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南北相法(後篇/巻ノ五/最終巻)

水野南北居士 著

《気色湊(きしょくつたい)の部》

《気色が湊走(つたいはし)る様(かたち)を弁ず》

頭は太陽(=大陽)の集まる場所であり、身体における城市(じょうし、≒都市、繁華街)である。ゆえに、面部は一身における江湊(こうそう、≒港)に等しい。よって、万事の吉凶は潮(うしお)の干満の如く、日々面上に湊流(そうりゅう)するのである。ゆえに、これを気色の湊(つたい)と名付ける。

また、祖師の後から現在まで、血色、気色の事は大いに廃(すた)り、気色の色を観たいと欲しても、実際に観る事が出来る者はいなかった。このため、血色の発現を観る事が出来ても、気色の湊流がある事は理解し難かった。よって、私がここに明らかにする。

気色の湊(つたい)とは、必ずしも、糸を引いたように現れるものではない。例えば、顴骨から気色が起こり、土星(=鼻)の方へ現れて湊(つた)うように観える場合は、これを顴骨から土星に湊う気色、と言う。その様子は、蚓(みみず)が跂(は)うように湊い走っているようである。また、嬰児(みどりご、=乳児)の小指の先で引いたかのように、細く現れる事もある。あるいは、灯心がうねるように湊い走る事もある。そもそも、気色とは言うものの、必ずしも気があるわけではなく、色があるわけでもなく、何となく気が湊わっているように観えるのである。よって、気色の湊いにおいては、青色、黄色、赤色、白色、黒色、美色、紫色、紅色の気色は現れない。ただ何となく、潤いがあるものを気色と呼ぶのである。一方で、暗く、潤いのない気色もある。以上の二種以外は現れない。つまり、その潤いの有無によって、気色の吉凶、善悪を観定めるのである。

《気色湊走(きしょくつたいはし)るの図》

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↑図1「決して気色の根元だけで判断してはならない」

気色が湊い走るというのは、ともかくも、図のように現れる事を言う。だが、図のように荒々しく、毛穴が連なったように現れるわけではない。面上の肉付きが図のように際立って観える様子を、解りやすく図示しただけである。例えるならば、剣の刃文(はもん、=剣花、匂)、剣の鍔(つば)というようなものである。ただし、上から下へ下る事もあれば、横から現れる事もある。あるいは、下から上る事もある。または、穴所から穴所へ湊い走る事もある。さらには、穴所から穴所に湊うような勢いがあるものの、湊わない事もある。だが、湊うような勢いがあるならば、すでに湊わっているのと同じである。
*「剣の刃文、剣の鍔という…」…原文では「劍ノ劔華鍔ノ如ク…」である。「劔華」は剣花(=剣と剣がぶつかり合った時の火花)だと考えやすいが、原文には「ニホヒ(匂い)」と仮名が振ってあり、ここでは刃文(はもん)とするのが正しい。なぜなら、「匂」は刃文の意を含むからである。また、「劔華」は「剣の華」に通じ、刀剣が備える華やかさの事でもあり、刀剣の刃文の美しさを指すと考えられるからである。実際、江戸期の刀剣は工芸品としての美しさは極限に達していた。ちなみに、刃文とは、日本刀(=刀剣)の刃の部分に沿ってみられる、美しい模様の事である。鍔(つば)は文字通り「鐔(つば)」の事で、刃と持ち手(=柄、つか)を仕切る金具の事である。原文に付された図を見れば明らかであるが、気色の根元が鐔、根元から先が刃文のような形をしているのがわかる。パッとみると、刀剣のような形の気色である。後述する「殺伐の気色」は、まさに刀剣の貌(かたち)を呈しており、実際のその気色の意味は、「剣難によって死ぬ」である。

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