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現代私立探偵小説の至宝〈リディア・チン&ビル・スミス〉シリーズ最新作! 若林踏/S・J・ローザン『ファミリー・ビジネス』解説[全文]

この記事は2024年12月刊のS・J・ローザン/直良和美訳『ファミリー・ビジネス』(創元推理文庫)巻末解説の転載です。(編集部)


装画:朝倉めぐみ/装幀:岡本歌織(next door design)

解  説

若林 踏  

 現代私立探偵小説の至宝。S・J・ローザンの〈リディア・チン&ビル・スミス〉シリーズほど、このような形容が相応しい作品はないだろう。一九六〇年代後半から八〇年代にかけて数多くの私立探偵小説が生まれたが、九〇年代以降になるとその波は急速に衰えていく。かつてジャンルを支えていた幾つかの人気シリーズも完結もしくは作者の逝去などによって途絶えていくなかで、〈リディア・チン&ビル・スミス〉シリーズは今もなお現役の私立探偵小説として変わらぬ魅力を放ち続けているのだ。

 本作『ファミリー・ビジネス』〈リディア・チン&ビル・スミス〉シリーズの第十四作目に当たる長編で、本国アメリカでは二〇二一年に刊行された。翌二〇二二年にはアメリカ私立探偵作家クラブ(PWA)のシェイマス賞最優秀長編賞を受賞している。シリーズものではあるものの、ひとつひとつの作品が独立した話として楽しめるように書かれており、本作から読み始めても何の問題もない。人物相関や描写も明快で読みやすく、私立探偵小説というジャンルに触れたことがない読者が入門書として手に取るのにも最適だと思う。

 とはいえ登場人物の基本設定は知っておいて損はないだろう。本シリーズの主人公は二人いる。ひとりはリディア・チン。中国系アメリカ人で、世話好きだがちょっと口うるさいところもある母親と、四人の兄がいる。小柄だが非常にタフな面があり、道場通いで鍛えたテコンドーの腕前を生かして大立ち回りを演じることも多い。もうひとりの主人公、ビル・スミスはアイルランド系の中年白人男性。見た目はもっさりしていてワイルドな印象なのだが内面は繊細で心優しく、ピアノを演奏して心の安らぎを得るという一面を持つ。出自も性格も異なる二人がコンビを組み、私立探偵として数々の依頼をこなしていく、というのがシリーズの基本線である。

 男女コンビの私立探偵小説という設定自体は、例えば〈リディア・チン&ビル・スミス〉シリーズと同時期にスタートしたデニス・ルヘイン(レヘイン)の〈パトリック&アンジー〉シリーズなどでも試みられている。〈リディア・チン&ビル・スミス〉が他のシリーズと決定的に異なっているのは、男女のペアが一作ごとに語り手を交代していく、という形式が取られて
いることだ。これは従来の一人称私立探偵小説にはない、画期的な試みだったといえる。

 私立探偵小説の核となるのは、どのような人物を視点人物として据えるのか、という点である。作中ではその人物の目を借りて社会を描写することになる。だが視点を固定化すると、社会を様々な角度からフラットに見つめることは難しくなる。ましてや多様化が進む世界において、フェアネスを保ったまま一人称私立探偵小説のシリーズを書き続けることは出来ないのではないか。〈リディア・チン&ビル・スミス〉シリーズにおける語り手の交代という形式は、そうした私立探偵小説というジャンルが抱える限界を軽やかに飛び越えてみせるものだった。生まれも育ちも性別も異なる人物を対等な立場に置き、複雑化した社会を出来得る限り公平に見渡す。この姿勢は一九九四年に発表された第一作『チャイナタウン』から一貫している。これこそが〈リディア・チン&ビル・スミス〉シリーズを私立探偵小説の至宝と呼びたい、一番の理由なのだ。

 さて、本作『ファミリー・ビジネス』ではリディア・チンが語り手を務めることになる。物語はリディアが旧知のメアリー・キー刑事と一緒にいる最中に、チャイナタウンのギャングであるリ・ミン・ジントンのボス、ビッグ・ブラザー・チョイが心臓発作で亡くなったというニュースを知るところから始まる。チョイは亡くなる数か月前から、チャイナタウンの再開発計画を進めようとする一派と対立していた。高層タワーの建設予定地にリ・ミン・ジン堂が拠点としている古い会館があるのだが、その売却にボスであるチョイが応じなかったのだ。再開発を巡る会館の売却についてはリ・ミン・ジン堂内でも意見が割れているらしく、ビッグ・ブラザー・チョイの死は再開発の関係者たちに波紋を起こすことは必至だった。

 その波紋はやがてリディアとビルの元にまで広がることになる。ビッグ・ブラザー・チョイの姪で弁護士のメルことメラニー・ウー・マオリが、リディアとビルに仕事の依頼を持ち掛けてきたのだ。チョイは生前、会館をリ・ミン・ジン堂ではなくメルに遺すよう手続きを済ませていた。メルはチョイと同じく売却には反対の意向だが、それを快く思わないものもいるはずだ。そこでリディアとビルに、葬儀や会館に行く際の護衛を頼みたいという。依頼を引き受け、メルと行動を共にするリディアとビルだが、思わぬ事件に遭遇してしまう。リ・ミン・ジン堂の最高幹部であるチャン・ヤオズが他殺体となって発見されたのだ。

 これまでのシリーズでもリディアが語り手を務める作品では、中国系アメリカ人が米国社会で置かれている状況やその歴史を背景にした物語が展開することが多かった。本作で主題として浮かび上がるのは、チャイナタウンの裏社会事情と、都市の再開発事情である。リ・ミン・ジン堂は香港から送り込まれたビッグ・ブラザー・チョイの手腕によって勢力を拡大、ニューヨークにおけるアンダーグラウンドを仕切るようになる。チャイナタウンの暗部を象徴する存在ではあるのだが、いっぽうでチョイ自身は家族思いで性差による差別には否定的、貧しい人間を追いやる再開発には反対など、一言で悪と切り捨てることは出来ない面も持ち合わせている。いっぽうリ・ミン・ジン堂や再開発にかかわる人間たちの思惑も複雑で、裏社会の人間たちも決して一枚岩ではない様相を呈しているのだ。

 こうした絡み合う勢力図と人間模様のなかをリディアとビルが歩き回りながら、ビッグ・ブラザー・チョイの死を発端とした様々な出来事の背景を探っていくのが本作の主眼となる。この、リディアとビルが関係者に聞き込みを重ねて調べていく過程を追うだけでも楽しい。先述の通り、リ・ミン・ジン堂構成員をはじめとするチョイの周囲の人物にはそれぞれの思惑があり、リディアやビルに対して簡単に情報を渡さないだけではなく、逆に駆け引きを持ち掛けようとするのだ。そのような人間たちを相手に、リディアが機転を利かせて探偵としての仕事を全うしようとする場面が幾つか描かれる。探偵が欲しい情報を如何にして引き出すのかの興味で読ませる私立探偵小説の基本形にどこまでも忠実な作品なのだと、改めて思う。

 ミステリとしてのポイントはもう一つ、謎解きの要素が優れていることも記しておきたい。護衛の依頼から一転、殺人事件に遭遇したことでリディアとビルの調査には犯人探しの様相が加わることになる。冒頭で引き受けた依頼から予想外の事件にかかわることになる、というのも私立探偵小説における常道ではあるが、実は犯人当てだけではない謎解きの興趣も途中から現れることになる。それはどういう類の謎なのかは伏せておこう。感心したのは真相へとつながる布石がしっかりと用意されていたことだ。初読時には全く気が付かなかったのだが、一度読み終えた後で再び頁をめくってみると、枝葉だと思っていた箇所に実は重大な情報が含まれていたことに気付き愕然とする。謎解き小説の観点から見ても、周到な計算に基づいて書かれた作品だということが良く分かる。真相も驚くべきものであり、同時にこのシリーズだからこそ書き得た真相であると、大いなる納得感をもって読者は本を閉じるに違いない。この点を含めて本作は〈リディア・チン&ビル・スミス〉シリーズを読み始める入り口としてはもちろん、「本格謎解きミステリは読むけれど、私立探偵小説は読んだことがないな」という方にも広くお薦め出来る作品になっているのだ。

 ところで本作を既に読まれた方は、作中でビルが「南部に行って以来、表現がとても豊かになったね」というような言葉をリディアに投げかける場面にたびたび出くわしたと思う。この「南部に行って以来」とは、シリーズ長編第十二作目の『南の子供たち』におけるエピソードを指す。『南の子供たち』もリディアが語り手の作品だが、舞台はニューヨークではなく南部のミシシッピである。そこでリディアは南部における中国系移民の生活を垣間見るとともに、南部に根強く残る差別の現状に直面することになった。同作が優れているのは、そうした差別や分断の有り様が単純化されたものではなく、微妙な立場の差から生まれるグラデーションのようなものとして描かれていることである。ミシシッピにはリディアの親戚に当たる人物が暮らしており、彼にかけられた殺人容疑を晴らすことを母親を通して依頼され、リディアは南部に赴くのだ。『南の子供たち』はリディア自身の事件といっても差し支えなく、そのなかで彼女は複雑な世界の有り様を目の当たりにする。実は『ファミリー・ビジネス』でもリディアの身近な人が事件にかかわることになり、都市部における中国系アメリカ人の複雑なコネクションを見ることになる。つまり『南の子供たち』『ファミリー・ビジネス』も、複雑かつ多様化が進む社会の様相を探偵役が自身のルーツや家族の問題として捉え、受け止めていく物語なのだ。あらゆる物事が単純な二項対立に落とし込まれ、攻撃的な言葉で分断を煽る動きが世界各地で進むなか、複雑な世界を柔軟に受け止めようとするリディアやビルのような視点は、今後ますます重要かつ貴重なものになっていくのではないだろうか。シリーズの続編としては長編第十五作目のThe Mayors of New Yorkが二〇二三年に刊行されている。出来れば一作でも多くシリーズが続き、リディアとビルに世界の有り様を見つめていてもらいたい。


■若林踏(わかばやし・ふみ)
書評家。1986年生まれ。文庫解説ほか、雑誌インタビューや書評などを多数担当。著書に『新世代ミステリ作家探訪』『新世代ミステリ作家探訪旋風編』がある。