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革命のはじめ方【レッスン23】礼について『武士道』新渡戸稲造著

『武士道』の本質は歪められてきた。資本主義のグローバリズム勢力によって貶められたものに『礼』がある。今では『礼』は古臭いしきたりの代表格のように言われる。軍国主義的や体育会系の悪しき習慣、身分差別などと同一視されてしまう。
半分正解で半分間違いである。だが半分間違いの部分のみが強調されすぎていると思う。それは怖れや圧力の中で行う『礼』であり、堕ちた礼儀である。正しい『礼』を身に付ければ、礼を示すべき人には自ずと礼を尽くしたいと思うものである。新渡戸稲造の『武士道』からその理由を解説していこうと思います。

『礼』とは、正当なる事物に対する正当なる尊敬、社会的地位に対する正当なる尊敬である。
※ここで拒否反応を示す人はちょっと我慢して先を読んでください。貶められた『礼』が横行しているから、拒否反応がでるのである。そもそも『武士道』には損得勘定はないことをお忘れなく。
『礼』が怖れて為される時は貧弱な徳となる。礼を過ぎればへつらいとなる。金銭的な差別は礼ではないし、下の者から上の者への礼もあるし、上の者から下の者への礼もある。

礼とは社交の最も高き果実であるし、自分と環境を調和させる手段である。つまり、社会システムと精神を一致させることで皆が誇りを持てるのが礼なのである。
それを証拠に「礼をもって端座すれば剣で切りつけられることもない」と言われる。それは相手に対して、決してへりくだることではない。
また、臣下は主君に対して「あなただけに苦労させない」という気持ちでともに苦痛を味わう。主君は臣下を命を賭しても守ろうとする。お互いがお互いに礼を尽くすことが武士の世の封建制だ。

ここでちょっとこぼれ話です。
礼が芸術の域にまで到達したのが『茶』の世界である。騒がしき群衆の姿や音を遮断し、小さな室で俗世を脱する。精神的境地礼儀作法によって実際に到達する、と考えられたのである。
◇◇東京ハバナの理屈の想定外のコーナー◇◇
皆さん、礼はできているでしょうか。礼とは上司に媚びることではなく、自らを高める行為であり、自分のまわりも高める行為なのです。貴方が礼を尽くしていれば、そうでない人はきっと自らを恥ずかしく思うでしょう。
威張ったり、下の者をいじめたり、自分を偉く見せようとしたり、カネを持っていることを自慢したり、見苦しい行為です。
よく成功したスターが金持ちアピールをして「子供たちに希望を持たせるため」「頑張ればキミもこんな暮らしができる」とか言うが、私はそういった発言は見苦しく思う。そもそも誰がそんなグローバル資本主義的な思想を植え付けたのだろうか。


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