見出し画像

刺身に醤油をつけすぎる人は、魚の味を知っているか?

「食べるために生きている」
とまでは言い切れなくとも、

「生きるためだけに食べている」
な食生活ではありたくない。

と思うくらいには、食べることが好きだ。


幸いにも家族全員が食に対して強めの情熱を持っており、自然環境にも恵まれて育ったので、物心ついたときからそこそこ豊かな食生活を送らせてもらっていた。


とは言えど、「味覚の物心」がついてきたのはかなり最近のことのように思う。




私の言うところの「味覚の物心」は、ひとつひとつの素材の味とか、料理の中でこれはどの食材の味だとか、どうしてそれが引き立っているかとか、そういうことをやっと今分かりはじめたということを指している。

美味いものは美味い、と、もちろんそれだけで十分に幸せで満ち足りた食生活を送ることはできるのだが、いわゆる「素材の味」とか「旨味の種類」とかまでが分かるようになりはじめたら、それこそ食という沼からは一生抜けられない。

無事、抜けられなくなってしまった。






これはお酒を飲み始めたことが理由なんじゃないかと、なんとなく思っている。


味も風味も香りも、それまでの人生で直接的に感じる味覚としては全く経験したことのないものを、お酒は教えてくれた。


時間はかかったが、それを美味いと思えるようになってからは私の味覚が格段に進化した。



最たるものは苦味である。

舌の奥で感じ取るタイプの味がオイシイモノだと言うことを、私の舌が初めて学んだ。味覚のストライクゾーンを大幅に拡張した。


液体の舌触りなる感覚もここで初めて学んだ。

舌で受け取るのは「味覚」だけだと思っていたが、舌にゆっくりとしたスピードで滑らかに染み込んでいくという感覚を抱いた時点で、それは「触覚」でもあるのだと感じた。

コーヒーとケーキ、抹茶と羊羹。

彼らの絶対的で運命的なマリアージュをも越えるような、それはそれは絶対的でもちろん運命的で革命的に素晴らしくワンダフルでエキセントリックジーニアスなマリアージュにも沢山出会うことができた。

ハイボールと唐揚げ、vino blanco と calamar、日本酒には鰹、ウヰスキーにはチヨコレヰト。安心しろ、心配しなくともキミたちは必ず同じ墓に入れてやるから。



とにかくまあ、お酒の味を知ってから、毎日が楽しくて仕方ない。

活動20年目にしてはいささかオーバーワーク気味の私の肝臓には、心底同情します。




最近、そんな味覚の洗練・進化が後押しとなって、ある悟りをひらいた。



近所に美味しいイタリアンレストランがある。
丁寧な調理で繊細な味を楽しませてくれる、とても素敵なレストランである。


先日そこでカブとポークの入ったトマトリゾットを食べた時、突然今までにない衝撃が走った。



まず、普通トマト味の何かを作るとなったら、とりあえずケチャップだのトマト缶だのをザーッとぶち込むのが一般家庭の鉄則だろう。

でもそのレストランで出されたリゾットは、今までに慣れ親しんだそういう添加物ありきのトマト味ではなくて、すっと鼻に突き抜ける鮮烈な香りをもった、紛れもない「生トマト本体味」であった。

というか、これこそが「トマト味」なんだと思う。

今まで私が食べていた普通のオムライスだのナポリタンだのは、「トマトベースの調味料味」だ。



もっと味わってみれば、食感の楽しいカブ、その茎の部分、旨味の詰まった豚肉、トッピングのルッコラとパルメザンチーズ、米、全ての食材がちゃんと食材本来の味を感じさせてくれる。

それはもう一個一個、あるいは一粒一粒が鮮烈で、元々良い物の良さをさらに最大限に引き出して使っていると一口で分かる美味しさだった。
有り体に言って、感動した。心の底から、かなり。



その時、たまたま自分も数日前にリゾットを作っていた。
自分なりに結構美味しくできたつもりだったのだが、家庭で素人が作るそれとプロのイタリアンのそれとの間には決定的な違いがあると気づく。


私のリゾットは、ブイヨンと塩コショウとブラックペッパーとパルメザンチーズがおいしい、「味を付けるため」に調味料を使った「調味料味」のリゾット。


一方プロのリゾットは、あくまで米や野菜や肉本来の「素材の味を引き立てるため」にオリーブオイルや塩コショウなんかの調味料をサラッと使った、「素材の味」のリゾット。



リゾットじゃなくてもいい。なんなら和でも中華でもなんだって言えることだが、
要するにほとんどの人は普段、「味付けをするために調味料を使う」という意識を持っているように思う。

そんなの当たり前じゃん、何が悪いの、とほとんどの人が一瞬思う。

でも例えば、自分の食生活を思い返して見た時に、


ケチャップ味のオムレツ

醤油味のお刺身

ソースとマヨネーズ味のお好み焼き

練乳味のいちご



こんな風に知らず知らずのうち、食べ物の味を調味料に支配されていると感じることはないだろうか。

なんたって楽だし、ちゃんとそこそこに美味しくなるから、気づけば調味料そのものに味の決定権を全て委ねてしまっている。

それに慣れてしまえば、いつしか調味料味の薄い素朴な味のことを、素直に「美味しい」と思わなくなってしまう。

もちろん調味料は日々進化してどんどん美味しくなっているし、調味料味そのものが食べたい時だってあるし、それも食生活のひとつの形である。




であるが、私はやっぱりあのレストランで「素材の味」リゾットを食べた時の感動が忘れられない。
世界が3倍くらいに広がった感じがした。


調味料味だけの世界には、せいぜい塩味かコショウ味か醤油味か砂糖味かソース味かケチャップ味かマヨネーズ味かくらいしか味のレパートリーがない。

でもその調味料がグッと鳴りを潜めた素材の味の世界では、食材の組み合わせ次第で文字通り無限の味を生み出せる。


その時選ばれた組み合わせに対して、ほんの少しの適切な手助けをする。それが私が「素材の味」リゾットを食べた時に感じた、調味料の役割だった。



結構自分の中ではコペルニクス的転回というか、今までにはなかった考え方だった。それを意識するとしないとでは、料理の仕方も、食材の選び方も全然変わってくる。
強欲で、おいしい味をなるべくたくさんの種類で経験したい私にとっては、かなりいい方向に変わってくる。




それこそ、「食べるために生きている」と言い切れてしまうくらいに変わってくるかもしれない。

明日リゾットのリベンジしようかなぁ。



いいなと思ったら応援しよう!