【創立70周年記念企画】エッセイ「東京創元社、私の一冊」その2:「那覇の熱い夜[完全版]」新井久幸
東京創元社では創立70周年を記念して、全国の書店様で2024年4月と7月、そして11月の3回「創立70周年フェア」を開催します。そのうち7月のフェアでは『創立70周年記念小冊子』という文庫本サイズのブックレットを作成し、配布しました(2024年9月現在、小冊子の配布は終了しております)。
その中で「東京創元社、私の一冊」というテーマで小説家、編集者、声優、ライター、詩人、歌人等、各方面で活躍される総勢15名の皆様に小社で刊行している書籍を1冊お選びいただき、その本にまつわるエッセイを執筆いただきました。Web東京創元社マガジンでは、そのエッセイをおひとりずつご紹介させていただきます。
今回掲載した新井久幸さんのエッセイは、小冊子掲載版よりも長い[完全版]となります。小冊子をお持ちのかたもぜひご一読ください。(編集部)
「那覇の熱い夜」
新井久幸(あらい・ひさゆき/編集者)
『ぼくと、ぼくらの夏』樋口有介(創元推理文庫)
単行本版『ぼくと、ぼくらの夏』の著者紹介の最後には、「現在、秩父の廃村で独居」と書かれていた。初めて見たときは、比喩なのかギャグなのかよく分からなかったが、答え合わせの機会は意外に早く訪れた。大学の二回生のとき、関西のミステリ研が合同で開催するイベントに、樋口さんがゲストとして招かれたのだ。
トークと質疑応答の後、幸運にも直接お話しする機会を得て、思い切って「廃村で独居ってどういうことですか?」と聞いてみた。もう何冊か本が出た後で、既に引っ越されていたけれど、執筆当時は、本当に秩父の山奥の廃村で一人暮らしをしていたらしい。
ほんのわずかな時間だったが、他にも色々な話が聞けた。
真冬の秩父で、凍えながら真夏の小説を書いていたこと。元々は某清涼飲料水の名前がタイトルに入っていたこと。食生活には苦労したこと等々。
「タンポポを食べると、下痢するんだよね」
と、ちょっと恥ずかしそうに笑いながら話す姿を、よく覚えている。
ミステリ研の先輩以外で、初めて会話らしい会話をした作家が、樋口有介だった。
大学を卒業後、出版社に就職したので、口実を設けて会いに行った。あの場にいた学生が編集者になって会いに来たことを、樋口さんはとても喜んでくれた。
なかなかご一緒する機会はなかったが、「小説新潮」へ異動になったとき、千載一遇のチャンスとばかりに、長編の連載を依頼した。
連載の打ち合わせで、樋口さんを訪れた那覇の夜は忘れがたい。
夕食をご一緒した後、樋口さんはふいに、
「この後、行きたい店があるんだ」
と言い出した。那覇に土地勘などないし、樋口さんの行きつけなら安心だ。是非是非、と返事をすると、ふっと表情を消して声を落とし、耳元で、
「結婚を考えている女がいるんだ」
と呟いた。
そんな相手がいる店に、我々が一緒に行っていいんだろうか。不安を口にすると、東京からのお客さんを連れて行くと喜ぶから是非来て、とのこと。
どんな相手なのか興味津々ではあったけれど、同時に、何か失礼があってはいけない、「我々担当一同は樋口さんの引き立て役としてお供するんだ!」という決意のもとにご一緒した。
案内されたのは雑居ビルの一角で、樋口さんは「よう」といった感じで入っていく。どの人だろう、と迷う間もなく、すぐにお目当てらしき人が隣に付いた。
ただ、仕事のことや東京のことなど、話は弾んでいるように見えるのだけれども、何か変だった。有り体に言えば、軽くあしらわれている、とでも言うような。
最初は、恥ずかしいから素っ気なく振る舞っているのかなとも思ったが、そういう感じでもないのは、時間の経過と共に段々と分かってくる。
「結婚を考えている」のは嘘ではないだろうけれど、相手もそうとは限らない、ということなんだろうか。
何とも言い様がなく、若干湿り始めた雰囲気のなか、一時間も経たないうちに、樋口さんは「次の店に行こう」、そして続けて「結婚を考えている女がいるんだ」と、のたまった。
この日、夕食の後、僕らは三軒の店をハシゴした。
三軒目ともなると、分かりたくもない勝手も分かってきて、例の呟きも、
「はいはい、ケッコンケッコン」
みたいな感じで、心は虚無をさまよい始める。
最後に連れて行かれたのは、それまでとはまったく違った趣の、昭和中期の店がタイムスリップして現れたかのような外観だった。原色で統一された入り口をくぐると、中も原色で統一されていて、眼がチカチカする。床は毛氈、ソファーは天鵞絨というのがしっくりくる感じだった。
奥から、樋口さんと同世代と覚しき女将が出て来て、おそらくは「いつもの席」で、樋口さんとあれこれ話している。
今までとは打って変わって落ち着いて馴染んだ雰囲気に、僕は「なるほど、そういうことか」と一人で勝手に納得していた。
前の二軒は壮大な前振りだったというわけか。
そんなふうに、なんだかほのぼのした気持ちで二人を見守っていたところ、奥からもう一人、若い女性が現れた。「娘なの」と女将に紹介されるよりも早く、樋口さんは音もなく席を移動し、娘さんをロック・オンする。
そっちかーーーーーい!!
そこにいたのは、樋口作品に登場する、とほほだけれど、どこか憎めず、むしろチャーミングな男たちそのものだった。
さっきまでのしみじみした気持ちはどこへやら。何だか爽快で可笑しくて、そして妙に嬉しくもなって、僕は失礼を顧みず笑い出してしまった。さすが! としか言いようがなかった。このブレなさが、樋口有介の作品世界を作っているんだ、と納得した。
沖縄でお会いしたのはこの一回きりだが、一緒に行った同僚と顔を合わせれば、またあの店に行きたいね、という話になった。だが、また行きたいなどとのんびりしたことを言っているうちに、樋口さんは帰らぬ人となってしまった。
樋口有介の不在にいたたまれない気持ちになると、僕はコカ・コーラを片手に、この本を開くことにしている。真夏の容赦ない日差しと共に、登場人物の影から恥ずかしそうに顔を出す、あの夜の樋口有介に会えるような気がするからだ。
* * *
■新井久幸(あらい・ひさゆき)
編集者。1993年に新潮社へ入社、「小説新潮」編集長や「Story Seller」担当などを歴任。著書に『書きたい人のためのミステリ入門』がある。
本記事は東京創元社編集部編『東京創元社 創立70周年記念小冊子』に掲載されたエッセイ「東京創元社、私の一冊」の一部を転載したものです。
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