INTERVIEW: 柳井信乃
ロンドンをベースにパフォーマンスや映像作品を発表する柳井信乃。彼女はもともと音楽、日本画、映像や写真について専門的に学んでおり、現在は社会学的なリサーチを元に、様々な素材を複合的に組み合わせたインスタレーション作品を発表している。今回東京ビエンナーレでは、「ナショナリズム」「身体行動と社会」「訓練」をキーワードにしたパフォーマンス作品を予定している。「今を生きるアーティストとして、世界で起きている様々なことに反応していきたい」と柳井。コロナ禍のロンドンに住む柳井に、現在の状況を伺った。
インタビュー&執筆:上條桂子(編集者) 協力:森田裕子(東京ビエンナーレ事務局)
柳井信乃のプロジェクト&プロフィールはこちら
https://tb2020.jp/project/praying-for-tokyo-shino-yanai/
アーティスト公式ウェブサイトはこちら
https://shinoyanai.com/
アイデンティティと記憶、
という不確かなもの。
東京ビエンナーレ(以下、T):以前に柳井さんのインタビューを拝見して「うつつ」という言葉を作品のキーワードとして挙げていらっしゃったのが気になりました。
柳井信乃(以下、Y):それはだいぶ前のインタビューで、少しずつ考え方も変わってきてはいますが、関心のあることは一貫しているかもしれません。当時から関心があったことに、「アイデンティティ」と「うつつ」があります。自らのアイデンティティを確認する術として、ひとつは記憶が手がかりになるんだと思いますが、記憶というものは夢と現実の間にあるもののように不確かなものなんじゃないかと思っていて、夢と現実の間をさす「夢うつつ」という言葉から「うつつ」という言葉をとって、夢と切り離せない現実を考えるという意味で使っていました。あとは、言語とナショナリズムの関係にも興味があります。
T:なるほど、柳井さんは様々なスタイルでパフォーマンスとインスタレーションの作品を制作されていますが、そこには一貫したテーマがあるんですね。柳井さんの代表的な作品をいくつかご紹介いただいてもよいでしょうか?
《Happy and Glorious》©Shino Yanai
Y:東京ビエンナーレのウェブサイトでも紹介している、私がヘッドフォンをつけている写真の作品が2018年に制作した《Happy and Glorious》です。これは、イギリスの国歌をテーマにバッキンガム宮殿という公共の場所で行ったパフォーマンスを記録した映像作品です。イギリスの国歌「God Save the Queen」は、どこかで聞いたことがあると思いますが、このメロディはなぜか耳に残り思わず口ずさんでしまいます。また、この作品を制作していたのが、ワールドカップが開催された年で、大勢のサポーターたちがパブでイングランドの試合を観戦するときにみんなで歌っていて、その場所にいる全員が心を団結している瞬間をまのあたりにして、その迫力に驚きました。作品を作る少し前から、歌を歌った時に起こる気持ちの高揚感や、音楽が感情や身体に与える影響について考えていて、こういう映像作品になりました。
T:実際、この映像が展示された時は鑑賞者はどういう形で見るのでしょうか?
Y:ダブルスクリーンの作品で、ひとつには歌詞が英語と日本語のダブルキャプションで流れ、もうひとつは私がバッキンガム宮殿で国歌を聞きながら歌うパフォーマンスの記録映像が流れています。歌詞に使われている言葉は、日本語と英語では印象が違います。同じ歌詞でも、イギリスと日本では観客がそれぞれの言葉から読み取る意味が違うのが面白いと思いました。
《Blue Passage》展示風景 ©IINUMA Tamami
T:作品をもうひとつ。《Blue Passage》についても教えていただいていいでしょうか?
Y:《Blue Passage》は2016年に行ったパフォーマンスを記録した作品です。近代五輪の聖火リレーの歴史に触れています。聖火リレーというのは1936年のベルリン五輪で始まったもので、ナチ党のプロパガンダでもありました。パフォーマンスのためにデザインしてもらったトーチを持って、ユダヤ系ドイツ人の思想家であるヴァルター・ベンヤミンがナチスから追われ、逃亡した道であるスペインとフランス国境にあるピレネー山脈を越えるルートを歩くパフォーマンスを行い、それを記録した映像になります。
T:なるほど。近代オリンピックの代名詞とも言える聖火リレーの歴史と、ナチスに追われた思想家が辿った道を自らの身体で歩くという行為で追体験する。興味深い作品です。柳井さんは現在はロンドンにお住まいですが、もともと大学時代は音楽学部でピアノを学ばれていたんですよね? その後日本画専攻に進み、大学院は芸大の先端芸術表現科でインスタレーションをされていた。その後イギリスに行かれたのですか? また、パフォーマンスというスタイルはいつごろから始められたのでしょうか?
身体の所在を作品化する、
パフォーマンスという形態。
Y:そうですね。身体の所在や所属する場所というものに興味があって、パフォーマンスにも興味がありました。制作していたのは映像作品ですが、自分でパフォーマティブな行為をしてそれを映像で記録するという作品をつくっていました。その後ロンドンのRCAでは写真学科で学んでいたのですが、先生がパフォーマンスを専門にしていたアーティストで、その先生からも影響を受けていますね。
T:ご自身が作品の中に入り込むというのは、どういうモチベーションで行っていたのでしょうか? アイデンティティというお話をされていたので、自分自身への興味ですか? もしくは違うこと?
Y:自分自身への興味というよりは、他者との関係性を通して考えるアイデンティティに興味があるのだと思います。これまでの作品も、パブリックな場所で周囲に誰か観客がいてゲリラ的にパフォーマンスを行い、それを記録するものが多いような気がします。過去に実在した人物の行動をなぞるようなパフォーマンスであったり、匿名的なものにするために顔を覆ったり。自分ではない誰かとの関係性を通してアイデンティティとは何かということを探ることに興味があります。また、自分自身で演じるのは、作品の内容によってですが、私自身でその行為に対して責任を負えるからということもあります。
T:なるほど。これら二つの作品にもナショナリズムというテーマは根底にあるような気がしていますが、ナショナリズムについて興味を持たれたのはイギリスに行ってからですか? それとも日本にいたときから?
Y:日本にいたときからです。興味を持った理由の一つは、私は韓国人の両親から生まれて20歳の時に日本国籍に帰化したのですが、大人になるまで国や国籍について考え続けてきたことです。もう一つの理由は、大学で日本画という国の名前がついたペインティングを勉強していた時に、日本画の歴史に触れて、政治との関係性やプロパガンダに用いられたということが興味深いなと思っていて。またイギリスに来てからは、さらにナショナリズムについて考えさせられる機会が多くありました。
T:日本で日本人であることと、イギリスで日本人であることは違いますか? イギリスに行って変わったことはありますか?
Y:そうですね。日本で日本人であることは自由が大きかったと思います。イギリスでは外国人の立場なので制限されることはありますが、他の側面で自由な面もあったりして、その違いは考えさせられます。関心を持つことや作品のスタイルはそんなに変わっていませんが、イギリスに来てから何事も客観的に見られるようになったかなと思います。ひとつの絵や言葉から得られる印象や解釈は、見る人の歴史的背景だったり、文化的背景、話す言語や宗教などによって、全く異なることがあります。そういう意味で、ひとつのイメージを出すことに対しての責任感みたいなものは、すごく考えるようになりました。
言葉遊びも好きで、作品にもよく取り入れています。ひとつの言葉で複数の意味があるということや、言語が変われば考え方も変わること。そして、言葉が違う環境で人はどうやって理解しあえるだろうかということもよく考えます。
社会性と身体の関係を
踏まえたエクササイズ。
T:作品をつくるプロセスについて教えていただきたいと思います。柳井さんの作品は、ものすごく丹念なリサーチを積み重ねられると思うのですが、どういうところから作品の芽が出て、そのリサーチを行っていくのでしょうか?
Y:作品によって違うんですが、東京ビエンナーレの作品の場合は、お話をいただいた時に自分が関心を持っていたことからテーマが浮かび上がりました。ちょうど当時ブレグジッド(イギリスのEU離脱問題)を目の当たりにしていて、ナショナリズムの高揚を肌で感じていました。そこから「身体行動と社会の関連性」について考え始めて、少しずつ作品を構想していきました。
T:そのタイミングでコロナが発生してしまいましたが、それについては?
Y:そうですね、そうした危機に対しても何らかの反応ができればと思っています。このような状況下に置かれて考え始めたのは、死を身近に感じるということだったり、また感染者や一部の人々の社会的排除が行われているのを目の当たりにしたり、同時にBlack Lives Matterの問題もあって、またヨーロッパのいくつかの国では国民を守るために国境の往来を制限したというニュースがありました。グローバリゼーションの進みとはまったく逆方向の動きが世界中で同時に起きていて、自由に往来できない状況になっています。こんなことはパンデミックが起きる前はまったく想像もしていませんでした。そんな状況ですが、 他者を思いやるような出来事もたくさん目にしていて、そうした希望も見られました。
T:柳井さんの今回の作品《Unconscious Ritual(仮題)》では、なんらかのエクササイズをするというパフォーマンスと書かれていますが、これは鑑賞者も参加できるものになりそうでしょうか?
Y:参加形態をどうするかは状況によって判断したいと思いますが、鑑賞者にも参加してもらうプログラムにできればと思っています。そういう意味でも、「ソーシャルディスタンィング」は反映させたいと思っています。これは、新しい社会のルールというか、他者を守るための距離ということですよね。他者との関係において、身体的な新しい感覚が生まれたのはすごく興味深いことだと思っています。イギリスや欧米では、別れ際にハグをするのが通例ですが、もうそれができなくなってしまっていたり、歩いている時に通りすがりの人との距離をすごく考えてしまったり、日常にはなかったことが日常化しつつあるので、それをよく観察してパフォーマンスに展開できればと思っています。
T:先ほどのお話で「身体行動と社会の関連性」というキーワードがありましたが、それについてもう少し詳しく教えていただいてもいいですか?
Y:社会的なルールって身体に染みついたものがあると思うんです。例えば日本だと電車に乗るときに自然と列を作りますが、ロンドンでは誰も並んでいなかったり。何か音を聞くと体が反応してしまうようなもので、生きていく中で学習したルールというのは、ある種の訓練に近いものなのかなと思ったんです。訓練みたいなことに興味があるのは、私がずっとピアノをやっていたことに関係しています。曲を暗譜するためには、同じ曲を何度も何度も繰り返し練習します。頭で理解しようと楽譜を分析したりもするんですが、やはり何度も弾いて指に覚えさせる方が早い。訓練をすることで身体に記憶させるというのは、興味深いなと思っていて。そういう行為は日常生活の中にもあるんじゃないかと思ったんです。
T:電車に乗るときに思わず並んでしまうというような、気付かないうちに染みついている社会性は他にもいろいろありそうです。それは、東京という場所にも依存する部分はありそうでしょうか?
Y:あると思います。都市ならではの身体性について考えてみたいと思います。
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トップ画像:《Happy and Glorious》©Shino Yanai
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