黄泉比良坂へ行った話(前編)
砂丘は島根にあると思い込んでいた自称シティーボーイにとって、島根での生活は不安だらけだった。
2010年の7月中には、前院長であったTさんから島根の北京堂を引き継がねばなかった。それゆえ、出来るだけ早く島根へ行っておかねばならなかった。しかし、私の島根行きが突然の話だったのと、Tさんがなるたけ早く退職したいとのことで、私の東京での弟子入り期間は実質3ヶ月しかなかった。
北京堂の弟子は通常、最初の3~6ヶ月くらいは治療の見学と抜針だけで、実際に患者に鍼を打たせてもらえるようになるのは、弟子入りしてから半年後程度、ということになっている。しかし私は3か月後に島根の北京堂を引き継がねばならなかったため、弟子入りして1ヶ月くらいで患者に鍼を打たねばならぬような状況を強いられた。しかし幸いなことに、弟子入りする前の1年間は卒業した鍼灸学校の付属施術所で実際に患者に触れたり、毎週末は狭いワンルームの自宅に友人を招いて刺鍼練習をしていたから、とりあえず弟子入り1ヶ月後には何とか針が刺せるようになっていた。あの頃練習台になってくれた友人達には今でも感謝している。
ちなみに、鍼灸学校を卒業すればすぐにマトモな治療が出来るようになる、と思い込んでいる人が少なくないが、実際には卒業してすぐに治せるようになる鍼灸師なんて皆無に等しい。高い学費を払い、専門性習得を謳う厚生労働省お墨付きの学校を卒業してもスペシャリストになれぬとは何とも皮肉なことだが、未だに卒業後10年経ってもロクに治せない鍼灸師は珍しくない。会員ビジネスの餌食となって徒党を組んで安心感を得るだけで、患者と真剣に向き合おうとしないようなケースも、日本の鍼灸業界ではアルアルである。
島根には事前に日通の単身パックで荷物を送っておき、バイクで行くことにした。島根で生活するためにはバイクがあった方が便利だと思ったからだ。私のバイクは「スポーツツアラー」と呼ばれるジャンルで一部の変人から愛されていた、スズキのRFというバイクだった。これまで、スズキは刀やガンマ、TL1000Rなどと変態的なバイクを量産してきたが、RFは私の好みにピッタリのバイクだった。
RFは1992年に製造された旧車で、島根-東京間、往復1600キロをよくノントラブルで走ったと思う。今思えば恐ろしいことだ。結局、RFは2015年に廃車にするまで50000キロ以上、大きなトラブルもなく走ってくれた。キャブ車は燃料タンク内のサビやスラッジでニードルジェットが詰まって走行不能になるのが定番だけれど、定期的なキャブのオーバーホールやタンクの交換、ワコーズフューエル1の定期注入で、何とか走行不能は免れることが出来た。RF唯一の構造欠陥として、スタータスイッチ部分に水が入るという事例があったが、これは自分でうまく改造して問題なく走れた。チョークワイヤーは固着しやすかったが、寒い日はエンジンがかかりにくくなるから、これも定期的な交換と注油が必須だった。あとはイグニッションコイルやクラッチワイヤー、アクセルワイヤー、プラグ、バッテリーの交換、フロントフォークのオーバーホールが必要だったが、エンジンやミッションは触らずに済んだ。
結局、2010年の7月に島根へ移住したのだが、北京堂を引き継いだ当初はヒマすぎて、本当に食っていけるかどうか不安だった。しかし、師匠がすでに島根で20年ほど北京堂をやっていたこともあり、徐々に患者が戻ってきて、何とか生活していけるようになった。あまりにもヒマな時は、一人で市内を観光したり、鍼灸院のウェブサイトを作ったり、南北相法を翻訳したりした。ウェブサイトの作成は独学で一から始めたから大変だったけれど、今となってはコツコツやってきて良かったと思っている。
そういえば去年だか一昨年くらいに、某出版社からの依頼で南北相法の一部を抜粋して、現代語に翻訳したことがあった。結局その翻訳は雑誌で公開・出版されたが、つい最近、その翻訳をウリにした別冊を出版するとのことで、出版社から転載承諾の許可を乞うメールがあった。私は二つ返事で承諾したが、結局担当者からは返信がなく、そのまま新たな特集本が出版された。私の翻訳を最大のウリにしたような本なのだから、報酬は無くとも、どんな感じで刷り上がったのか1冊見本を送ってくれたって良いじゃないかと思ったりした。まぁ昨今の出版社なんてそんなものなのかもしれない。
島根では師匠のお父さんとお母さんにお世話になった。師匠のお父さんは針治療も好きだったが、特に灸施術が好きで、1ヶ月に1~2回くらいのペースで私の治療を受けに来ていた。毎回灸を据える前に「私はね。熱いのが平気なんですよ」と言っては、遠回しに熱めの灸を要求した。
私は針を刺し終えると、いびきをかいてすぐに寝落ちするお父さんの横で、付き添いで来ていたお母さんとおしゃべりするのが常だった。お母さんは色々な話を聞かせてくれたが、毎度同じような話を何度も繰り返すので、毎回初めて聞いたような素振りで相槌を打たねばならなかった。お母さんは来院するたびに、東出雲町で最も美味いという越野の天ぷら(魚のすり身を揚げた山陰名物)を手土産に持参してくれて、話疲れると待合室の長椅子でリッラクマのティッシュケースを枕にして、お父さんの治療が終わるまで昼寝していた。師匠も疲れるとすぐに横になる習性があるが、お母さんの寝姿は師匠とソックリだった。お母さんとお父さんは、たまに私を自宅に招いてくれて、松江の名物である茶菓子やら魚料理やらをご馳走してくれた。お母さんは夕方になると、ホースで庭の植木に水をやるのが日課になっていた。
お父さんは山陰の郷土史について語ることが好きで、ヒマを見ては私を松江近辺の名所に案内してくれた。お父さんは毎日ヒマを持て余していたのか、私をどこかへ連れて行くことが楽しい様子だった。
東出雲の一番の名所であると思しき黄泉比良坂(よもつひらさか)へ一緒に行った時、お父さんは「これは黄泉(死者のいる場所)に通じる入口を塞いだ石だと言われていますが、この石は我々が若い頃に運ばされたものです」と出雲訛りの標準語で言った。お父さんは神話やら仏教説話には懐疑的で、どちらかと言えば唯物論者に近かった。まぁ一応、東出雲町の名誉のために言っておこう。
ここには黄泉の入口が存在します。
島根で初めて迎えた冬は大変だった。2010年の大晦日から降り始めた雪がずっと止まず、一夜明けた正月には、松江の学園通り付近で積雪が60cmを超えた。
豪雪地域では何てことのない積雪量なのかもしれないが、ほとんど雪の降らぬ東京で育った人間にとっては、メジャーで深さを測りたくなるほど衝撃的な量だった。
島根の大東町という場所から来ていた患者の話では、山間部は積雪が1mを超えており、玄関から公道まで自家用車を出すための除雪が大変だったそうだ。公道は市の除雪車が走るから時間が経てば何とか通れるようになるが、当然ながら自分の敷地は自分で除雪せねばならぬから、自宅の庭が広い人は地獄を見ることになるのだった。松江の北京堂では、マンションから30mくらい離れた場所に患者用の駐車場を2台分借りていたのだが、たかだかそれだけの範囲でも、1人で除雪するのに1時間以上はかかった。何より、マトモな道具が無かったのと、慣れていなかったので大変だった。
例年の松江市では12/15頃から冷え込んで徐々に雪が降り始めるのだが、毎年積もっても10cmくらいらしい。大雪が降ったのは幸い大晦日から正月までだったから仕事に大きな影響はなかった。1/2からは駐車場に積もった雪を除雪するため、川津にあるジュンテンドーというホームセンターまで歩いて行った。途中、ローソンの前でスタックしている小型車があり、後輪が滑ってローソンの駐車場から抜け出せなくなっていた。店長らしき男が迷惑そうに眺めていたが、可哀想なので手伝ってやることにした。小型車の運転手らしき小柄なオバハンは申し訳なさそうにしていて、スコップは持っていないと言うから、見知らぬ通りがかりの男と一緒に後輪付近の雪を手で除けて、ローソンの外に置いてあった段ボールをタイヤの下に敷いて、何とか脱した。結局ジュンテンドーに行くまでに、スタックした車を男が数人がかりで押している光景を2回見た。島根では車にスコップを積んでおくべきだと思った。
ジュンテンドーの前にはすでに開店を待つ10人くらいの市民が座っていた。みな除雪用のスコップを求めているようだった。開店してすぐに「スコップはありません!」と店員が叫んだので、みな残念そうに散っていった。その後、田和山と春日にある「いない」と、東出雲にあるナフコに電話してスコップの在庫を問い合わせたが、どこも売り切れだった。どうやら在庫切れというより、そもそも在庫を持っていないらしかった。東京と違ってどの店も店舗数が限られていたから、こりゃ困ったな、と思った。
仕方がないので東京に住む母親に電話して、宅急便でスコップを送ってもらうことにした。スコップが届くまで、除雪が出来なかった。かつて「サンパチ豪雪」と呼ばれた大雪が松江市を襲ったらしいが、今回はそれ以来の大雪だったと、後で患者から聞いた。寺田寅吉が言ったように、概して災害は忘れた頃にやってくるもんだから、常々備えておかねばならぬと痛感した。
島根から戻って来て、改めて東京の冬は過ごしやすいと感じるようになった。30年くらい前には東京でも庭でカマクラが作れるほどの雪が降ったものだけれど、最近は雪景色を忘れてしまう程の暖冬が続いている。
確かに東京は雪がほとんど降らないから楽だけれど、山陰でしばらく雪に囲まれて生活をしていたせいか今では時折雪が恋しくなって、冬になるとわざわざ雪の降る町へ出かけたくなったりする。
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