先日「死ぬ運命の人間は、どのようにして死の恐怖を緩和させているのか」について触れられている論文を見つけました。それを説明している理論は「存在脅威管理理論」というものです。存在脅威管理理論とは、自尊感情と文化的世界観、そして他者との関係性が存在論的恐怖(自分の死が避けられないという認識から生まれる恐怖)を和らげる機能を持つ、という想定に立つ理論です。研究は「人はなぜ自尊心を欲するのか」という問いに端を発しているそうです。そして、その答えとして「自尊心の向上が死の恐怖(存在脅威)を和らげるから」としています。
この理論は、自分の抱えているモヤモヤの大部分(どうやって人間は死の恐怖を誤魔化しているのか)を説明してくれている上に、逆説的に何故自分が死の恐怖から逃れられないのか(要するに誤魔化しが効かないからなのですが)説明することになっていて、「素朴に考えてもそんなことだと思うよね」といった内容であり、読み途中でもあるのですが、個人的には興味深く面白いものでした。
これはある意味で、「”死の恐怖からくる不安(障害)のようなもの”に対する”回避行動”」を説明しているとも思いました。
私は物心ついた頃から、死にたくないという思いと、死に対する恐怖が人一倍強いと実感しながら生きてきました。毎晩のように、「確実に死に近づいている」と考えて恐怖に苛まれています。多くの人も、私と同じように口に出さずとも、大なり小なり己が死ぬ運命であることを、当然知っているでしょうし、そのことで苦しんでいると思います。しかし、その現れ方に差があるのはなぜなのか、とても気になっています。それについて、尤もらしい説明を与えているのが、この「存在脅威管理理論」です。
⑴私には、心の中に「内化・指示できる文化的世界観(社会や人生に秩序や意味を与えるもの≒宗教のようなもの)」が存在しません。宗教は作り話であり、人間認知から独立した真の意味での客観的には、この世界にも人生にも意味はありません。
⑵また、この理論では自尊心を「内化された文化的世界観の価値基準」を満たすことによって得られる主観的感覚と定義しています。内化された文化的世界観を持たない私が、それを獲得することは困難なように思われます。ただ、「私らしく振る舞えたとき」「自分の中の倫理観や正義に従って行動できたとき」「己の信念に従って行動できたとき」には、自己肯定感とともに自尊心のようなものが満たされる感覚がある気がします。私はいつだって自分基準で生きたいのです。従って、自分が死の恐怖に苛まれているときは、自分らしく生きられていないときなのかもしれません。
⑶そして、私には「他者との関係性」が欠如しています。これは説明するまでもありません。
論文中に「実際に,人に死について考えさせると(死について考えさせる処理 を mortality salience 処理という。以下 MS 処理と表記す る),人間の動物的側面への嫌悪や動物と人間の区別に対する欲求が強まることが報告されている。」とありますが、まさに私です。そして、これが転じると既存の宗教や反出生主義的思想、トランスヒューマニズムなどにたどり着くように思います。中には科学や哲学の中に、動物からの離脱を見る人もいるかもしれません。少なくとも私は、他の動物と同じように究極的な意味も目的もないのに、自己複製・増殖をして、死と死の恐怖を再生産したくありません。
余談になりますが、(得意なことや興味があることに取り組み)頭が明瞭に回っているときは自尊心や自己肯定感が上がり、(苦手なことや興味がないことに取り組み)頭が全く回らないときは自尊心や自己肯定感が下がるという傾向があります。
ここでは存在脅威管理理論の気になる部分(心当たりがある部分)を引用させてください。特に、自分に当てはまる部分・木になる部分、当てはまらないが想定通りの部分などは太字にしています。PDFから引いてきたので誤字脱字があるかもしれませんが、お許しください。以下引用です。
存在脅威管理理論:その仮定と基本仮説
存在論的脅威への対処資源~文化的不安緩衝装置
存在脅威管理理論の基本仮説