間の定義への揺さぶり↓主人公は自分の作品でどう答えるのか?……と、大きく四回の「意外な展開」が設置され、そのすべてが、展開のための展開ではなく、核となる人工感情というアイデアを発展させて生まれた展開である。私がこの作品を受賞作として推した理由は、この「SF小説としてのストーリーテリングの巧みさ」だった。
 欠点はいくつか挙げられる。小さいところでは、主人公の同居人がキャラクターとしてあまり機能しておらず、舞台装置になっている。それから後半の展開のためには『ほろびたもの』が作られた理由が重要なはずだが、「ふーん……? そうなの……?」くらいの温度で通り過ぎてしまって、納得感の薄いまま最後のシーンに到達してしまう。「ここは(作中人物的にも、読者の常識的にも)意外な展開なんですよ!」と伝わるように、もう少し盛り上げたい。そして……ラストの締め方はきれいだが、主人公が提示する答えとして、「過去作の再現」は果たしてベストだろうか。ここで提示される人工感情には、単なる再現にとどまらない、「主人公自身の感情」が要素として絶対に必要だろう。それが加わって初めてこの作品は完成すると私は思う。
 稲田一声さん、受賞おめでとうございます。今後の活躍を楽しみにしています。
 最終選考に残った候補作はどれも個性的で、面白く読みました。応募いただいたすべての皆様に、お礼とともに拍手を送ります。ありがとうございました。


小浜徹也  Tetsuya Kohama

 創元SF短編賞が《年刊日本SF傑作選》内の企画として始まったため、編者だった大森おおもりのぞみさんと日下くさか三蔵さんぞうさんのお二人に、傑作選終了までの十年間、レギュラー選考委員を務めていただいた。第十一回からの体制変更に伴い、ぼくが臨時に編集部代表として選考委員に加わったが、決して長くやりすぎるまい、お二人の半分ぐらいの任期、五年がいいところだろうと考えていた。ぼくが選考委員を務めるのは今回までとし、編集部の一員にもどります。ひとまず、五年間ありがとうございました。次回から編集部代表の枠はなくし、作家のかた三名に選考していただきます。
     *
 今回の最終候補作五作品は、物語としてはいずれも例年より高水準だった。とはいえ、語り口や話づくりがしっかりしていることと、それを支えるSF設定の確からしさとのあいだに齟齬を感じるものも少なくなかった。
 五作中、四作の作者が今回はじめて最終に残った方々だ。選考委員のあいだで評価の分かれた作品も複数あったが、ここでは従来どおり、ぼくなりの評価の低かった順に述べる。
 難波行「最後のラクダ」。最初の一行が、「アラビア語にはラクダを表す名詞が千二百以上、存在するといわれる」で、つかみとしては最高だ。哲学問答的な展開を期待させる。
 その昔、シリアの町に、ラクダを深く愛し、ラクダに「唯一無二の名付け」をすることを無上の喜びとする男がいた。この男がある日、謎の老人から「ラクダの全てに名付けを終えるまで」続けないと「一族に不幸が訪れる」呪いをかけられる。そして男が初代となり、つづく一族は男女問わず必ず第二子が名付け役を継承しなければならない。
 二代目も「ラクダの特性を表す名付け」をつづけたが、三代目になって、ラクダに似た形のものであれば、〈夢を食べるラクダ〉といった魔法さながらの力を発揮させるよう名付けができることを知る。このあたりから名付けの試みがエスカレートしていき、それに伴い人々の生活ががらりと変わる。中盤以降、百四十八代目の女性が主人公となる頃には、テクノロジカルな能力を持つラクダが世界文明を書き換えてしまっていた。だが彼女は、病にかかり二人目の子供を産めなくなってしまう。
 いちばん気になったのは、さまざまな名付けにまつわるロジックの変化がつかめないことだった。それへの関心で読者を引っ張っていくべきではなかったか。
 この作品、もともとは四十枚ほどの長さで同人誌に同題で発表されたもの。短編賞への応募は問題ないのだが、冒頭五分の一ほどがほぼ原形版のまま。作者は筆が立つ人で、改稿段階で加えられた回顧的なエピソードもユーモラスだが、やはりアイデアなりのサイズ感というものはある。応募規定の上限百枚まで書き延ばしたのは無理があったと思う。
 金森ムル「夜叉ヶ池玻璃のしがらみ」。描写力は随一だった。気候変動で陸地のほとんどが海に没した時代に、舞台となる日本の海中都市では「水劇」が演じられていた。この着想はとても新鮮だ。この国立水劇場には大型のステージ全部を占める、強化アクリルパネルの巨大水槽が常設されていて、歌舞伎と同じく太夫たゆうを傍らに役者が自在に水中を舞う。だがこの水劇の様子がほとんど描写されないのがもったいない。また水槽内では和服で演技しているようだが、踊りにくくないのだろうか。なんらかの説明が必要に思う。
 語り手は水槽メーカーの新任担当で、ひとまわり年下の、高名な八代目長尾蓮蔵に気に入られる。水劇役者は子役時代から両脇腹に人工鰓を施術されており、二人の距離が近づくところで、語り手が鰓を目の当たりにするシーンはとても印象的だが、しかしこの人工鰓は水劇のためにわざわざ用意されたかのよう。世界が水没しているなら、鰓はなによりも人間の海中作業用に開発されたはずだと思うが、そうした背景説明はない。つまり海中都市ならではの暮らしは描写されず、未来の自然史博物館を案内したり、同性婚が認められた社会であったりするほかは、現実のこの日本であってもよい光景が広がっている。
 二人の関係はよく描かれているが、それを取り巻く世界の外部には空白が広がっているようでもある。二次創作の書き手に見受けられる傾向と感じるのだが、いかがだろう。
 神無月佳「わだつみの揺り籠」も海中都市もの。全球凍結した地表を逃れ、人類は海中につくったいくつもの拠点へ移住し、千年以上が経った。語り手はその都市に暮らし、海底資源の採掘に従事する潜行士だ。
 都市は生きている巨大蟹の甲羅に載っている。蟹が移動するので資源採取に便利だ、というのはよいとして、深海で移動する巨大蟹をどうやって見つけて、六層に及ぶ建造物をつくれたのか。そして蟹が三百年しか生きないとすると、都市の引越しはどうするのだろう。絵的な着想が先んじたのなら、それは尊重してほしいけれど、納得できる説明は欲しい。また深度四千三百メートルだと、巨大蟹も、その甲殻でつくられた大気圧潜水服といえども水圧で動けないのでは。海中照明弾が放物線を描いて打ち上げられるだろうか。正確な深度は不要だったのでは。また随所に実在の海洋科学用語を使っているが、架空の設定と溶け合っていないように思う。さらにこの世界では、二種類の深度で人間が棲み分けている。ウェルズ「タイム・マシン」のエロイとモーロックさながら、科学的に進んだ「浅人」と彼らに資源を提供する語り手たち「深人」がいるという設定からも、リアリティの範囲を絞って、寓話に寄せるほうが物語には適正だったのではないだろうか。
 中盤で、語り手の可愛がっていた幼馴染の後輩が「憑き潮」に巻き込まれ、致死性の病を発症したところから、巨大蟹は人間が変貌したものだったという秘密が明かされる。実に残酷で感動的だが、だとすると最初の巨大蟹はどうやって発生したのか。疑問ばかりで申し訳ないが、匙加減しだいで一段階も二段階も評価が違ったと思う。
 三浦俳「からくり千年道中」も語り口は端正だ。舞台は江戸時代の吉原遊郭。とある妓楼へ、人間そっくりのからくり仕掛けの遊女が売られてきた。製作者は石川雅望まさもち飛騨匠ひだのたくみ物語』の架空の登場人物、猪名部いなべであり、物語の時代よりさらに千年前につくられたという。玉緒と名づけられた彼女は「からくり女郎」としてすぐに人気者になった。語り手はこの妓楼に雇われた、からくりマニアの使用人だ。
 玉緒には人の振る舞いを学習する能力があり、さらに人の言葉を解するかのようでも、なんらかの意思を持っているかのようでもある。千年経ったら人形も魂を宿すのかもしれない、と語り手は思いながらも、しかしあくまでも人形として見ようとする。一方、同じ妓楼の花魁は玉緒を人間同然に扱い、遊女見習いの子供、みどりも分け隔てなく接する。
 吉原の暗黒面も淡々と語っているが、物語は不思議と風通しがいい。だが後半、古典落語の「明烏あけがらす」を取り入れたあたりから調子が変わってしまった感がある。さらに折り鶴が玉緒を解放する象徴のように導入されているが、なぜ折り鶴なのか。中盤でみどりが折ってみせるのだが、結末のために用意された行為のようでもある。ラストシーン自体はとても綺麗だが、ならばより周到な意味づけが必要ではなかったか。SFの背景をなす『飛騨匠物語』も、もっと活用する手立てがなかっただろうか。
 稲田一声「廃番の涙」は近未来SF。アロマテラピーを超えて、人工的な感情を自らファッション的に身にまとう「オーデモシオン」が大流行する時代に、企業で商品開発に携わる「感情調合師」たちの物語である。
 ほとんどの人間が脳の一部を機械化しており、うなじに埋め込んだレセプタにオーデモシオンを垂らすと、一定時間、あらたな感情を得ることができる。 この社内に、各種ヒット商品を連発し、天才と目される調合師がいた。その待ちに待った新製品が発表されるという。新人調合師である語り手は、ふとしたことでこの天才の知遇を得て、内輪の新作お披露目会に誘われた。そこで披露された新商品は、いまやほとんどいなくなった、脳をいじっていない「素の人間」だけが持っていたマイナス感情を再現したものだった。新商品は「ほろびたもの」と名付けられ大ヒットするが、天才調合師はどうやって、そしてなぜこんなものをつくったのか。
 感情のコントロールを人工物に頼るというアイデアが新鮮であり現代的である。人工感情の体験も、同業者の目を通すことで分析的に語れている。過去のいくつものオーデモシオンの商品名も気が利いていた。
 選考委員三名ともに安定した評価だった「廃番の涙」を受賞作と決定した。作者の稲田さんは三度目の最終候補。回を重ねるごとに読み応えが増した。昨年の候補作とくらべても進境著しく、SFらしさも候補作中でひときわ抜きん出ていた。過去作でも着想のユニークさは評価されており、今後もこの持ち味を大切にして闊達な新作を書いていただけるものと期待しています。


稲田一声氏の第15回創元SF短編賞受賞作「廃盤の涙」は「喪われた感情のしずく」と改題・改稿のうえ、2024年8月刊の『紙魚の手帖vol.18 GENESIS』に選評とあわせて掲載されているほか、単体で電子書籍版が販売されています。

第16回創元SF短編賞はただいま受付中。応募〆切は2025年1月14日です。詳細は創元SF短編賞のページでご確認ください。


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