陰陽師安倍晴明公の運命鑑定〜運勢編〜
こんにちは、東京陰陽寮のいづみです。
安倍晴明公の運命鑑定の続きです。
前回の記事はこちらです。
今回は〜運勢編〜をお届けいたします。
ひとりでも多くの方が陰陽道に興味をもってもらえたら幸いです。
早速ですが晴明さんの大運です。
大運とは、晴明さんの人生の道のりです。生まれた月の干支から計算します。
晴明さんの立運は6歳です。6歳から自分の人生を本格的に歩きはじめます。
ここで一旦命式を確認しましょう。
2月の癸(水)の晴明さんは、寒い季節の小川なので、暖めてくれる太陽の「丙」と、小川が凍らないよう「庚」の水源が守護神でしたね。
では晴明さんにとって「いらないもの」とはなんでしょうか?
一応参考に五行図をのせておきます。
晴明さんは小川です。滞らずに流れることが良いわけですから、水の流れを阻むもの「剋」して来るものが「いらないもの」といえます。
水の流れを阻むもの、それは「土砂」です。癸は土から剋される関係なので土である戊、己、丑、辰、未、戌が「いらないもの」です。これを専門用語で「忌神」いみがみ、とよんでいます。
みてください!
6歳からの大運に「己丑」天干と地支に土がダブルでまわってます。これはさぞかし大変な幼少期をお過ごしになられたのではないでしょうか。しかも大運の丑と命式の巳は特別な組み合わせで「半会」とよばれる働きをもたらします。どんな事が起こるかというと「広がり過ぎて収集がつかなくなる」という現象がおきたのではないかと推測します。本来「半会」は環境を広げるチャンスの時で、プラスの働きをすることのほうが多いのですが、忌神まわりなので裏目にでやすいと考えられます。
16歳からの大運はどうでしょうか?
あらら、また「戊子」で戊の忌神まわりです。地支の子には特殊な作用はありませんが、戊は山を表し、子は海を表すのでよほど行動を気をつけないと山崩れの危険があります。積み重ねたものが崩れる10年というわけです。
この25歳までの運勢は結構波乱万丈でしんどそうです。忌神が訪れる運勢の時は大抵「苦労」を伴いますので、人一倍努力したかもしれません。
晴明さんが国家組織である大舎人で働くようになったのは948年27歳の時でした。交代で宮内に宿直し雑用などを行う下級官人です。それは丁亥の大運に入ってすぐのことでした。
この大運の丁は晴明さんの守護神である丙の仲間なので準守護神とみます。本命ではないけども自分の思いに近づける時期となります。また年の運気は「戊申」戊は忌神ですので苦労しますが地支が申で申の蔵干には守護神である「庚」が入っていますので、この年に始まったことは「苦労を伴うし時間もかかるけどいい方向に行く」と読み取れます。夢を叶えるための試練が始まったわけです。
また晴明さんにとって申がくる時は面白い現象が起こります。命式の寅と運勢で回ってくる申は「冲」という関係で、自分の足場が崩れる現象が起こります。拠り所が失われる感じです。そして命式の巳と申は「害」という関係。害は「病気になる」「未知との遭遇」とという意味があるので、おそらく
「お前いつまでプラプラしてるんだ!いい加減仕事しろ。そうだ父さんが宮内にかけやってやるぞ」
みたいなことで渋々宮内入りしたのではないかと推測してます。
実際、その後12年という長い年月をかけて960年、ようやく陰陽寮に入寮を果たします。
大運は守護神である「丙」まわり。ようやく夢が叶うタイミングが訪れたわけですが、地支は土の戌なので、苦労を伴う現象がでます。ウィキペディアさんによると陰陽寮に入って「天文得業生」となった晴明さんは、入ってそうそうに、宮内で起きた火災事件で焼けてしまった剣を直すことを命ぜられますが、なんとかクリアをして翌年961年に晴れて陰陽師としてデビューを果たしたそうです。
ちょうど陰陽寮に入寮した960年は庚申年。守護神である庚がいましたが、冲と害が成立する申もいました。試練を乗り越えたことで幸運を掴む運気でした。
その後、970年の庚午年に天文学を教える立場である天文博士に昇格します。晴明さん50歳でした。もちろん庚ですから守護神まわりです。
977年、加茂保憲氏がお亡くなりになります。保憲氏は陰陽師としてのお師匠さんです。自身の天文道を継がせるほどの間柄だったようですが、その恩師がなくなってしまいます。大運は「甲申」、冲で拠り所をなくし害で塞ぎ込んだのではないかと想像できます。
979年は「己卯」年、また忌神まわりで今度は天狗封じを命ぜられます。
そこからしばらくは目立った出来事はないのですが、それも申の中にある庚の守護神には「時間がかかる」という意味があるので、マイペースに過ごしておられたのかもしれませんね。
そして運気は変わりまして、大運は癸未の993年、一条天皇の病を回復させることに成功した晴明さんは昇格をします。癸の晴明さんが癸の大運を歩むということは「再確認」という意味があります。
また晴明さんの天中殺は午と未です。(天中殺についてはいつか詳しく!)午と未が回ってくると「運気の乱れ」が起こります。大運で未がまわってきたのでここから大運天中殺という二十年に渡る乱気流に入ります。なにが起こるかわからないデンジャラス区域に突入というわけです。
癸が回っているので自分探しの冒険だったと推測はします。
またこの993年は癸巳の年。晴明さんの日干支と同じ干支がまわってます。これはもう「もうひとりの自分が出てきて自分の力を確認する時」です。晴明さんが生涯で培ってきた陰陽道や不思議な力を存分に発揮する時期だったのではないでしょうか?
そして1005年、晴明さん85歳の時にお亡くなりになります。大運は壬午、年運は乙巳でした。壬は陽の水ですが守護神でも忌神でもないので吉凶はないとみますが「業界や組織」という意味があります。また午は月支の寅とは「半会」という広がるの意味をもちます。晴明さんの癸水が流れるために必要な寅でしたが半会することで木から火に変わってしまいます。(そういうルールがあります。)よって大量の水(壬)が流れてきたけど排出できなかった、陰陽師としてやることがたくさんあったが年齢的にも上手くこなせなかったので無理がたたったのではないか、と推測します。
そして20年に渡る大運天中殺もあと一年で終わろうとしているところでした。この20年、晴明さんは力を得て勢力的な活動をされていたことでしょう。でもそれは大運天中殺の後押しがあってのこと。大運天中殺を抜けるまでに元の鞘に戻らなくてはならないのです。やることがたくさんあった晴明さんには無理な話しだったのかもしれませんね。
ということで陰陽師、安倍晴明公の運命を見て参りましたがいかがでしたでしょうか?他にもたくさんお伝えしたいとろこはあったのですが、ポイントをおさえて書いてみました。
あくまでも私の推測であり、事実はわかりません😅ですが陰陽五行で読み解くとこんな風になるんだ!というのを知っていただけたら幸いです。
ということで東京陰陽寮のいづみでした!
葛飾区にある安倍晴明公ゆかりの葛飾区一古い神社です。
9/20(水)14から東京陰陽寮で運命鑑定をさせていただきます。お近くの方は是非お越しくださいませ!