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リバータリアニズムと〈現代の保守主義〉


序章

良薬は信じられども毒薬はなお信じ居る君もその一人

 いまだネット・メディアを賑わしているようだが、あの兵庫県知事選投票結果を聞いたとき、筆者の頭の中に冒頭の齋藤 史の短歌が浮かんだ。ヒトは医学的に効果があるとされる良薬に否定的だ。宣伝に踊らされている、副作用が強いにちがいない、厚労省と製薬会社がツルんでいるのではないか...と。その一方であやしげな民間療法をあやつるグルの治療法を信じたり、カルト宗教が売り出している「毒薬」にどびついたりする。
 斉藤元彦は兵庫県知事任期中に、パワハラ疑惑などの告発文書問題をめぐり県議会で不信任決議を受けた挙句、自動失職して出直し選挙に出馬した。そのことは兵庫県民のみならず、日本中に知れ渡っていた。それゆえ前知事の斉藤候補は当選するはずのない知事職失格者すなわち「毒薬」であり、その一方で、新知事を目指して出直し選挙に立候補した稲村和美・元尼崎市長は落選するはずのない「良薬」のように筆者には思えた。
 ところが、兵庫県の有権者は「毒薬」を選んだ。「なお信じ居る君もその一人」どころではなかった。兵庫の君が「毒薬」を選んだ主因が、斉藤陣営による動画サイトや「X」(旧ツイッター)を駆使した選挙運動戦略であることが、調査結果から明らかになった。また併せて、地方選挙を主戦場として荒らしまわる反社会的「政治屋」の常軌を逸した「選挙運動」も有権者に強い影響を与えたと分析されている。こうした〝選挙戦略″が変数となり、有権者の意識を反映しない投票結果、すなわち、斎藤の当選ということに相成った。
 筆者は、兵庫の有権者の多数の意識が「斉藤再選」だったとは思わない。斉藤当選の主因は、再選を望まなかった有権者が無意識的に棄権した一方で、ネットのフェイク情報を鵜呑みにした有権者が投票場に足を運び、斉藤支持の固定票に上乗せして稲村を上回った、と推測する。棄権者は斉藤が負けると予見し、この選挙に関心をもたなかったにちがいない。
 そればかりではない。斉藤の再選を阻止することを使命とした稲村は、選挙戦序盤で斉藤を大幅にリードしていたとされている。稲村陣営は気が緩んだのか、「横綱相撲」をとった。まさか負けることはないという予断が後手を引いた。稲村は良薬であり斉藤は「毒薬」だ。良薬稲村には選挙運動の戦略がなく、有権者の良識に期待してしまった。こうした消極性、受動性は政治家としての魅力を削ぐ。
 稲村のような「良薬」は日本では「リベラル」と評される。日本で冠される「リベラル派」は状況の変化に鈍感だ。自分たちの価値観が普遍的であるという思い込みから、有権者の意識と自分のそれが共通すると考えてしまう。換言すれば、有権者は普遍的価値意識に基づき投票するという先入観にとらわれてしまう。稲村の落選は、ネット情報における選挙のあり方という深刻な問題を投げかけたが、リベラリズムの退潮の象徴という、より深刻な状況変化だと筆者は受け止めた。

第1章 リベラリズム

保守主義とリベラリズム

 リベラル(liberal)の直訳は自由主義者、進歩主義者であり、その反対語は保守主義者( conservative)となる。イギリスの保守党は略称でConservative Partyだ。日本の政党名を一覧してみよう。自由民主党(Liberal Democratic Party)、立憲民主党(Constitutional Democratic Party)、国民民主党( National Democratic Party) 、社民党(Social Democratic Party)、共産党(Japanese Communist Party) 、日本維新の会(Japan Restoration Party)――ここまでがイデオロギーに基づく党名だ。日本保守党については訳すまでもない。公明党、れいわ新選組、参政党といった党名は状況的命名であってイデオロギー性はない。
 なかで筆者が注目するのは「日本維新の会」という党名だ。そのキーワード〈維新〉の英訳はRestorationとなり、復元・復旧・復活・復古と訳され、古いものへ新たに戻ることをいう。ゆえに、維新こそが〈保守〉の精神運動を端的に表す。明治維新は、封建制社会(幕藩体制)から古代社会に戻ること、すなわち、天皇中心だった古代社会に復古することだった。また、1930年代に起こった昭和維新運動も同様で、明治の近代化がすすみ昭和に至るや、天皇と国民のあいだに夾雑的存在=官僚、政治家、財界人が日本帝国を汚したと考える陸軍青年将校による蹶起だった。彼れはそれらを一掃しようとし、天皇と臣民(国民)が直接つながる古代世界すなわち一君万民の社会の再現を目指した。
 「日本維新の会」がどこに帰ろうとしているのかわからない。同党がしばしば掲げる「改革」という掛け声の中味は新自由主義的であり、「維新」という精神運動がもつイメージとは遠い。同党が日本史のいかなる時代に復古しようとしているかについては、筆者には伝わってこない。
 さて、日本の戦後政党史を概観すると、自由党(Liberal Party) という党名が出ては消えを繰り返していることがわかる。日本では自由という言葉はよろしくないイメージをもっている。自由放埓、自由奔放は無秩序と隣り合わせだ。この場合の日本語=自由の英訳はfreeとなり、フリーセックスがその代表例となる。恋愛自由主義者、自由恋愛となると不道徳と紙一重だ。
 一般に、freeとliberalのちがいについては、次のようにいわれている。「freedom」には「持って生まれた自由」という意味があり、「先天的・受動的」な自由を表し、それに対し「liberty」は、「自ら勝ち取った自由」という意味で、「後天的・能動的」な自由を表すと。そのように定義されるようになった歴史的事変がフランス革命であろう。いいかえれば、リベラリズムはフランス革命によってもたらされたのだと。フランス革命後すなわち近代は、この革命がもたらした3つのイデオロギーが併存する社会となった。その3つとは、①保守、②自由、③平等である。

フランス革命

 フランス革命を大雑把にとらえるならば、以下のとおりになる。革命前のフランスの政治制度は絶対王政といわれ、国王を頂点にした宮廷(臣下=官僚)があり、その下に第一身分(聖職者)、第二身分(貴族=領主)、第三身分(平民)という身分制度が形成されていて、宮廷による暴力的圧政により固定化されていた。第三身分には、職業選択、移動の自由はなく、農奴の子は農奴、自営農の子は自営農民、商家の子は商人と身分が固定されていた。彼ら彼女らには身分を超えた恋愛・結婚等が禁じられ、教育を受ける権利はなく、言論の自由等が厳しく制限された。第一身分と第二身分は国土の過半を所有する大地主であり、軍隊・警察・司法・行政機構の頂点に立って第三身分を支配した。
 フランス革命は第三身分による自由獲得のための大規模な暴力闘争だった。ところで、1925年、「第1次ロシア革命20周年記念」として制作・公開された映画『戦艦ポチョムキン』(セルゲイ・エイゼンシュテイン監督)の冒頭に、レーニンの「革命とは戦争である」の文章がロシア語で写し出されていることが字幕から確認できる。レーニンならば、フランス革命もロシア革命も戦争だといっただろう。革命勢力と反革命勢力の権力闘争すなわち内戦である。
 第三身分による革命は成功し、フランスを支配していた国王、貴族、聖職者から第三身分が権力を奪取した。1789年すなわちバスティーユ蜂起から3年後の1792年に王権が停止され、国民公会によって王政が廃止された。1793年にはルイ16世、王妃マリー・アントワネットが処刑された。その後のフランス革命は複雑に展開しているので、本稿では詳細に記述しない。

革命は戦争だがすべてをリセットしない

 フランス革命によって、保守・自由・平等のセットが近代のイデオロギーとして定着したと書いたが、革命が保守を一掃したわけではない。レーニンによって戦争と規定された革命だが、それによってすべてがリセットされるわけではない。ロシア革命もそうであったことは、革命後のソ連を知る世代には自明のことだ。皮肉なことに、保守主義というイデオロギーは、フランス革命によって生成された自由と平等の反措定として自立性を得た。
 フランス革命によって底辺に位置していた階級が権力奪取に成功し、貴族制度は撤廃され領地の開放がすすんだ。がしかし、貴族が所有する領地が完全に等しく国民に分け与えられたわけではない。21世紀の今日のフランスでも旧貴族階級が広大な土地を所有し、大邸宅を構えている。フランスのアクションTVドラマのなかで、容疑者と思われる旧貴族の家柄の大地主である悪徳市長について、刑事役が「昼は市民、夜は貴族」と揶揄するセリフがあった。
 そればかりではない。イデオロギーの観点からみても、前出の自由、平等、保守のうち、保守思想が完全に一掃されたわけではない。保守主義者はフランス革命前の社会を安定した社会として評価し、革命および革命後を混乱の時代の到来として否定する。そのような保守主義は、21世紀のこんにちまで、フランス社会のみならず世界中に残存している。

『フランス革命の省察』

 フランス革命を保守主義の立場から批判したのがエドマンド・バーク (1729-1797)である。彼の著書『フランス革命の省察』はいまなお、保守主義のバイブルとしてもてはやされている。バークは、法律家リチャード・バークの次男としてアイルランド王国ダブリンで生まれ、イギリスで学び、英国国教会の洗礼を受けている。彼の省察はイギリスの名誉革命およびジョン・ロックの思想(§7(3)参照)の影響を受けていて、自国の革命を成功と、そして隣国のフランス革命を失敗と受け止めている。
  バークはイギリスの知識人の一人として、隣国の革命の状況を同時的に聞きおよびその感想を手紙に認めた。それを編集したものが前掲書(1790年11月、ロンドンで刊行)だ。ということは、フランス革命勃発が1789年7月だから、それが世に出たのは、バスティーユ蜂起から1年3カ月余りしか経っていない、つまり、国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネットが処刑される前に書かれたことになる。なおフランス革命は1799年11月、ナポレオンの政権奪取によりしばしの終結をみるが、その後も動乱が続き、ナポレオンのロシア遠征失敗による彼の没落(1815)をもって終わったとされる。
 このように、バークはフランス革命の全体像を省察したわけではないし、パリに渡り現地の実態を見聞きしたわけでもない。イギリスに伝えられたかぎられた情報から、いわば直感的省察を加えたにすぎない。事実誤認も見受けられるという。それらをふまえたうえで、バークの省察を同書から抜き書きしてみよう。(以下の引用は『〔新訳〕フランス革命の省察 「保守主義の父」かく語りき』(佐藤健志〔訳〕/PHP文庫/以下「前掲書①」という)

新政府の樹立という発想は、われわれに嫌悪と恐怖を引き起こす。名誉革命の際も、また現在も、イギリス人は自分たちの権利や自由を「先祖から受け継いだもの」と見なしてきた。代々にわたって継承されてきたこの大樹に、異質な何かを接ぎ木しないよう、われわれは気をつけてきたのだ。わが国(イギリス)における政治改革は、つねに「古来の精神に立ち返る」という原則に従って行われてきた。将来行われる改革も、過去の事例を重んじ、手本とすることを願う。(前掲書①P86)

自由や権利を「祖先から直系の子孫へと引き継がれる相続財産」として扱うことこそ、イギリス憲法の一貫した方針といえる。それはイギリス人であることこそ、イギリス憲法の一貫した方針と言える。それはイギリス人であることに由来する財産にほかならず、より一般的な人権や自然権とは関係していない。〔中略〕王位も世襲なら、貴族の地位も世襲、下院や一般民衆がもつ特権や市民権や自由も、代々受け継がれたもの。
これは人間のあり方をめぐる深い思索のうえに定められた方針に思える。いや大自然のあり方にならったものとしたほうが、より的確であろう。自然とは理屈抜きに正しいと感じられるものであり、理性を超えた英知を宿しているのだ。(前掲書①P87~88)

・・・社会のどんな階層においても、善を重んずれば幸福が見つかることも理解されると思われる。
人間の平等とは、こういった道義性のなかに存在する。身分や階層そのものをなくせるなどというのは、途方もない大ウソにすぎない。こんなウソは、社会の下層で生きねばならない者たちに、間違った考えやむなしい期待を抱かせたあげく、社会的な格差への不満をつのらせるだけである。そしてあらゆる格差や不平等をなくすことは、どんな社会にも不可能なのだ。(前掲書①P94)

フランスはどうにもならない災難に陥っている。しかもその代償たるや、他国が最良の繁栄を獲得するために払った代償よりずっと高い!フランス人は貧しくなるために、わざわざ犯罪行為に手を染めたのだ!(略)
・・・フランスは、王権の手綱をいったん緩めるや、何でもやりたい放題をやるのが自由だという風潮の台頭を許し、宗教を否定する言動まで放置した。結果として、かつてなら富と権力を握っていた層にのみ見られた不正や腐敗が、社会全体に広まってしまったものの、それすら「特権のおすそ分け」のごとく美化されている。みんなで悪くなってゆくのが、新生フランスの基本原則たる平等の表れというわけだ。(前掲書①P96~97)

フランスの大法官は・・・あらゆる職業は名誉なもの、と麗々しく宣言した。〔後略〕
しかし、あらゆるものに名誉を与えるとなっては、もう少し突っ込んだ意味合いが生じる。調髪師や獣脂ロウソク職人といった仕事は、誰がやろうと名誉なものではない。・・・もっと隷属的な仕事については言わずもがな。
そういった仕事に就いているからといっていって、国家から迫害を受けるいわれはない。だがこんな連中に(個人としてであれ集団としてであれ)政治を任せたら最後、国家はたいへんなことになる。平等主義に徹することで、フランス人は世間の偏見をくつがえしているつもりかもしれないが、じつは非常識に振る舞っているだけと言わねばならない。(前掲書①P113)

フランス革命が生じたとき、ヨーロッパは全体として明らかに繁栄していた。伝統的な価値観や慣習が、この繁栄にどれだけ貢献していたかを具体的に計るのは難しい。けれども両者が無関係であるはずはない以上、伝統は社会にとって有益なものと見なして差し支えあるまい。
われわれの慣習、さらには文明は、さまざまな良い点を持ち合わせている。これを支えてきたのは貴族と聖職者であった。戦争や混乱のさなかにあっても、学問や文化が存続してきたのは、彼らの努力や庇護のおかげなのだ。経済を重視する政治家は、商業、交易、工業などにばかりこだわるが、これらにしたところで、貴族的精神や信仰心に多くを負っている可能性が高い。(前掲書①P145)

フランス革命の省察

 バークは、フランスの貴族は誇り高く勇気にあふれ、騎士道に忠実だと絶賛する。また、革命前のフランスが、そしてヨーロッパが平和で秩序が保たれたあるべき社会だったと述懐する。彼は母国イギリスの保守的な革命に矜持を持ちつつ、フランスの革命をとんでもないことだと、批判する。
 引用からもわかるように、▽宗教的良心、▽信義の公正さ、▽国家の伝統的なあり方、▽政治的改革はつねに「古来の精神に立ち返る」こと、▽改革も過去の事例を重んじ、手本にすること、▽自由や権利は「祖先から直系の子孫へと引き継がれる、▽またそれを相続財産として扱う」こと、▽自由や権利は一般的な人権、自然権とは関係しないこと、▽王権、貴族は代々受けつがれてきたもの、▽格差や不平等はなくせない…という文言が彼の思想を端的に表す。
 バークの保守主義とはこういうことなのだ。身分制を固定的なものと考え、社会の上位者は永遠に上位であり続けられる社会が保守主義者のあるべき社会なのだ。身分による差別、職業による差別、下層とされる人々に対する平然とした侮蔑を臆面もなく表明してはばからない。フランス革命を受け入れないイギリスの保守派知識人の社会観、人間観がよくわかる。これらが保守思想の核心だ。

フランス革命後の世界

 筆者は保守主義者ではないので、フランス革命が人類の進歩だと考えるが、そのことが一気に理想社会を形成したわけではないとも考える。フランス革命以降とは、保守・自由・平等のイデオロギーが状況に応じて、政治・社会の主導権を争う時代(歴史)となったといい換えられる。

自由主義
 第三身分が革命により獲得した自由は科学・技術の高度化を促し、産業革命を経て、ブルジョワジー(資本家)が富と権力を独占した。反面、プロレタリアート(労働者階級)を従属させる社会を形成するに至った。19世紀から20世紀にかけて、新たに富を得たブルジョワジーと、資本家として産業界に参入して成功した旧貴族が共存して、強固な経済的格差を社会にもたらした。

社会主義
 革命後の新たな状況下、フランス革命が掲げた「自由、平等、博愛(友愛)もしくは財産」というスローガンのうち、自由とともに重視されたのが平等だ。身分制度の撤廃から発せられた平等はその後、経済的格差の撤廃および働く者が社会の主導権を握るべきだとする社会主義、共産主義のイデオロギーとして発展し、19世になるとマルクス主義として体系化され、ロシア革命(1917)へとすすむ。
 前出のロシア革命から第二次大戦を経て、ソ連、東欧、アジア、アフリカ、中東において、ソ連の影響を受けた社会主義(的)国家群が誕生した。
 資本主義経済体制を保持してきた自由主義(的)国家群は、米ソ対立(冷戦)すなわち共産主義の脅威の下、それを阻止するため、福祉国家へと変容する。格差を税の再配分により平準化し、平等を目指す社会民主(社民)主義に従った体制を整えた。社民主義政党が議会内で議席を増やし、労働組合が資本家に対抗力を発揮した。自由・保守よりも平等が重視される時代だった。

福祉国家
 第一次大戦で戦勝国となったアメリカは、欧州各国が戦後処理で混乱する中、覇権国・超大国となった。ところが、1930年代に深刻な恐慌を経験し、それまでの自由主義経済から市場に政府が関与する経済政策を重視するようになった。と同時に、第二次大戦後、共産主義ソ連が超大国化した冷戦下、共産主義勢力を米国内から排除するとともに、福祉国家へ接近しはじめた。その結果、豊かな分厚い中間層が形成され、アメリカは自由と平等のバランスをとろうとする国家となった。

リベラリズムの時代

 アメリカの社会学者、経済史家のイマニュエル・ウォーラーステイン(1930~2019)は、著書『アフター・リベラリズム 近代世界システムを支えたイデオロギーの終焉』(1995刊/以下「前掲書②」)のなかで、リベラリズムを次のように定義している。

1789年(筆者註1)から1989年(註2)に至る時代は近代世界システムの地球規模におけるイデオロギー(中略)であるリベラリズムが、勝利しかつ崩壊した時代であり、興隆し最後に消滅した時代である。(中略)
リベラリズムは決して左翼の原則ではなかった。それはいつでも典型的な中道主義の原則であった。その主張者は自分たちの穏健さと賢明さと博愛とを確信していた。彼らは(保守主義的イデオロギーによって代表されると考えた)不公正な特権をもった旧態依然とした過去に対しても、(社会主義的あるいは急進主義的イデオロギーによって代表されると考えた)美徳または長所のいずれをも考慮しない無謀な平等にも、同時に対抗したのであった。リベラリズムはいつでも、政治舞台の他の勢力は二つの極端からなり、自分たちはその間にいると定義づけるよう努めてきた。彼らは1815年(同3)から48年(同4)までは、反動主義者にも共和主義者(あるいは民主主義者)にも反対し、1919年から39年までは、ファシストと共産主義者にともに反対し、1945年から60年(註5)までは、帝国主義者と急進的民族主義者に同じように反対して、1980年代には人種主義者と逆の人種主義者の両者に反対した。
リベラル派はいつも、リベラルな国家――つまり改革主義者であり、法律尊重主義者であり、いくぶんは自由意志論者である国家――が自由を保障できる唯一の国家であると主張してきた。そして国家によって自由が保護された比較的小さな集団にとっては、そのことは多分正しかったといえるだろう。しかし不幸なことに、この集団は全員に広がることなくいつも少数派にとどまった。リベラルはいつも、リベラルな国家だけが抑圧のない秩序を保障できると主張していた。右翼の批評家は、リベラルな国家は抑圧的と見えるのがいやなので、混乱を許すか実際には助長していると述べた。他方左翼の批評家は、権力にあるリベラルの主な関心は実際に秩序を保つことであり、彼らはまさしく実際には抑圧に関わっているのに、それが部分的に隠されているだけだと常に主張していたのだった。(前掲書②P8~9)

註1:フランス革命、註2:ベルリンの壁崩壊=冷戦終結、註3:ウイーン会議、註4:ウイーン体制崩壊、註5:アフリカ諸国の多数が独立

アフター・リベラリズム

 ウイーン会議前後の世界史がわからなくても、リベラリズムのイメージが素直に頭に入ってくる言説である。日本の〈穏健・中道〉という政治用語がぴたりとくる。
 日本におけるリベラリズムは、日本が福祉国家体制を整えていった1960~70年代に隆盛を極めた。新憲法の下、反戦・平和主義が社会に浸透し、保守合同政党⇔革新政党が対立しつつ均衡し、常に穏健保守すなわち自民党が与党である政治状況があたりまえだった。かかかる状況を55年体制と呼ぶ。言論人も大衆も、右と左を受け入れ、たして2で割った中庸を好んだ。そして大衆はひたすら豊かな生活を享受しようと「マイホーム主義」に徹した。自民党政府が進めた所得倍増政策が日本的リベラリズムを実現したともいえる。脱イデオロギー、非共産・非軍国主義の穏健中立が社会のメインストリームとなった。

「1968年革命」

スターリン(ソ連共産党)批判
 自由主義国家群(西側)におけるリベラリズム退潮のきっかけとなったのは、皮肉にも、西側内のソ連共産党批判の開始からだった。西側のソ連研究者および一部の共産主義者のあいだで、ハンガリー動乱(1956)の評価をめぐる論争が巻き起こった。
 ハンガリー動乱とは、ソ連(共産党)の衛星国(東側)で起きた政府に対する大規模な抗議行動である。ハンガリー民衆は自由を求めて、ソ連にコントロールされたハンガリー共産党政権に対し武装蜂起した。ハンガリー共産党はソ連軍の出動を要請し、市民3000人を虐殺した。また、20万人が国外亡命を余儀なくされた。
 西側のソ連支持の共産主義者、リベラル左派はその事変を知るや、ソ連型社会主義国家すなわちスターリンに指導されたソ連共産党支配下の社会主義国家群は、万人が自由と平等を享受できる理想郷ではないのではないか、という疑念を強く抱くようになった。〈反スターニズム〉の潮流が世界規模で広がった。
 日本においても、スターリン批判が開始された。スターリンに暗殺されトロツキーの革命論に依拠した日本トロツキスト聯盟がハンガリー動乱の翌年(1957)に結成され、革命的共産主義者同盟の結成へとつながっていく。日本共産党に代わる共産主義革命政党(新左翼)の誕生であり、この流れは「1968年革命」につながっていく。

「1968年革命」の挫折
 「1968年革命」はそれまで無謬・神話化されたソ連(スターリン主義)に対する失望・批判――その一方で人民を搾取する帝国主義とそれがもたらす疎外された管理社会に対する批判――という冷戦体制総体の解体を指向する革命運動だった。ソ連共産党および自国共産党を、自由を抑圧するスターリン主義と規定し、かつ、アメリカおよびそれに追随する自国政府を帝国主義、人間を疎外する管理型国家であると規定した。
 冷戦構造(帝国主義・スターリン主義)を解体するという理想に燃えた「1968年革命」は、体制側の圧倒的な暴力的弾圧の前に追い詰められ、大衆から離反し、少数派による爆弾闘争、銃撃戦といったテロリズムに陥っていった。アメリカのスチューデントパワー、フランスの「パリ5月革命」、西ドイツの「バーダー・マインフォフ(ドイツ赤軍)」、イタリアの「赤い旅団」、日本の新左翼武装闘争・全共闘運動などが、「1968年革命」の高揚と敗北を象徴する。

東欧における反ソ運動の挫折
東側では、ハンガリー動乱の10余年後の1968年、「プラハの春」と呼ばれる抵抗運動が起きる。当時のチェコスロヴァキア共産党第一書記アレクサンデル・ドゥプチェクは政治・経済各分野における民主化改革に着手し、報道の自由、言論の自由、旅行制限の緩和等を実行した。これに対してソ連は、ワルシャワ条約機構軍をドゥプチェクの自由化の改革を阻止・鎮圧するため、チェコスロヴァキアに侵攻させた。
 1968年8月、チェコスロヴァキアはソ連軍に占領されるが、これに抗議するチェコスロヴァキア市民は非暴力でソ連軍に抵抗する。しかしドゥプチェクらは逮捕され、モスクワに連行された。その後、彼はプラハに戻されたのち、1969年4月に共産党第一書記を辞任した。
 「プラハの春」はハンガリー革命と同様、ソ連の衛星国である東欧の国民が共産党による抑圧に抗した闘いをソ連が武力鎮圧したケースではあるが、ハンガリー革命との違いは、メディアの発達という状況変化にあった。プラハに進軍したソ連軍の戦車の前に素手で立ち止まり、進軍を阻もうとするプラハ市民の姿がTVを通じて全世界に流れた。ハンガリー動乱では見ることができなかった映像の力だ。このとき、ソ連とその傘下にある自国の共産党を擁護することは、だれもできなくなった。
 ほぼ同時に、ソ連時代の強制収容所に収監されていた作家ソルジェニーツィンが1970年にノーベル文学賞を受賞する。1973年にはソ連の国家的テロの歴史を明らかにした『収容所群島』が刊行される。『収容所群島』は1958年から67年の間にかけて執筆されたもので、7つの章でソ連の捕虜収容所システムが描写されている。同書は35カ国語で3000万部以上が発行された。

虚無的自由の世界の到来

 「プラハの春」およびソ連の強制収容所の実態が告げた反スターリン主義の潮流が当の東側で挫折し、西側の新たな自国帝国主義打倒の革命運動も熱狂的興奮の後に鎮圧され、理想を求めた1960年代後半から70年代初めの東西の「革命」の季節は終わった。世界は、東西を問わず、虚無的自由が支配する時代にさま変わりした。西側の状況をもっとも的確に表現した言説の一つが、スラヴォイ・ジジェクの以下の記述だと筆者は確信する。

(ポストモダン資本主義への)イデオロギーの移行は、1960年代の反乱(68年パリの5月革命からドイツの学生運動、アメリカのヒッピーに至るまで)の反動として起きた。60年代の抗議運動は、資本主義に対して、お決まりの社会・経済的搾取批判に新たな文明的な批判をつけ加えていた。日常生活における疎外、消費の商業化、「仮面をかぶって生きる」ことを強いられ、性的その他の抑圧にさらされた大衆社会のいかがわしさ、などだ。
資本主義の新たな精神は、こうした1968年の平等主義かつ反ヒエラルキー的な文言を昂然と復活させ、法人資本主義と〈現実に存在する社会主義〉の両者に共通する抑圧的な社会組織というものに対して、勝利をおさめるリバタリアン〔筆者註6〕の反乱として出現した。この新たな自由至上主義精神の典型例は、マイクロソフト社のビル・ゲイツやベン&ジュリー・アイスクリームの創業者たちといった、くだけた服装の「クール」な資本家に見ることができる。・・・(略)・・・1960年代の性の解放を生き延びたものは、寛容な快楽主義だった。それは超自我の庇護のもとに成り立つ支配的なイデオロギーにたやすく組み込まれていった。・・・(略)・・・今日の「非抑圧的」な快楽主義…の超自我性は、許された享楽がいかんせん義務的な享楽に転ずることにある。こうした純粋に自閉的な享楽(ドラッグその他の恍惚感をもたらす手立てによる)への欲求は、まさしく政治的な瞬間に生じた。すなわち、1968年の解放を目指した一連の動きの潜在力が、枯渇したときだ。
この1970年代半ばの時期に、残された唯一の道は、直接的で粗暴な「行為への移行」――〈現実界〉へおしやられることだった。・・・(そして、)おもに3つの形態がとられた。まず、過激な形での性的な享楽の探求、それから、左派の政治的テロリズム(ドイツ赤軍派、イタリアの赤い旅団など)。大衆が資本主義のイデオロギーの泥沼にどっぷりつかった時代には、もはや権威あるイデオロギー批判も有効ではなく、生の〈現実界〉の直接的暴力、つまり、「直接行動」に訴えるよりほかに大衆を目覚めさせる手段はないと考え、そこに賭けた。そして、最後に、精神的経験の〈現実界〉への志向(東洋の神秘主義)。これら三つに共通していたのは、直接〈現実界〉に触れる具体的な社会・政治的企てからの逃避だった。(『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』/スラヴォイ・ジジェク[著]/ちくま新書P99~103) 

筆者註6:§7(1)参照

ポストモダンの共産主義

 同書の刊行は2010年。「1968年革命」それ自体とその影響の両方を知る立場からの言説であるから、この「革命」の本質を冷静に省察することに成功している。たとえば、前出の1957年に日本で最初に反スターリニズム政党を立ち上げた「日本トロツキスト聯盟」の革命的共産主義者たちは、ジジェクのいうようなリバータリアンでなかっただろう。だが、そのおよそ30年後の1968年から日本各所で起こった全共闘運動参加者はリバータリアン的性格を帯びていた。彼らの多くがノンセクト・ラディカルと呼ばれ、政党、団体等の政治的組織への参加とその戦略的運動形態を拒否し、予示的運動を実践する方向を選んだ。

台頭する新自由主義、後退するリベラリズム

新自由主義とは資本主義の極端な形態
 黄金の1960年代が終わり、アメリカおよび西側経済が停滞にむかうにしたがい、世界経済に新しい風が吹き込む。アメリカ・イギリスにおける新自由主義(Neoliberalism) の台頭である。アメリカ・シカゴ学派経済学者のミルトン・フリードマンやフリードリヒ・ハイエクらが政府による裁量的な政策を批判し、市場原理を重視する経済学者・官僚らが発言力を強めた。それは経済学(経済政策論)のようでもであり、イデオロギーのようでもある。
 新自由主義とはどのようなものなのであろうか。ナオミ・クラインの言説を拝借して、以下、定義する。
 新自由主義とは資本主義の極端な形態であり、1980年代にロナルド・レーガン政権やマーガレット・サッチャー政権が新自由主義に基づく政策を推進した。具体的には、公共部門を敵視し、市場メカニズムや個々の消費者の判断以外のものを悪と見なす経済施策のことだ。
 新自由主義の世界観では、政府は民間企業が最大限の利益と富を得るのに最適な状況を作り出すために存在する。この考え方の基盤にあるのは、利益があがり経済が成長すれば、富裕層の富が流れ落ちて最終的にはすべての人に利益をもたらすという、トリクルダウン理論だ。
 新自由主義のプロジェクトのおもな政策手段は、公営事業の民営化、企業領域における大幅な規制緩和、公共サービスの削減による減税など、馴染み深いものばかりで、これらはすべて企業に有利な貿易協定によって確定される。(詳しくは後述)

ソ連の崩壊、冷戦の終結
 これまで世界を二分していた東西冷戦構造は、1987年のベルリンの壁崩壊からはじまっていく。超大国ソビエト連邦(ソ連)の弱体化が、連邦を構成する各共和国の独立の気運によって加速される。1988年11月16日、ソ連で初めて国家主権を宣言したエストニアを嚆矢として、1990年3月11日、リトアニアが、その2ヵ月後にはラトビアとグルジアが独立を宣言する。1991年になると、多くの共和国が独立を宣言し、ソ連に代わる独立国家共同体(CIS)が創設され、12月16日にはカザフスタンの独立宣言をもって、ソ連邦のすべての共和国の脱退が完了する。1991年12月25日、エリツィンがロシア連邦の初代大統領となり、ソ連は消滅する。

平等のイデオロギーの衰退と消滅
 20世紀末は、平等のイデオロギーが衰退・消滅に向かう時代となった。それは、(一)西側における「1968年革命」の挫折による革命的共産主義勢力の消滅、(二)西側におけるスターリン主義的「社会主義・共産主義」および社民主義の後退、(三)東側の崩壊――という重層的な要因による。フランス革命以降の保守、自由、平等が混在した世界のイデオロギー・バランスが崩壊した。そして、西側におけるリベラリズムの退潮が始まり、新自由主義が世界のメインストリームとなった。
 一方のソ連崩壊後のロシア・東欧諸国では、オリガルヒと呼ばれる新興ブルジョワジーが国家権力と癒着し経済支配を強めていく。オリガルヒもまた、新自由主義的価値観に囚われた集団である。 

アメリカにおけるネオコンの台頭と対テロ戦争

  新自由主義の異端ともいうべきイデオロギーが1990年代のアメリカに台頭する。ネオコン(Neoconservatism /new-conservatism/新保守主義)だ。そのの源流はアメリカのマルキストの転向によるものだとされている。彼らの動向のうち、アメリカ国内のみならず世界を揺るがしたのが、第一次ブッシュ政権による湾岸戦争だ。2001年の米国同時テロ事件(9.11)を奇禍としてブッシュ政権は「対テロ戦争」を掲げてイラク(反米フセイン政権打倒)、アフガニスタン(イスラム過激派掃討)に武力侵攻する。ネオコンはアメリカの大義(自由と民主主義)を世界中に布教するため、武力行使を厭わないことを世界に示した。力と正義が同義となった。

第2章 リバータリアニズム

 アメリカは、自由と保守は互いに影響を与えながら、平等を排除する傾向を強めていく。その融合の土台となっているのが、完全なる自由思想リバータリアニズム(libertarianism)である。それは個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する政治思想・政治哲学であり、経済的な自由を重視し、反福祉国家=小さな政府を目指す点において、前出の新自由主義と似ている。この思想を支持する立場をリバータリアンという。
 本稿では、デイヴィッド・ボウツ〔著〕〔註7〕の『リバータリアニズム入門 現代アメリカの〈民衆の保守思想〉/原題「Libertarianism」』(1997刊/以下「前掲書③)を手引きとしてその思想について考えてみる。なお本題には〝入門″とあるが、内容はかなり専門的である。

註7: ケイト―研究所副所長にしてリバータリアン運動の中心的人物の一人(1953-2024)。著書に『レーガン時代をふりかえる』『麻薬非合法化がもたらす危機』『学校の自由化』などがある。

リバータリアニズムの基本概念

 ボウツによる端的なリバータリアニズムの説明が以下の言説である。

リバータリアンは、「各人の人生、自由そして所有財産に対する権利」つまり「政府が作られる以前から、人々が生れながらにして持っている権利」をその人のものだと主張する思想である。リバータリアンの考え方によれば、すべての人間関係は、自発的なものでなければならず、法律によって禁じられるべき唯一の行為は、他者に対して強制力を行使しようとすること、つまり、殺人、レイプ、略奪、誘拐、詐欺などの行為である。(前掲書③P19)

リバータリアニズム入門

 各々の人生、生まれながらにして持っている権利としての自由と私有財産、そして人間関係の自発性――これらを第一義とする考え方というのは、とくべつ不自然には思えない。〈政府がつくられる以前に、人が生まれながらにもっている権利〉とは、端的にいえば、自然権であり、リバータリアニズムとは自然権を無条件に肯定するところから出発していることが、彼の短文からわかる。
 ボウツはリバータリアニズムの基本概念(前掲書③P40~)という章を設け、▽個人主義、▽個人の権利、▽自然な秩序、▽自発的な秩序、▽法の支配、▽制限された政府、▽自由市場、▽生産する美徳、▽利益の自然調和、▽平和――という項目を掲げて詳細に論じている。ボウツがまとめたリバータリアニズムの基本概念は、ジョン・ロック、デイヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、トマス・ジェファーソン、トマス・ペインの影響を受け、現代のリバータリアン哲学として発展した成果である。
 そこで論じられている基本概念を大雑把にまとめると以下のようになる。

  1. 〈個人〉が社会分析の基本単位であること。唯一個人だけが選択し、結果責任を負う。そこからは、性、宗教、人種の差別はなく、個人の尊厳を認め合う。

  2. 人間の社会で最も重要な制度は、言語、法律、貨幣、そして市場であり、これらの制度のすべては、中央政府の決定によるのではなく、自発的に発展した。

  3. リバータリアニズムは、自由放蕩思想でも享楽思想でもなく、「法の下における人間に自由をもたらす社会」を提案する。

  4. 人間の権利を守るために人は政府を組織するが、政府とは、そもそも危険な制度である。制限された政府がリバータリアニズムが認める政治的含意である。

  5. 自由市場は、自由な人間たちの経済システムであり、富を創造するために必要なものである。リバータリアンは、人々の経済上の選択に関する政府の介入が最小限であればあるほど、人々は、もっと自由であり、もっと豊かになれる。

  6. 17世紀初期のリバータリアンは、自分自身の労働の果実を自分が保有する権利を守ろうとした。この意味で初期マルクス主義の階級分析論を発展させた人々だといえる。このことは、富を生みだす者たちと力によってその富を奪う者たちという基本的な2つの階級に社会を分けるものだった。近年のリバータリアンは、真に生産する人々がそれぞれ自分が稼いだ成果を自分の物とする権利を守りとおす。国王や僧侶階級やその後に現れた新興階級の政治家や官僚たちが、自分たちの稼ぎだしたものを奪い取りそれを非生産的な人間に譲渡することに反対した。

  7. リバータリアンは、公平が実現される社会においては、平和な状態の下で、生産的な人々の間では、そこに生まれる収益には自然の調和があると信じている。我々は自由市場という社会の仕組みによって繫栄するのだから本来摩擦は起きない。政府が特殊な政治的圧力に屈して特定の集団に不不公平な補助金を与え始めた時に初めて、集団間の利害対立に巻き込まれ、ひとかけらの政治的な野望のために、それぞれの職業集団が自らを組織化して他の職業集団と争わざる得なくなる。

  8. 戦争は、大量死や大規模な破壊を引き起こし、人々の家族生活や経済生活を破壊させる。そして、支配層の人間たちの手にますますより多くの権力を与えることになる。すべての歴史を通じて戦争は、つねに敵対し合う双方の国のなかで平和に生産に従事する人々の共通の敵だった。

リバータリアニズムの人間観

 リバータリアニズムとネオリベラリズムとは多くの点で共通する。個人が自由にすべてを選択し、自由市場がすべてを解決するから、政府はよけいな口出しをするな。自分が稼いだものはすべて自分が獲得する権利がある。だから、政府が不当に(税というかたちで)それを奪うことはできないのだと。
 このように、個人を社会の単位とする考え方は、1719年に刊行された『ロビンソン・クルーソー』(ダニエル・デフォー〔著〕)に表れている。無人島に漂流した主人公が独り自力で生活するようすを描いた冒険小説だ。
 ただし、クルーソーは、実際は独りではなかった。隣の島の住民で敵の部族に捕虜になり、処刑のため、彼が流れ着いた島に連れてこられた先住民を助け、ともに生活した。クルーソーはその先住民をフライデーと名づけ、英語を教えたりして、従僕かつ友とした。つまり、クルーソーは偶然他者を得て社会を築き、従僕が提供する労働という援助を受けながらも、物語はあたかも独りで生きているかのように展開する。
 クルーソーがフライデーと共同的に暮らしながら「独り」と見なされるのは、18世紀初頭の西欧では、海の果ての島の先住民すなわち非ヨーロッパ人を自分たちと同じ人間とはみなしていなかったからであり、友であっても家畜のように同等ではなかったからだろう。
 そればかりではない。クルーソーが重い伝染病にかかったり、重傷を負うことが想定されていない。そもそも、この物語はあり得ない荒唐無稽な設定であるにもかかわらず、大衆の支持を得た。大衆は信じたいものを――それがかなりできの悪いフィクションであっても――信じる。無人島でたった「独り」で工夫を凝らして生きるクルーソーと、産業・技術が発展するなか、独力で逞しく起業する当時の新しい資本家の人間像とが重なっていたからだろう。
 リバータリアニズムは、〈個人〉を人間社会の基本単位として措定すべきだと主張する。この思想は、クルーソーの物語が好まれる時代を背景として生まれ支持された。しかし、人間はいかなる条件においても、独りで生活することはできない。マルクスの表現を借りれば、「人間とは社会関係の総体(『フォイエルバッハに関するテーゼ』)」なのだから。

リバータリアニズムの起源と潮流

リバータリアニズム(libertarianism)は、先述した新自由主義(neoliberalism)と多くの点で共通項を見いだせるのだが、ボウツを筆頭とするリバータリアンはなぜ、かくも聞きなれない名称を用い、独自の党派性を打ち出そうとしたか。この党派はいつごろ、なにを目指したのか。以下、その始原から今日までを前掲書③をめくりながら振り返る。

老子が最初のリーバータリアン
 ボウツは前掲書③において、最初のリバータリアンは紀元前6世紀、道教を創始した老子だといい、老子の「法もしくは強制を用いることなく、人々が社会的秩序を保つことができるようにすべきだ」という一節を引用する。加えて、自由と人権についての考え方は西欧にかぎられたものではなく、全世界の拡がりを持つと説明する。
 次にボウツは、西洋思想の二大潮流であるギリシャ思想とユダヤ=キリスト教が人類の自由(freedom)の発展に貢献したという。

リバータリアニズムは、ふつうは、「自由市場を優先し、何よりも経済的自由を強く主張する思想だ」と考えられている。しかし、この思想の出発点は、宗教的寛容を求める闘いのなかにこそ見られる。初期のキリスト教の信者たちは、ローマ帝国からの迫害に対抗するため、他人の信仰に対して寛容であることを問い詰めた宗教的理論を発達させた。その創始者は、タートウリアンである。この人物は、ローマ帝国に滅ぼされる前のカルタゴ人たちから「ラテン神学の父」として敬われていた。紀元200年頃に次のように書いている。「人間の権利の根本的なものは、自然から与えらえた権利である。すべての人間は、自分自身の信念に基づいてのみ信仰を持つ。一人の人間の信仰は、他の人々を傷つけることも、助けることもできない。また、一つの宗教が他の宗教に対して、信仰を強制することはできないし、信者たちの自由意志を引きずってゆくこともできない」と。すでにこの時期に、人間が自由であることは、基本的人権あるいは自然権として実現していたのである。
貿易が栄え、宗教上の教義解釈の変更が当然のこととなり、市民社会が成長したことは、それぞれの地域や共同体の内部に変化を求める原動力があったことを意味している。そして、この宗教的寛容や、多様な考え方を許す態度(puluralismu)、自分たちの政府の権力が制限されるべきだという考え方につながった。(前掲書③P65~66)

リバータリアニズム入門

 ボウツは、ここで自身が率いるリバータリアニズムが、自然権としての自由、寛容、基本的人権を認め、そこから導き出される信仰の自由と多元主義が政府の権力を制限することを強調する。引用の冒頭の太字部分が狭義の新自由主義だとするならば、リバータリアニズムはより広いイデオロギーだといいたいのではなかろうか。

12~16世紀のリバータリアニズム
 ボウツは以下、12~13世紀に起きたマグナ・カルタ〔註8〕、マグデブルグの法〔註9〕、聖トマス・アキナスと哲学者による王権の制限に関する神学上の議論、13世紀の大学者、ロジャー・ベーコンの「暴君を殺す権利」の擁護、また、16世紀、神学、自然法、経済学を押し進めたサランチャ学派〔註10〕などを挙げる。
 彼はルネサンスと宗教改革をリバータリアニズムの源流の初期の段階の絶頂期とする。とりわけ後者をカトリック教会の独占支配を打ち破ったことで、偶然にもプロテスタント諸宗派がヨーロッパ中に広がることを助け、クエーカー教徒やバプティスト(洗礼派)といった宗派が後にリベラル思想を生むという効果を発揮したと評価する。

註8:イギリスの土地貴族が国王ジョンと対立し、王が不当な干渉をしないよう大憲章(マグナカルタ)に署名させた。
註9:ドイツの都市マグデブルグで都市の国王からの自由と自治を強調した一連の法を定着させた。
註10:スペインのスコラ哲学の思想家集団

絶対王政とリバータリアニズム
 16世紀末になるとローマ教会はその弱体化に伴い、国家(王政)に依存するようになり、絶対王政の発生を促した。君主は官僚制度を整備し、新しい課税を考え出し、常備軍を設置し、王権をより強めた。フランスのルイ14世、イギリスのスチュアート朝の王たちが絶対主義支配の確立を代表する。しかしイギリスでは、市民社会と議会の権威が大陸より強く、1649年にジェームス一世の息子チャールズ一世の斬首をもって、絶対主義王政の終わりを告げた。

17世紀のオランダ、イギリスの自由思想
 17世紀、絶対王政はフランス、スペインに根を下ろしたが、オランダはスペイン帝国から独立し、宗教的寛容と自由な商業と制限された政府という理念の中心地となった。
 ボウツは前掲書③で、大思想家のひとりスピノザを紹介している。スピノザはユダヤ系であるがゆえにカトリックの絶対王政下のポルトガルで迫害を受け、オランダに逃れた難民だった。そして、《(オランダの大都市)アムステルダムは、商業的繁栄と、他の人々を自分と同じように尊重することによって、自由という果実を手にいれた。このヨーロッパで最も繫栄する都市にとって、すべての国の人々とすべての宗教が、偉大な調和のなかで共存し、隣人に不信の念を抱くことなく、自分の財産を信託するものである。どんな宗教も宗派も特別扱いされることがない。〔後略〕》と『神学と政治についての論文』のなかに記しているという。
 続いてボウツは17世紀のイギリスに初期の自由思想の勃興をみる。まずは『失楽園』の著者ジョン・ミルトンの次の言説――「自由こそは徳(virtue)の最高の学校である。〔中略〕人間の誇り高さは、それが自由に選べる場合においてのみ意味をもつのである」、そして、チャールズ一世が斬首された王位空位時代――クロムウエル支配のレヴェラーズ(水平派)の自由思想を挙げる。レヴェラーズの指導者リチャード・オーバートンは、「すべての個人は「自己決定の権利」を持っているのだ」「すべて人は、自分自身の権利の支配者なのであって、他の人々の支配者ではない」と宣言したという。

名誉革命とリベラリズムの誕生
 1689年に「名誉革命」が起きる。ジェームズ二世が王位継承したイギリスは、再び王権強化の時代に戻る気配を見せた。そのときイギリス議会がオランダにいたウイリアムとメアリーの即位を要請し、二人はその要請を受諾した――これが「名誉革命」の大筋だ。ボウツは、名誉革命こそがリベラリズム(liberalism)の誕生だと力説する。そしてジョン・ロックが最初の真のリベラル(=リバータリアン)であり、現代政治学の父とみなされたという。  
 ボウツはロックの著作『市民政府論・第二篇』の主要部分を引用しつつ真のリベラルズム(リバータリアニズム)について解説する。

自然権
 人々は政府の存在に先んじて諸権利を持っている。それゆえ、私たちはそれを自然権と呼ぶ。なぜなら、それは自然界に存在するからである。

政府
 政府の効果を認めるが好き勝手にやる自由はない。人々は、自分の諸権利を擁護するために政府を創った。人々は政府がなくても権利を擁護できるだろうが、しかし権利を擁護するためには、政府は効果的なシステムである。

自然法と政府に反逆することの正当性
 もし政府がその領分を行き過ぎた場合、人々が反逆することは正しい。代議政体というものは、政府をしっかりとその本来の目的に固定する最高の手段である。自然法は、立法者にとってだけでなく、そうでない人も含めてすべての人に存在する。

所有権の理念
 すべての人間は自分自身の身体に対する所有権を持っている。これに対しては、本人以外の誰もいかなる権利も持っていない。彼の身体の〈労働〉と彼の手の〈働き〉は、まさに、彼自身のものであるといってよい。そこで自然が準備し、そのまま放置していた状態から、彼が自分の手で取り上げるものが何であれ、彼はそれを自分の〈所有物〉とする。

この思想は熱狂的に受け入れられた。ヨーロッパはまだ絶対王政の手中にあったが、スチュアート王朝の統治を経験したせいで、イギリス人はあらゆる政府の統治形態に疑い深くなっていた。そして彼らは当然、このロックやレベラーズたちの理念を、新大陸に向かう船に乗せて運び始めた。(前掲書③P75)

リバータリアニズム入門

 イギリス人の最初の新大陸入植は、1607年に建設されたジェームズタウン。以来、400年余りが経過した今日のアメリカでは人種差別・宗教差別が残っているどころか、より過酷なものになろうとしている。
 ボウツは、「イギリス人はロックやレベラーズたちの理念を新大陸に向かう船に乗せて運び始めた」というが、船に乗せたのはそれだけではない。アメリカの国づくりにとって最重要なものの一つ――ボウツが見ない、あるいは見ていても無視する――を、彼らはアフリカから新大陸に向かう船に乗せた。それはいうまでもなく奴隷として拉致した〈人間〉である。このことについては、§9(2)において詳述する。

リベラル(リバータリアン)にとって18世紀は偉大な世紀
ボウツは歴史を個の自由の探究として読み解く。個の自由を抑圧するのが政府だと。18世紀のヨーロッパにおける革命は最強の抑圧装置、絶対王政という強力な政府の打倒であったと。スペイン帝国から独立したオランダの繁栄、イギリスの名誉革命はボウツにとって、リベラル(=リバータリアン)が国を統治する新しい歴史の始まりと位置づける。ところが、フランス革命については、ひとこともふれていない。フランスに関しては啓蒙主義(enlightenmento)を代表するフランスの作家ヴォルテール(1694~1778)についてだけふれている。

啓蒙主義は、フランスの作家ヴォルテールがフランスの圧政から逃げて、イギリスに渡った1720年頃に始まったと言ってもよい。ヴォルテールはイギリスで宗教上の寛容、代議政治、そして繫栄する中産階級の人々を見た。彼は、イギリスでは商取り引きフランスよりもはるかに尊重されていることに気がついた。フランスでは、特権階級が商業を営む人たちを見下していたのだった。〔中略〕彼は『イギリス書簡』のなかで、株式取り引きついて次の有名なくだりを書いた。

(※以下は、ボルテールの『イギリス書簡』からボウツによる再引用)
ロンドンの株式取引所に行ってみたまえ。数多くの法廷よりもずっと目を見はる場所である。そこでは、人類に貢献するために世界中の国々から集まってきた代理人たちを見ることになる。ユダヤ人がいるし、マホメット教徒がいる。キリスト教徒もいる、彼らは互いにまるで同じ宗教を信じているかのように商売している。
〔中略〕
そこでは、ただ破産するような者たちだけが、彼らを指して不信仰者と呼ぶ。そこではプレスビテリアン(長老派。カルヴァン派の一派でスコットランドで広まった)が、アナバプティスト(再洗礼派)を信頼し、イギリス国教徒が、クエーカー教徒と約束を交わす。この平和で自由な集まりが終わると、ある者はシナゴーグ(ユダヤ教会)に行き、別のものは酒を飲みに行く。また、キリスト教会に行って神の霊感を待つ者もいれば、帽子を被ったままの者たちもいる。彼らはすべて満足している。(前掲書③75~76)

リバータリアニズム入門

 ボウツが上記のヴォルテールを引用した意図は、〝18世紀のリベラリズム(自由思想)”が経済的発展を促している実態を示すことを第一とするが、それに加えて、人種差別をしないこと、信仰の自由を受け入れていること――を伝えたかったがためだと推測する。ボウツにおいては、〝18世紀のリベラリズム″とリバータリアニズムとは同義語である。

アダム・スミスの経済学
 ボウツがジョン・ロックと並んで真のリベラリズムの、あるいは今日のリバータリアニズムのもう一人の父(別の父は当然のことながらジョン・ロックであるが)と称賛するのがアダム・スミスだ。ボウツはスミスの『国富論』を通じて、それがリバータリアン理論へのもっとも重要な貢献だという。

自生的秩序
 アダム・スミスによれば、自生的秩序とは「人間社会に起きる物事の秩序は自発的に生ずる」ということだ。

たとえば、人々を他者と自由に交流させ、かつ彼らの自由と財産の権利を擁護したまえ。そうすれば、中央の統制がなくても秩序なるものが現れるだろう。市場経済は、自生的秩序の一つの形態である。何百人の、あるいは何千人の、あるいは今日では、何百万の人々が、毎日、いかにしてより多くの商品を生産するか、また、どうやってもっといい仕事に就くか、あるいは、どのようにして自分や家族のためにもっと多くの収入を稼ごうかとお思いをめぐらせながら、市場やビジネスの世界に入ってくる。彼らは中央の権威に指導されたわけでもないし、また蜂が蜜を作るために動くように、生物的な本能に導かれたわけでもない。けれども生産活動や取り引きをすことで、自分自身や他の人々のために、富を創り出すのである。(前掲書③P81) 

リバータリアニズム入門

 自生的秩序の具体的形態として市場に続いて、言語、法律、貨幣を挙げ、これらは人間たちの必要に応じて発生し、変化してきたものだという。
 リベラリズム(リバータリアニズム)の基本原理は、アダム・スミスが自生的秩序の原理を組織立てたときに完成した。それはスミスが自著『国富論』を「自然で単純な自由のシステムを描写したのだ」と語ったように、人々が外部的干渉を受けないときに生じる資本主義の描写であり、近代経済学の基本原理でもある。
 いつ、いかにして、自分自身の利益に基づいて人々が生産したり、取引をするのか、人々は〝見えざる手”に導かれて、他の人々を益する。

18世紀のアメリカを支配したリベラル思想
アメリカの独立記念日7月4日は、1776年のこの日にアメリカ独立宣言が公布されたことによる。しかし、宣言後にも宗主国イギリスとの戦闘は続き、1783年、アメリカ独立戦争の講和条約である「パリ条約」をもって、イギリスがアメリカ合衆国の独立を承認したことになる。宣言から7年間も戦争は続いた。過酷な独立のための戦争(武装闘争)を準備し指導したのが、急進的リべラル、トマス・ペイン(1737~1809)である。
 ペインはまず独立戦争へと導くため、政治パンフレット『コモン・センス』を著わし出版した。『コモン・センス』には、イギリスに対する独立の要求だけでなく、自然権と人間の独立を正当化する理論が展開されている。ボウツはペインについて、「急進的なリバータリアン理論を提供した」と評している。その根拠となるのが、ペインが打ち出した〈社会〉対〈政府〉という二項対立の概念である。〈現実のこの社会は、私たちの必要から生み出される〉⇔〈政府は私たちの不道徳から生み出される〉。ペインは「政府は、たとえそれが最善の国家であるとしても、よくて必要悪である。そして国家が最悪の国家であれば、それは耐えがたいものとなる」といった。
 ペインの政府を下位に、社会を上位に位置づける世界観が、今日のアメリカにおける「反ワシントン」のムーブメントにつながっていく、と筆者は考える。このことについては、後述(第3章)する。
 ボウツは、自由のための独立の戦いにあって『コモン・センス』と『諸国民の富』が果たした役割の重要性を強調するとともに、アメリカ独立宣言(トマス・ジェファソン起草)を「歴史上書かれたもののなかで、最高にすばらしいリバータリアン文書である」と絶賛する。そして、独立宣言の3つの要点として、①人々は権利を持つこと、②政府の目的はこの権利を擁護することにあること、③(もし政府が許される範囲を超え出るならば)人々には、政府を変革し、廃止する権利があること――を挙げている。

独立後のアメリカ社会の変化
ボウツは、独立を達成したアメリカにおける急進的なリバータリアニズムの主要なテーマの第一は、バーナード・バイリン〔註11〕のエッセイに書かれた、「権力は悪であり、およそ必要とされる場合には、必要悪としてのみである」という思想を人々に理解させることだったといっている。権力は限りなく腐敗する、権力をあらゆる方法で統御し、制限し、抑制しなければならないと。
 リバータリアンはアメリカ社会のすみずみにいたるまで、権力の分立、権利章典、行政、立法、司法の制限、戦争を強要し行う権利の制約などを説いたことだろう。こうして、権力そのものを疑う、すなわち疑念が、アメリカ革命のイデオロギーの中心となり、永遠に続く遺産としてアメリカ国民に残された。

註12:アメリカの歴史学者。ハーバード大学名誉教授(1922~2020)。アメリカ史、とくに植民地時代から独立革命までのアメリカ史専攻。ピューリッツァー賞歴史部門を2回受賞している(1968年と1987年)。1968年には、バンクロフト賞(コロンビア大学)も受賞した。1975年には全米図書賞を受賞。

 第二は、市民権や政治の諸権利の拡張の要求にこたえることだった。独立戦争(アメリカ革命)後の社会には、権力から排除される人たち――奴隷、農奴、女性たち――が出現するようになった。1775年、世界最初の反奴隷協会(antiislavery society)がフィラデルフィアに設立され、その後1世紀もたたないうちに、西洋世界では奴隷制と農奴制が廃止された。奴隷法廃止法(1883)によって奴隷所有者たちが受ける「財産」損失の補償問題については、リバータリアンのベンジャミン・パールソン〔註13〕は「補償されねばならないのは、むしろ奴隷の方である」と力説したという。
 女性の権利擁護の意識が目覚めた。1848年、最初の男女同権論者たちの集会が開かれ、自然権を要求し始めた。イギリスの学者ヘンリー・サムナー・メイン〔註14〕は「世界は身分社会から契約社会へ移行しつつある」といった。

註13: 奴隷制度廃止法前からの奴隷制度廃止論者(1797~1855)。
註14: イギリスの法学者・社会学者・政治評論家(1822~1888)。イギリスにおける歴史法学の創始者とされている。

 第三は、戦争廃絶への挑戦である。自由貿易は異なった世界の人たちを平和のうちに結びつける。自由貿易によって戦争の可能性は減る、というのが当時のリベラルの主張だった。
 アメリカ独立革命を理論的かつ実践的に支えたアメリカの政治家、思想家、運動家等は、総じて宗主国イギリスの名誉革命に影響を与えた古典派経済学者および自由主義イデオローグの影響を受けていた。イギリスから新大陸に向けて、自然権、自由主義、資本主義経済などが輸出された。宗主国イギリスは権力であり、自由な経済活動を阻害し、植民者が築いた富を税として奪う「政府」だと認識された。併せて自然権から、奴隷制の廃止、人種差別・宗教差別の否定という先駆的社会変革の思想が北米に根づいたかのように、ボウツの記述からうかがえる。

リベラリズム=リバータリアニズムがもたらしたもの
 ボウツは、自由を求めたイギリス名誉革命およびアメリカ独立革命の達成が世界(欧米)にもたらした結果(影響)を次のように列挙している。

  1. 学問と機械の驚くべき進歩

  2. .ジェレミー・ベンサムの功利主義(政府は「最大多数の最大幸福」を求めなければいけない)

  3. ジョン・スチュアート・ミル『自由論』

  4. ハーバード・スペンサー『社会静力学』(すべて人は自分の能力使うに当たって、他のすべての人がもつ自由への愛好と矛盾しない限り、完全な自由を要求してもよいと、現代のリバータリアンの心情を述べた。

  5. ドイツに、ゲーテ、シラーという偉大な作家を生みだす(彼らはリベラルだった)。この二人は、イマニュエル・カントやウイルヘルム・フンボルトのような同時代の哲学者や学者の理念のなかに自由の理念を提供した。

  6. フランスでも、国家および国家によるすべての決定を攻撃するエッセイが書かれたばかりか、税金を「法的略奪」という概念を用いて、特権階級が人々が生産した物を法によって政府に使わせるようなっていると攻撃した。

  7. リバータリアンが前出のとおり、奴隷制廃止運動を指導し、奴隷制を「人間の窃盗」と批判した。ウイリアム・ロイド・ギャリソン〔註15〕は「すべての人種を人間の支配から、あるいは奴隷状態にある自分から、また政府の野蛮な暴力から、解放することにある」と書いた。

  8. ライサンダー・スプーナー〔註16〕は、自然権の議論から始めて、「憲法を含めていかなる契約をもってしても、誰も自分が持ついかなる自然権をも放棄することはできないと訴訟を起こしたばかりか、個人的に憲法を承認しなかった。フレデリック・ダグラスは奴隷制廃止論を自己所有権と自然権から組み立てた。

註15: アメリカの奴隷制度廃止運動家であり、ジャーナリスト、社会改革者(1805~1879)。急進的な奴隷制度廃止運動の新聞「リベレーター」の編集者として知られ、「アメリカ反奴隷制度協会」の創設者の一人である。

註16: アメリカの個人主義的無政府主義者、政治哲学者、理神論者、奴隷制度廃止運動家、労働運動の支持者、法哲学者、起業家(1808~1887)。アメリカ合衆国郵便局と競合するアメリカ文書郵便会社を設立したことでも知られる。この郵便会社はアメリカ合衆国政府によって事業からの撤退を強いられることになった。

リベラルの衰退 社会主義の台頭
 19世紀におけるリベラルの衰退を招いた大きな社会変動は貧困問題である。産業革命によって巨大な富が生み出されたが、その富は資本家に集中し、労働者は劣悪な労働環境と低賃金に喘いだ。そこから経済的平等を実現する社会主義理論が提起され、マルクスによって体系化された。マルクスは自ら共産党(共産主義同盟)を立ち上げ、革命運動の理論・実践の指導者となった。

19世紀が終わりに近づく頃、古典的リベラリズムは、新しい衣をまとった集産主義(collecttivism)と国家権力に道を譲り始めた。〔中略〕20世紀に入ると、この問題がリベラル派やリバータリアン派を悩ますことになった。問題の一つは、リベラルたちが怠け始めたことだった。彼らは〔中略〕自由主義は閉鎖的なシステムだと表明した。それに代わってマルクスが描いた社会主義が、これから発展していくまったく新しい理論として登場し、若い世代の知識人の多くを魅了した。(前掲書③P94) 

リバータリアニズム入門

 マルクスは労働者の側から資本主義経済から社会主義経済への転換と、リベラル派が構築した民主主義国家の打倒すなわち暴力革命を目指したが、その一方で、資本家・経営者・技術者の側から、大企業経営を範として、政治的選択による効率的な経済運営の構築を目指す動きが出始めた。

科学とビジネスの成功によって、技術者たちや大企業の役職者たちのなかから、大企業の場合と同じように、自分たちが社会全体を設計し、運営したらどうか、という考えが出てきた。幾人かの学者たちは「最大多数の最大幸福」を強調したベンサムとミルの功利主義の影響を受けて、政府の制限と個人の権利を擁護する必要性を疑問視しはじめた。もしこれらの問題の最重要点が、繁栄と幸福を生みだすことにあるのなら、なぜ回りくどいやり方で人々の権利など擁護するのか?なぜもっと直接、経済政策や広範囲にわたる繁栄を目指さないのか?こうして再度、人々は自主的秩序という概念を忘れてしまい、生産の問題はすでに済んでしまったものという想定のもとに、政治によって選択された方法によって、経済を動かすという図式が開発された。(前掲書③P95~96)

リバータリアニズム入門

 このような動きは21世紀のいま現在、アメリカ政治に強い影響を与えている「テック右派(Tech Right)」の主張と酷似している。「テック右派」とは、ビッグ・テック(Big Tech)と呼ばれる世界で支配的な影響力をもつ巨大IT企業の中で、政府による規制や民主主義そのものを否定するグループのこと。以下、ジャーナリスト内田聖子の説明を引用しておく。

・・・この数年で、ビッグテック企業の本拠地であるシリコンバレーでは、マスク氏に象徴される「テック右派(Tech Right)の存在感が際立つようになっている。彼らは政府による規制や民主主義そのものを「無駄で非効率なもの」とみなし、技術による独裁的な統治を理想とする。「言論の自由」や「イノベーションと競争による米国経済の活性化」を掲げるが、実のところはビッグテック・ポピュリズムである。この動きは、トランプ政権と実に相性がいい。(「偽情報・ディープフェイク もう一つの大統領選」/雑誌『地平』2025年1月号 P37)

地平

 19世紀の亡霊がいま、蘇ったかのようだ。「テック右派」の今後の動きについては、大いに警戒すべきだと筆者は考えている。それについては第4章でふれる。

第一次世界大戦と総力戦
 第二の社会変動の要因は、第一次(欧州)大戦である。ボウツはこの戦争の原因にふれずに、大戦争がもたらした各国(政府)の変容を力説する。しかし、ボウツがふれなかった第一次大戦の特徴である総力戦にふれないわけにはいかない。総力戦体制が国と政府のあり方に強い影響を与えたのである。
 総力戦とは、戦争当事国が軍事にとどまらず、政治、経済、社会、教育、情報…といった国民生活すべてを政府による管理のもと、戦争相手国に対峙することをいう。当然、経済(生産)は軍需が優先され、生活(消費)は配給制度が敷かれ、重税ときに財産の供出があり、国民皆兵により、生命までも政府に提供するに至る。国民の自由はことごとく奪われる。18世紀に西欧がつくり上げた自由主義(リベラリズム)は戦争勝利という国家的命題の前に無意味と化す。愛国主義という情念的拘束が自由をそしてリベラリズムを圧し潰す。

1815年に始まったヨーロッパの長い平和は、1914年に第一次世界大戦が勃発したことによって砕け散った。リベラリズムが、国家統制と国家主義に取って代わられたことは、大いに非難されるべきことだ。戦争そのものがリベラリズムを死に追いやったと言ってもいいだろう。アメリカ合衆国とヨーロッパにおいて、政府は戦争に対処するために、自分の活動領域と権力を大きく拡張した。法外な税金、徴兵、検閲、国有化、そして中央による計画である。〔中略〕そのときまで古い秩序に取って代わっていたリベラリズムの時代が、今度は、巨大国家の時代にとって代わられたことを示していた。(前掲書③P96~97)

リバータリアニズム入門

 ボウツの言説はそのとおりだと思うがしかし、第一次世界大戦の主因が忘れられている。大戦は天災のように突然、起きたわけではない。レーニンが『帝国主義論』で示したように、18世紀の自由主義経済論に基づき資本主義が発達し帝国主義段階に到達すると、帝国主義国家群(欧・米・日本)のあいだいに不均等発展が生じ、市場争奪(分割と再分割)をめぐる対立が軍事衝突を招き、世界大戦(帝国主義戦争)が勃発した。

大恐慌/福祉国家/第二次世界大戦
 第一次大戦後の1920年代のアメリカは「狂騒の20年代/ Roaring Twenties」と呼ばれる好景気を迎えるが、1930年代に入ると大恐慌が起き、フランクリン・ルーズベルトが行ったニューディール政策でその苦境を脱する。アメリカには計画経済が導入され、福祉国家になった。
 1930年代には第二次世界大戦が勃発し、アメリカは欧州、東アジアに連合国の主軸として派兵し、日・独・伊のファシズム連合と対戦し1945年、日本帝国の降伏により、戦争は終結した。
 この時代(1920~1940年代)はリベラルにとって暗黒の時代だった。「アメリカの知識人たちのあいだに大きな政府を求める熱狂が起きた(前掲書③P97)」とボウツは書いている。また、『ニュー・リパブリック』誌の最初の編集長であるハーバード・クローリーの『アメリカ的生活の約束』から次の言説を引用している。「その約束は・・・経済の自由によってではなく、しっかりとした規律によって、また個人の欲望をたっぷりと満たすことによってではなく、個人の服従と大いなる自己否定によって達成されるのである」と。

ルーズベルトの政府が大恐慌と第二次世界大戦を明らかな大成功のうちに終わらせたことで、政府はどんな種類の問題でも解決できるのだ」という考えが人々の間に生じる原因となった。戦争が終わて25年が経つまでは、大衆は、現在の巨大国家に反対しようという気持ちになれなかった。(前掲書③P98)

リバータリアニズム入門

リバータリアニズムの復活

 リベラルおよびリバータリアンにとっての暗黒時代のさなか、少数ではあるが、巨大化する政府を非難するジャーナリスト、思想家が現れるようになる。ボウツは、オーストリア学派の経済学者ルードヴィヒ・フォン・ミーゼス(1881~1973)をその筆頭に挙げる。彼の計画経済批判はフリードリッヒ・ハイエク、ウイリヘルム・ロエプケといった経済学の若き学徒に影響を及ぼし、「経済計画」批判がアメリカ経済学会に勃興する契機となる。
 政治思想の領域では、H.L.メンケン(ジャーナリスト、文芸評論家)、アルバート・ジェイ・ノーク、ギャレット・ギャリート、ジョン.T.フリン、フェリックス・モーレーら〔註17〕がリバータリアンの立場から、アメリカ合衆国の将来に警鐘を鳴らした。

註17:
・ ヘンリー・ ルイス・ メンケン(1880~1956)。ジャーナリスト、エッセイスト、風刺作家、社会・文化評論家、アメリカ英語学者、ニーチェ崇拝者。組織化された宗教、有神論、検閲、ポピュリズム、代議制民主主義に反対。大恐慌の間、ニューディール政策を支持しなかった。第一次世界大戦と第二次大戦へのアメリカの参戦に反対した。

・アルバート・ジェイ・ノック(1870~ 1945)は、20世紀初頭から中期にかけてのアメリカのリバータリアン作家、ネイション誌、フリーマン誌の編集者、教育理論家、ジョージスト、社会評論家。ニューディール政策に公然と反対し、現代のリバタリアン運動と保守運動を領導した。「リバータリアン」を自認した最初のアメリカ人の1人。著書に『余剰人の回想録』『我らの敵、国家』など。

・ギャレット・ギャリート(1878~1954)は、アメリカのジャーナリスト兼作家で、ニューディール政策と第二次世界大戦へのアメリカの関与に反対した。彼はオールド・ライト、リバータリアン、古典的自由主義者と見なされている。

・ジョン.トーマス.フリン(1882~1964)は、ルーズベルト大統領とアメリカの第二次世界大戦参戦に反対したアメリカ人ジャーナリスト。 ルーズベルト大統領に対する激しい反対から、後に真珠湾攻撃の事前情報陰謀説を唱えるようになった。

・フェリックス・マスケット・モーリー(1894~1982)は、アメリカのジャーナリスト。ワシントン・ポスト在職中、ルーズベルトの介入主義外交政策と、ヒトラーとの戦いを批判する社説を掲載し解雇される。その後、ハバフォード大学の学長に就任。1944年にヒューマン・イベント誌の創刊編集者の1人となり、連邦政府の行き過ぎと外国介入主義に反対した。回想録『フォー・ザ・レコード』、『人民の力』、『自由と連邦主義』などがある。

現代のリバータリアニズムの誕生

第二次世界大戦とホロコースト真っ只中の1943年という暗黒の時代に、アメリカ合衆国史上最も強力な政府が、別の全体主義国家をうち負かすために、とある全体主義国家(ソビエト)と同盟を結んだ時、三人の注目すべき女性たちが、のちに、現代リバータリアン運動の誕生、と呼ばれるようになった書物を出版した。(前掲書③P102)

リバータリアニズム入門

 3人の女性とは、ローラ・インガルス・ワイルダー(1867~1957)、イザベラ・パターソン(1886~1961)、アイン・ランド(1905~1982)である。ワイルダーの『大草原の小さな家』(1935年刊)は、アメリカの開拓時代を描いた児童小説で、1970年代後半から1980年代前半にかけてテレビドラマ化された。彼女はほかに、粗野なアメリカ人の個人主義の物語を書いたり、『自由の発見』と題する情熱溢れる歴史エッセイ集を出版したりした。
 パターソンは小説家で、1943年、世界を発展させる原動力としての個人主義を擁護する『機械の神』〔註18〕を創作した。
 アイン・ランドは共産主義ロシアからアメリカに逃れたロシア系アメリカ人で、1953年に『泉』〔註19〕を出版した。ボウツによると、『泉』は個人主義をテーマにした小説で、書評家たちから猛烈に非難されたが、この小説の真意が読者に伝わるにつれミリオンセラーになったと書いている。なおボウツは「彼女(ランド)の政治上の哲学はリバータリアンだが、すべてのリバータリアンが彼女の形而上学、倫理観、宗教観を共有したわけではなかった(前掲書③P103)」と注釈をつけている。

註18:『機械の神』は、歴史に関する独自の理論を提示し、道徳的および政治的進歩の源泉としての個人主義を大胆に擁護している。1943 年に出版されたとき、イザベル・パターソンの著作は、個人の権利、限定された政府、経済的自由という、危機に瀕したアメリカの信念に新たな知的支援を提供した。今日の集団化された国家の危機は、パターソンにとって驚くべきことではなかっただろう。彼女は『機械の神』で、集団主義の失敗の理由を探っていた。彼女の著書は、現在世界を席巻している自由企業運動の先駆者に彼女を位置づけた。パターソンは、個人の創造的精神を歴史の原動力と見なし、神から与えられた個人の権利の尊重を、近代世界を生み出した膨大なエネルギーの放出の前提条件と見なしている。彼女は、資本主義制度を人間のエネルギーが機能する機械と見なし、政府は個人の自由を脅かす活動の力を遮断するためだけに適切に使用される装置と見なしている。パターソンは、教育、社会福祉、経済的苦境の原因など、現代生活における特定の問題に彼女の一般理論を適用している。彼女は、ほとんどの人々が長い間当然のこととみなしてきた政府の介入を含め、政府の最小限の適用を除くすべての適用を厳しく批判している。『機械の神』は、自由の性質、権力の使用、そして人類のよりよい発展の見通しに関する、世界中で続いている議論に対して、挑戦的な視点を提供している。スティーブン・コックスの『機械の神』の充実した序文は、パターソンの多彩な人生と仕事を包括的かつ啓発的に説明している。彼は『機械の神』を「理論だけでなく、狂詩曲、風刺、非難、詩的な物語」と表現している。パターソンの作品が今でも関連性があるのは、「集団主義の道徳的および実践的な失敗を暴露しているからだ。その失敗は、今ではほぼ普遍的に認められているが、まだ普遍的に理解されているにはほど遠いものだ」。この本は、アメリカの歴史、政治理論、文学を学ぶ学生にとって必読である。(GOOD READS/Website より)

註19:『泉』は『水源』とも訳されている。
(この小説の)主人公ハワード・ロークは、若い個人主義的な建築家である。彼は自分の芸術的・個人的なビジョンを犠牲にして世間に認められるよりも、無名のまま苦闘し続けることを選ぶ。本作品は、権威層が伝統崇拝に凝り固まる中、自身が最高と信じる建築(世間は「現代建築」と呼ぶ建築)を追求する主人公の闘いをめぐる物語である。主人公ロークに対する他の登場人物たちの関わり方を通じて、ランドが考える様々な人格類型が描き出される。
この作品で描かれる人格類型はすべて、ランドにとっての理想の人間像である自立・完全の人物ロークから、ランドが「セコハン人間」(second-handers)と呼ぶ人間像までの、様々な変化形である。ロークの前進を支援する人物、妨害する人物、あるいはその両方を行う人物など、様々なタイプの人物たちとロークの複雑な関係を描くことで、この小説は恋愛ドラマであると同時に思想書でもある作品になっている。ランドにとってロークは理想の人物の具現化であり、ロークの苦闘は、個人主義は集産主義に勝利するというランドの個人的信念を反映している。(Wikipediaより) 

マッカーシーズム(赤狩り)
 ボウツはふれていないが、1950年代のアメリカ社会に吹き荒れた、反共産主義キャンペーンを見逃すわけにはいかない。
 戦後、アメリカを盟主とする自由主義国家群とソ連を盟主とする社会主義国家群の対立が深刻化する。冷戦である。アメリカは共産主義勢力の台頭を防止するため、自国内の社会主義者・共産主義者を排除するキャンペーンを開始する。共和党上院議員のジョセフ・レイモンド・“ジョー”・マッカーシー(1908~1957)による通称「赤狩り」だ。彼とそのスタッフは、政府内および文化・娯楽産業における共産党員および共産党員と疑われた者への攻撃的非難行動を行った。この一連の思想弾圧を「マッカーシズム」と呼ぶ。

資本主義と自由
 文学におけるリバータリアニズムの復興からやや遅れた1962年、経済学者ミルトン・フリードマンが『資本主義と自由』を出版した。同書はリバータリアン、ネオリベラルのバイブルのような存在となった。フリードマンはその中で、「政治的自由は、私有財産と経済的自由がなければ存在しえない」と論じた。ボウツは「・・・(フリードマンの)著作『選択の自由』をとおして、彼は過去の世代のなかで最も卓越したアメリカ人リバータリアンになった(前掲書③P104」と書いている。
 ボウツは次いで、マレー・ロスバード(1926~1995/アメリカ合衆国の経済学者、歴史学者、政治哲学者)を挙げ、彼を「現代のリバータリアン思想の理論構造を建設し、この理念を政治運動に活用するという両方の面で重要な役割を果たした」「リバータリアンたちは、ロスバードを政治経済理論を統合したマルクスになぞらえたり、不撓不屈の急進的運動を組織したレーニンになぞらえたりした」と讃えている。
 続いて、ロバート・ノーズィック(1938~2002/ハーバード大学哲学者)である。1974年、彼は『アナーキー、国家、ユートピア』を出版した。ボウツは彼の結論部分を以下のとおり紹介している。

必要最小限の国家、即ち、暴力、窃盗ならびに詐欺、契約の強制、などに対し人々を擁護する機能をできるだけ狭く限定された国家こそが、正当化される。必要以上に大きな国家は、決まった事項のみを行うよう規制されないがために、個人の権利を侵害することになり、故に不正である。必要最小限の国家は、権利と同様、我々を鼓舞する。(前掲書③P105)

リバータリアニズム入門

 そしてボウツは、《ノーズィックの著作は、ロスバードの『新しい自由のために』やランドの政治哲学に関するエッセイと並んで、現代リバータリアニズムの「最も重要な核心」と定義されている(前掲書③P105 )》と結んでいる。

リベラルとリバータリアン

 ここまでのボウツの記述を読むかぎり、〈18世紀のリベラリズム(自由主義)〉を原意として、〈現代のアメリカのリバータリアニズム〉と〈ネオリベラリズム〉に違いがないように思える。だから、ネオリベラルといえばいいと思うのだが、ボウツは、敢えてリバータリアンと自称し、リベラルと一線を画す。そこでまず、前出/§6(2)で紹介した、ウォーラーステインによるリベラリズムの定義を思い出せば納得できる。

リベラリズムは決して左翼の原則ではなかった。それはいつでも典型的な中道主義の原則であった。その主張者は自分たちの穏健さと賢明さと博愛とを確信していた。彼らは(保守主義的イデオロギーによって代表されると考えた)不公正な特権をもった旧態依然とした過去に対しても、(社会主義的あるいは急進主義的イデオロギーによって代表されると考えた)美徳または長所のいずれをも考慮しない無謀な平等にも、同時に対抗したのであった。リベラリズムはいつでも、政治舞台の他の勢力は二つの極端からなり、自分たちはその間にいると定義づけるよう努めてきた」 

アフター・リベラリズム

 ウオーラ―ステインのリベラリズムに対する見解は晦渋だが、ボウツは次のように断言する。

政治的社会は、我々を約束した平和と豊かさという新しい時代に導くことに失敗した。強制的な政府の失敗は、強制の度合いと、その約束の壮大さの度合いに比例して悲惨なものであった。ファシスト政府と共産主義者の政府は、市民社会を排除し、より大きな大義(コーズ)のなかに人々を包含することを目指したが、今では絶望的な失敗だとされている。人々に共同体と繁栄を約束したが、結局、貧困と不景気と憎しみをそして分裂(アトミズム)をもたらしたのである。〔中略〕
ファシズムと社会主義が政治の舞台からほとんど消えてしまたっため、21世紀における闘争は、リバータリアニズム対社会民主主義(ソシアル・デモクラット)になるだろう。社会民主主義は、いわば社会主義を薄めたものである。その主張は、市民社会の必要性や市場プロセスを認めるはずが、個人が行おうとする決定に対しては、常に、制限、管理、妨害を行うことを正当化する理由をあれこれ必ず持ち合わせている。社会民主主義は、合衆国では、しばしばリベラリズムと呼ばれるが、私はかつての個人主義を意味した、このリベラリズムという偉大なことばをけがしたくない。(前掲書③P361、太字は筆者によるもの)

リバータリアニズム入門

 ボウツによると、リベラリズムという言葉は、本来(原意)は18世紀の自由主義に基づく言葉であり、ネオリベラリズムもそうであるのだが、合衆国(だけに限らないと思うが)ではネオリベラリズムというと、〝新しいリベラリズム”すなわち〝新しい社民主義”と解される危険性がある、だから敢えて原意を避けてリバータリアニズムを用いたということになる。
 整理すると以下のとおりであろう。リベラリズムとは、18世紀に絶対王政に抗って名誉革命、アメリカ独立革命を起こした思想であり、それを支持する者をリベラルという。ところが、後年、リベラリズムは、社会民主主義に変質した。よってリベラルも社民主義者に変質した。第二次大戦後、社民主義が行き詰まり、ネオリベラリズムが台頭する。しかし、ネオリベラル(新自由主義者)と称すると、新しい社民主義者と誤解される。そこで、ボウツらはリベラリズムという偉大なことばを汚したくないと考え、新自由主義をリバータリアニズムと改称し、自らをリバータリアンと名乗ることにした。
 なお、日本語では「リベラリスト」という表現が一般化しているが、英語にはない。リベラリズムを信奉する者のことをリベラルという。なお、訳者副島隆彦の巻末「訳者あとがき」に次のような解説があり、参考になる。

リバータリアンたちは〔中略〕、必ずしもリバータリアンと自称したかったわけではない。ところが本来の本物のリベラリズム(自由主義)はもともと自分たちの旗であるのに、それを現代リベラル派に、僭称され乗っ取られて居座られてしまったので、仕方なくリバータリアンを名乗ったのである。リベラル Liberal とは少し違う、リバーティーン Libertine という言葉を仕方なく借用してこの30年間の間にリバータリアニズムを作った。このリバーティーンというのは、「惣領の甚六」というか、fopish spendthrift individual の意味で、遊び呆けている貴族のバカ息子、という意味である。こんな意に反する語を語源に持つ言葉を自分たちにあてはめるしかなかった一抹のもの悲しさが現在のアメリカの一大思想勢力に今なおつきまとう。(前掲書③訳者あとがき/P 396~397)

リバータリアニズム入門〉 

第3章 〈現代の保守主義 トランプ主義〉

 2019年2月28日、トランプの元顧問弁護士で連邦議会への偽証、選挙資金違反、脱税などの罪で禁固3年の有罪判決を受けたマイケル・コーエン元弁護士は、連邦議会でトランプ大統領による犯罪行為について次のような証言をした。

I am ashamed because I know what Mr. Trump is. He is a racist. He is a conman. He is a cheat.(トランプ氏は人種差別主義者で詐欺師でペテン師だ。)

 21世紀における〈現代の保守主義〉はアメリカの前大統領かつ次期大統領(2024/12/31現在)であるドナルド・トランプによって完成する。それはアメリカの伝統的保守主義と新自由主義の混交思想である。
 『ショック・ドクトリン』の著者ナオミ・クラインは、『NOでは足りない――トランプ・ショックに対処する方法(2017刊/以下「前掲書④」)』を著わし、トランプについて論じた。
 2016年大統領選挙において、トランプは大方の予想を裏切って共和党の大統領候補に勝ち上がり、さらに本選で民主党候補のヒラリー・クリントンを退けた。その理由は多くの研究機関等で分析されているが、当選当時、日本ではあまり知られていない大統領選挙制度について、ナオミ・クラインは次のように書いている。  

アメリカの有権者の大半はトランプに投票していない。ヒラリー・クリントンの得票数がトランプより290万票近く上回っており、〔中略〕トランプが勝てたのは、元はと言えば奴隷所有者の権利を守るために作られた選挙人制度のおかげだ。(前掲書④P19) 

NOでは足りない

 トランプの元側近がトランプは人種差別主義者だといい、ナオミ・クラインがアメリカの選挙人制度と奴隷制度の関係性を指摘しているところから、かの国の特異な建国の歴史(先住民虐殺と奴隷制度)から、トランプ主義を考えていくことの重要性が示唆される。北米の政治、経済、社会が普遍的なものではなく、きわめてアメリカ的なものだ、と換言できるだろう。

トランプ主義とは北米のあらゆる最悪の動向の寄せ集め

 ナオミ・クラインは、トランプが体現する「アメリカ的なもの」について、次のように書いている。

トランプは極端な人物ではあっても、異常というより、ひとつの論理的帰結――過去半世紀間に見られたあらゆる最悪の動向の寄せ集め――にすぎないということだ。トランプは、人間の生を人種、宗教、ジエンダー、セクシャリティ、外見、身体能力といったものを基準にして序列化する強力な思考システムの産物にほかならない。そしてこの思考システムは、北米の植民地化と大西洋奴隷貿易の最も初期の時代から、人種を武器として組織的に利用し、残忍な経済政策を推進してきた。(前掲書④P11~12)

NOでは足りない

 トランプが支持される素因は、アメリカ国民の保守と呼ばれる一団の深層的価値観とトランプの言動が共振したからにほかならない。それはヨーロッパから渡ってきた植民者が行ってきた先住民虐殺と排除の構造であり、労働力としてアフリカから奴隷として拉致してきたアフリカ系の人々への虐待と差別の正当化の論理である。人種の序列化はWASP(White, Angro-Saxon, Protestant)を最上位とし、その下位にイタリア系、アイルランド系、東欧系…アジア系、アラブ系、アフリカ系を階層化するというシステムである。
 人種によるもの以外に、健常者:身障者、男性:女性、性的多数者:LGBTQ等を下位に位置づける序列システムも存在する。
 米国は〝自由の国”であり、努力して競争に勝てばほしいものは何でも手に入る、と日本人はこれまで信じて疑わなかったが、近年、そのことは――上層の者およびそうでない層のごく少数の成功者という――ごく一部に当てはまる例外的事項となっている。そしてトランプが絶賛するアメリカとは、1%の勝者と99%の敗者の格差がとてつもなく広がる国家である。
 トランプ主義が打ち出している政治、経済施策とは、「北米の植民地化と大西洋奴隷貿易の最も初期の時代」に培われた残忍な経済システムと「過去半世紀間に見られたあらゆる最悪の動向の寄せ集め」という、二重に最悪なものの寄せ集めだ。ナオミ・クラインは、それを次のようにまとめている。

トランプの政治的・経済的もくろみの主要な柱は次のとおりである。規制国家の解体、福祉国家と社会福祉事業に対する徹底的な攻撃(人種主義的な敵意に満ちた恐怖の利用と、女性が権利を主張することへの非難によって部分的に正当化される)、国内に化石燃料ブームを起こすこと(気象科学を脇に追いやり、政府官僚の大部分の発言を封じることを必要とする)、そして移民と「イスラム過激派によるテロ」に対する文明的な戦い(その戦域は国内外で拡大しつづけている)。(前掲書④P6~7)

NOでは足りない

セドリック・ロビンソンの人種資本主義

 トランプの経済運営は新自由主義の徹底化である。それは世界的潮流であって、トランプが新たにつくりあげたものではない。だがナオミ・クラインは、トランプが特異なのは、アメリカの特殊な資本主義――アメリカ合衆国を誕生させた市場経済――政治学者で黒人学研究者セドリック・ロビンソン(1940~2016)が「人種資本主義」と命名したアメリカ(人)の深層を、大統領選出馬から当選後に至るまでに大衆的に顕在化しつつ、それに新自由主義を上積みしたところを特徴とする、と指摘する。「人種資本主義」についてはその発展段階において、先住民から奪い取った土地とアフリカから奪い取ってきた人々(奴隷という労働力)を土台とした。この二つはともに、人間の生と労働の相対的価値を序列化し、白人男性を最上位におく知的理論を必要とした。

人種やジェンダーに基づく偽りの階層を、苛酷な階級システムを強化するためにでっちあげるに至った経緯は、話せば長い話なのだ。そもそも(アメリカの)近代資本主義が誕生したのは、二つの非常に大きな要素に助けられたおかげだったのだ――ひとつは先住民から奪い取った土地、もうひとつはアフリカから奪ってきた人々である。
この二つはともに、人間の生と労働の相対的価値を序列化し、白人男性を最上位におく知的理論を必要とした。白人(でありキリスト教徒)の優位性を裏づける、教会と国家公認の理論があったからこそ、ヨーロッパの探検家たちは先住民の文明を積極的に「見ない」ことにできた。〔中略〕
・・・(ヨーロッパからやってきた白人が先住民から)略奪した土地で働かせるために他者である人間を集団で誘拐し、拘束し、拷問することを正当化する目的で用いられたのも、これと同じ人間を序列化するシステムだった。それゆえ政治理論学者の故セドリック・ロビンソンは、アメリカ合衆国を誕生させた市場経済を単なる資本主義ではなく、「人種資本主義」と表現している。アフリカから奴隷として連れてこられた人々が収穫した綿やサトウキビを原料とする工業生産が、アメリカ産業革命の端緒を開いたのだ。肌の色の濃い人々やその国を無視することで、彼らの土地や労働力を奪った事実を正当化する能力がすべての基礎にあり、そうした白人至上主義の理論――道徳的に破綻したシステムに合法的な体面を与えるもの――なしにはこれらのことはなにひとつできなかったのである。言い換えれば、アメリカのような植民地国家であれば間違いなく、経済を「アイデンティティ政治」と切り離すことはできなかったのだ。(前掲書④P116~117)

NOでは足りない

 トランプが突然にして、保守主義と新自由主義を総合化したわけではない。トランプ主義が形成されるプロセスを振り返ると、▽人種資本主義、▽福祉国家の失敗(リベラリズムの後退)、新自由主義、ネオコンの台頭(対テロ戦争、愛国主義、武断主義)――のそれぞれが互いに影響し合いつつ、トランプ主義という、最悪の寄せ集めが準備されるようになる。そして、最後に、リバータリアニズムから、反ワシントン(連邦政府)を受け継ぎ、民主党=大きな政府とみなして攻撃した。
 トランプの「反ワシントン」はまやかしで、連邦政府を構成するエリート政治家、エリート官僚、アカデミア等に反感をもつ下層大衆を煽動する口実としてリバータリアニズムをもちだしているにすぎない。トランプ政権では官僚主義的エリート中心の人事を否定する姿勢を、民間の経済人の登用で示そうとしている。
 2016年からスタートしたトランプ主義は、2020年からのバイデン政権による4年間の中断を挟みつつ、ふたたびMAGA(Make Americ Great Again)をスローガンにして、2025年からリスタートする。

〈現代の保守主義〉を乗り越える

トランプ主義と地球環境問題
 トランプは、地球環境問題に後ろ向きだ。彼の大統領任期中、先住民の聖地にあるダコタ・アクセス・パイプライン建設に関する環境調査を中止し、先住民の強固な反対を押し切って建設を再開した。2017年にはパリ協定からの離脱を宣言した。トランプが環境問題に後ろ向きである理由のひとつは、トランプを大統領に祭り上げた勢力がエクソンモービルに代表される化石燃料産業だからと説明できる。エクソンモービル社は、地球温暖化と二酸化酸素排出の因果関係は証明されていない、という知見を関連するシンクタンクに発表させた「実績」がある。第一次トランプ政権はオイルまみれの政権だった。
 それだけではない。ナオミ・クラインによると、それよりも重要な視点は、地球環境問題がトランプが受け継ぐ新自由主義にとって“致命的な問題”であるということだ。
 新自由主義について改めて確認しておこう。それは、公共部門を敵視し、市場メカニズムや個々の消費者の判断以外のものを悪と見なす経済施策であり、その世界観では、政府は民間企業が最大限の利益と富を得るのに最適な状況を作り出すために存在する。この考え方の基盤にあるのは、利益があがり経済が成長すれば、富裕層の富が流れ落ちて最終的にはすべての人に利益をもたらすという、トリクルダウン理論からくる。新自由主義のプロジェクトのおもな政策手段は、公営事業の民営化、企業領域における大幅な規制緩和、公共サービスの削減による減税などで、これらはすべて企業に有利な貿易協定によって確定される。
 ところが、地球温暖化からはじまる気候変動、地球環境問題については、新自由主義では解決できない。気候変動はトランプ主義(保守主義/新自由主義)が足場にするイデオロギーを粉々に打ち砕いてしまう。《気候危機が現実のものだと認めることは、新自由主義の終わりを認めることになる。(前掲書④P98)》と、ナオミ・クラインはいう。

筋金入りの(現代の)保守派(トランプ主義者)が気候変動を否定するのは、気候変動対策によって脅威にさらされる莫大な富を守ろうとするだけではない。彼らは、それよりももっと大切なもの――新自由主義というイデオロギー・プロジェクト――を守ろうとしているのだ。すなわち、市場は常に正しく、規制は常に間違いで、民間は善であり公共は悪、公共サービスを支える税金は最悪だとする考え方である。(前掲書④P96)

NOでは足りない

 新自由主義は市場原理主義とも言われる。市場がすべてを善に向けて解決するのだから、市場に公共(政府等)が関与すべきでないと。ところが、地球環境破壊は市場では解決不可能だ。かつて公害問題が発生した時代に「外部不経済」と呼ばれたものに近いものが、地球規模にまで拡大している。先進国では、公害が市場原理によって解決されたと経験的に語られるかもしれないが、公害は発展途上国や国内の過疎地・僻地に「外部化」されて未解決なままだ。地球温暖化を外部化することが不可能である以上、このまま市場にまかせていれば、地球温暖化は避けられない。すなわち環境問題は新自由主義(市場原理主義)のアキレス腱だ。地球環境問題を重視することは、「トランプ的なもの」を打倒する重要なカギとなる。

〈現代の保守主義〉とは新自由主義と保守主義の混合思想

 フランス革命直後の世界では、保守と自由は相反するイデオロギーだった。ところが革命の3つ目のスローガンである平等を実現する過渡期に生まれた社会主義、社民主義(福祉国家)の挫折により、保守と自由が混合したキメラが支配イデオロギーとして世界をさまようようになった。トランプ主義により、アメリカのみならず世界規模でいま、保守・自由・平等が併存する時代が終わろうとしている。
 新自由主義と保守主義は平等の否定を共有する。前者は自由競争の結果を第一義とする。成功者が富を得るのが当然であり、敗者は社会の下層に落とし込まれ、成功者が蔑む低賃金のエッセンシャル労働に従事せよという。前出のエドモンド・バーグの職業侮蔑を再掲しておこう。

調髪師や獣脂ロウソク職人といった仕事は、誰がやろうと名誉なものではない。・・・もっと隷属的な仕事については言わずもがな。そういった仕事に就いているからといっていって、国家から迫害を受けるいわれはない。だがこんな連中に(個人としてであれ集団としてであれ)政治を任せたら最後、国家はたいへんなことになる。平等主義に徹することで、フランス人は世間の偏見をくつがえしているつもいかもしれないが、じつは非常識に振る舞っているだけと言わねばならない。

フランス革命の省察

 新自由主義も保守主義も、身分による差別を構造化した社会を肯定する。勝者と敗者、富者と貧者、強者と弱者、若者と老人、女性と男性、身障者と健常者…などなど。そればかりではない。民族・国家を第一義とし、人種差別、宗教差別を容認し、愛国がさけばれる。日本では、在日朝鮮人・韓国人、アジア人、クルド人…といった国籍、ルーツ、民族の違う人々を差別、排除、排斥する傾向を強めている。これらは保守主義の傾向でありながら、外国人を安価な労働力とみなそうとする新自由主義と共犯関係にある。この傾向は日本のみならず、欧米においても同様だ。
 自由競争というのは幻想だ。人それぞれのスタートラインは同一ではない。家庭の財力で高い教育を受けられる者とそうでない者は、前者のスタートラインが後者よりも前に引かれていることは明らかだ。新自由主義に支配された国家は、貧者が富者と同等の教育を受けられるようなシステムを拒否する。
 新自由主義者も自由、平等、基本的人権を法的に容認する。しかし、法的に容認されているということと、それが現実に実行されているかはまったくもって別問題だ。なぜならば、いまの資本主義社会はすでに構築されたシステムで稼働しているのであって、それは経済的、地域的等による上位・下位関係として固定化されている。それを加速するのが情報による格差の発生である。

第4章 現代の保守主義とソーシャルメディア

 2016年のアメリカ大統領選において、トランプは旧ツイッターを駆使して大衆の支持を得た。短文と刺激的な動画が有権者に衝撃を与えた。それまで日陰の存在だった陰謀論に光があたり、恥ずかしくて唱えられなかった陰謀論をだれもが自由に発信できる世界となった。

反知性主義とネット社会

 新自由主義と保守主義に共通するのは、トランプ主義に代表される反知性主義を増長する傾向である。犯罪を例に取ろう。近年、動機不明な通り魔的凶悪犯罪の発生が報道されることが多いように感じる。中国における日本人学校生徒刺殺事件、日本の北九州では中学生男女生徒が襲われ、男子生徒が重傷を負い女子生徒が命を落とした。ドイツではクリスマス・マーケットの人ごみの中に車が突っ込んだ。アメリカでは銃乱射事件が日常茶飯事のごとく発生している。トランプ自身、選挙運動中に狙撃されたが、その狙撃犯の動機は、管見の限りだが、はっきりとわかっていない。
 犯罪の発生を解明するのは難しい。社会学的、心理学的、経済的、家庭環境等からのアプローチ等があるようだが、犯罪発生メカニズムの明確な解明はなされない。そんな中、たとえば、〇〇人・移民が、DS(ディープ・ステイト)による洗脳工作が…という差別的、陰謀論的ナラティブを与えられると、解明がなされたような気がしてしまう。インターネットの動画サイトにはそんな解説をする陰謀論者がたくさんいる。そうしたナラティブの基盤となるのが人種、国籍、民族、宗教、歴史修正、習慣といったものを媒介とした、人間を序列化するシステムだ。
 大衆は即効的な答えを求めている。彼ら・彼女らが求めているナラティブを語りつつ、裏づけなしにネットで大量に情報拡散する仕組みを操れば、選挙で集票が可能になる社会に世界中がなろうとしている。
 人文科学や自然科学からのアプローチは敬遠される。残念なことに、大衆にとって、リベラリズムは時代おくれの「良識」であり、勉強・研究・めんどうな手続き等を必要とする過去の手法とされる。リベラリズムは、指先でお茶でも飲みながら「答え」がみつかるネットの動画サイトや短文の「X」のほうが大好きなネット民からはますます、敬遠される時代になっている。

ソーシアルメディアと自由

ソーシャルメディアは自由な貧者のインテリジェンス
 ソーシャルメディアは――社会全体の流れてとして――フェイク情報・陰謀論の発信源という反社会的装置としてとらえられている。果たしてそうなのだろうか。筆者は、ソーシアルメディアを――個人が自由に世界中に発信でき、それに対する反応を即座に世界中のだれからも受け取れ、権威者すなわち高名なジャーナリスト、学者、思想家、研究者、政治家…(発信者)と大衆(発信者)を隔てる壁がない――双方が平等の関係にあるメディアだと理解している。
 大衆は権威におもねる必要はなく、めんどうな手続きはいらない。匿名という自由があり、ほぼ無料だ。
 ソーシャルメディアは、自由な大衆のためのメディアとして設計されている。大衆自らが指先を動かすだけという、なんの労苦も要さない操作で、大衆一人一人が能動的に情報を得る装置である。だから、自らが「発見」したという喜びがある。そのことがソーシャルメディアの魅力の一つとなっている。
 ソーシャルメディアは、貧者のインテリジェンス(諜報活動)のための武器である一方、旧メディア(新聞・雑誌・ラジオ・テレビ大衆)は、「与えらえる」、すなわち、受動的情報媒介装置だ。テレビ局はスポンサー収入を原資として、本国の主要な都市に巨大な本局をおき、国内外に支局・特派員を配し、多くのスタッフおよび下請け会社に番組を制作・編成させ、それを一方的に大衆に送りつける。日本には公共放送協会とよばれるメディア事業者が勝手に大衆から金銭を徴収しておいて、国の意向や見たくもない娯楽番組を送り付ける。民放はスポンサー企業の意を汲んだ情報を流す。
 日本の旧メディアは、ソーシアルメディアのことを「エスエヌエス」(SNS/Social Networking Service)と呼び、メディア扱いしない。ソーシャルメディアの潜在力に慄き、普及・成長を阻止しようとしている。自分たち(旧メディア)以外はメディアではないのだ、ソーシャルメディアはサービス会社にすぎない、といわんばかりだ。旧メディアを使って情報を流そうとすると、とんでもない高額な広告料を取られる。ソーシャルメディアならば、ほぼ無料で情報発信が可能だ。世界中の一人一人が特派員であり、ジャーナリストである。
 旧メディアの凋落は避けられない。TVにおいては視聴率低下・広告料収入が減額している。新聞・雑誌も発行部数・広告料収入は低下の一途をたどっている。危機的状況を迎えた旧メディアは、企業のスポンサードに見切りをつけ、国・地方自治体の広報を受注するようになった。一例を挙げれば、大衆から不評を買っているマイナ保険証やコロナワクチン等の普及を啓発する政策広報(広告)である。旧メディアは国家と大企業の一部であり、大衆のものではない。旧メディアは強力な権力装置である。

旧メディアと権力のあからさまな癒着
 安倍政権時代、旧メディアと権力との癒着が明るみに出た。旧メディアの不偏不党は建前のまやかしで、既存勢力の補完物だということが当たり前のように認識されるようになった。旧メディアによる情報独占やそれに基づく権威性こそ、フェイクであることが周知され、化けの皮がはがれた。中立性という大義をふりかざした自己規制、忖度に加え、旧メディア従事者の不祥事も少ないとはいえない。たとえば、旧メディア幹部が権力者と有名店で飲食を共にすることが当たり前になった以上、両者の親密性は疑う余地がない。にもかかわらず、旧メディア側は、ソーシャルメディアをフェイクと決めつけている。

ソーシャルメディアの変化
 ソーシアルメディアの特性である「自由」は、歴史修正、差別、根拠のないデマ情報の掃きだめという悲惨な状況を招いてしまった。そればかりではない、インフルエンサーと呼ばれる権威者が現れるようになり、彼らの発信が強い影響力を及ぼすに至っている。つまり、旧メディアが囲ってきた前出の権威者とは異なる新たな権威者が生れた。
 そればかりではない。政治家が、ソーシアルメディアが選挙運動に、すなわち集票装置として、きわめて有効であることに気づき、活用するようになった。選挙運動におけるソーシアルメディアが果たす役割は、自主規制がかかっている旧メディアの及ぶところでない。候補者が直接有権者に訴求する場合もあれば、インフルエンサーがその役を担うこともできる。TVの政見放送や新聞に折り込まれた選挙情報は見ないけれど、気になる候補者の動画サイトを見る有権者が若年層を中心に爆増している。 
 旧メディアの自滅・没落と大衆の反知性主義がシナジー効果を発揮し、ソーシアルメディアのほうが旧メディアよりも集票に効果的であることが明らかになった。前者は後者よりも、機能性、機動力、操作の容易さ、非拘束性、経済性、双方向性という面ですぐれていると。
 しかしながら、ソーシャルメディアはスマートフォンを媒介としなければ機能しない。日本の選挙、とりわけ国政選挙では、投票する確率が高い高齢者がソーシャルメディアを利用しなかったため、立候補者はそれに関心を示さなかった。その流れが変わったのが、2024年の東京都知事選だった。これまでの選挙運動すなわち集票活動は、知名度アップ(選挙カーによる連呼、候補者の練り歩き、街頭演説)および組織固め(後援会、組合、業界、町内会等)、電話、ハガキ、チラシ投函といった、アナログ的手法が中心だったが、それらばかりに依存していると、取り残される可能性が高い。

ソーシャルメディアは諸刃の剣
 独裁者とインフルエンサーがソーシャルメディアを使って大衆の心をつかめば、これまでよりもかんたんに専制主義的政治体制を構築できる。日本はアメリカ等のような大統領制ではなく議院内閣制だから、独裁を簡単に許すことはないと、制度に依拠して安心することはできない。総選挙のとき、日本のすべての小選挙区において、独裁的リーダーに率いられた単一の政党が候補者を立て、ソーシャルメディアを使って選挙運動を展開すれば、独裁政権樹立の可能性もある。

ディープフェイクや偽情報をいかにして規制するか
 ソーシャルメディアの自由が、ディープフェイクと呼ばれる偽情報を拡散している。偽画像・偽映像の作成は、生成AIによって以前よりも精緻になり、しかもだれでもが作成できる段階に至っている。素人がその真贋を見分けることはほぼ困難になった。こうしたソーシャルメディアの不正使用の危険性に対し警鐘を鳴らし、その規制強化に取り組む動きがアメリカではバイデン政権下で進行していた。ところが、2024年大統領選のさなか、トランプは既成の見直しを宣言して、大統領選に臨んだ。巨大プラットフォームであるメタ、X(旧ツイッター)もトランプに同調する動きを見せた。前出(第2章 リベラルの衰退 社会主義の台頭)でふれたように、「テック右派」もトランプの規制撤廃の動きに同調している。「テック右派」の代表格のイーロン・マスクがトランプ新政権の要職に着任すれば、ソーシャルメディアの暴走は止められない。 
 ソーシャルメディアには貧者のインテリジェンスである面と同時に、権力のそれでもある。権力が、ディープフェイク規制の名を借りて、権力批判を規制する言論弾圧する可能性も大いにありえる。「インターネットは便所の落書き(故立花 隆)」が大衆のための自由なメディアに危機を及ぼしている。もちろん、旧メディア側も権力の尻馬に乗り、ソーシャルメディア攻撃を強めている。国家権力によるメディア規制が立法化されれば、またひとつ、大事な自由が奪われてしまう。

おわりに

 保守主義とは何かについてはすでに、エドモンド・バークによって、すべてが語り尽くされている。日本では、故安倍晋三政権が2006~2019まで続き、その間ほぼ専制主義的政治体制が続いた。安倍退陣の後の菅・岸田政権が終わる2024年までを含めると、日本はおよそ18年間の長きにわたり、そのような政治体制が続いていたことになる。
 その故安倍晋三について〝真の保守主義者ではない″〝安倍晋三は日本(という共同体)の伝統、慣習・秩序・美徳の破壊者だ″と規定する言論人がいる。そのように評する者は、自分のことを〝真の保守主義者だ”といって胸を張る。そうだろうか。安倍晋三を支持した極右団体は、一例を挙げれば、選択的夫婦別姓を日本の家制度を破壊するものだといって反対する勢力である。故安倍晋三は彼らの支持に立脚した政治家だった。彼はまちがいなく、保守主義者だった。夫婦同姓は日本(共同体)のいつの時代の制度なのだろうか。明治期以前の家族が姓を共有していた事実はない。そもそも姓がなかったのだから。夫婦(家族)同姓はたかだか、日本帝国(1868~)成立以降の制度にすぎない。安倍晋三は、新自由主義的な政策――公共と福祉を切り捨て、大企業優先の経済政策――をとっていた。彼はミニトランプに譬えられる〈現代の保守主義者〉だった。
 保守主義とは繰り返すが、フランス革命以前(近代以前)の社会を是とするイデオロギーを発祥とする。エドモンド・バークは、フランス革命前のフランスの社会をあるべき社会だと肯定した。これが保守主義の原点だ。ゆえに、日本の〝真の保守主義者”もそのように明言すべきだと筆者は考える。〝真の保守主義者”とはバークのような世界観を有する者のことなのだから、それを自任する日本の〝真の保守主義者”もバークにならって、日本と呼ばれる共同体のどの時代のどのような社会システムに復帰すべきかを明らかにする必要がある。明治維新前の封建制社会なのか、それとも、それ以降のアジア太平洋戦争敗戦までの日本帝国になのか。古代社会(具体的社会像はわかっていないと思うのだが)になのか、あるいは民主主義がなかった時代を総合化した社会システムへの復帰なのか…そこのところを明確にしない〝真の保守主義者”は、保守という観念の信仰者に過ぎない。保守主義者とは、進歩を認めない者のことである。
 〝真の保守”をもって現行の政治、社会を批判するという方法は危うい。保守を支持すれば、新自由主義と保守主義が合体した〈現代の保守主義〉に包摂され、それを側面から援護してしまう。ナオミ・クラインにより、〈現代の保守主義〉と定義されたトランプ主義は、彼のアメリカ大統領返り咲きにより、米国のみならず世界中に強い影響をおよぼすだろう。

 リベラリズムが無力化したいま、ナオミ・クラインの以下の言説《現代の保守派は、市場がすべてを解決すると確信している以上、地球環境問題を解決できない》を思い出してほしい。地球環境問題の解決に向けた取り組みが、〈現代の保守主義〉に対抗する思想的機軸となる可能性を示唆してはいないだろうか。トランプ主義という〈現代の保守主義〉は、世界というよりも、地球を破滅させる危機をはらんでいるのだから。〔完〕


〔参照文献〕
〔新訳〕フランス革命の省察 「保守主義の父」かく語りき
エドマンド・バーク〔著〕PHP文庫

アフター・リベラリズム 近代世界システムを支えたイデオロギーの終焉
イマニュエル・ウォーラステイン〔著〕藤原書店

ポストモダンの共産主義-はじめは悲劇として、二度目は笑劇として
スラヴォイ・ジジェク〔著〕ちくま新書

リバータリアニズム入門 〈現代アメリカの民衆の保守思想〉
ディビッド・ボウツ〔著〕洋泉社

Noでは足りない トランプ・ショックに対処する方法
ナオミ・クライン〔著〕岩波書店 

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