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創作日記 1 作家という人生

 創作日記という名の、作者を探すアンソロジー

 二十歳になったら、もう無邪気にいられない、そんな国家の正体を自分なりに気づき始める前の十代の頃、よく読んでいた文芸評論家をパロディにしました。書いていて、とても懐かしく心地よかったです。

 明日のために
苦しいときほど新鮮で、生き生きした創造力が湧いてくる、
来たるべく時代を予見していた日本の戦国時代、絶対主義前のルネサンス、世界大戦前の20世紀初頭の芸術の横溢おういつ

じっさい、個人的にも
売れる前の太宰治は創作を箱の中にため込んでいたし、売れっ子になった作詞家がめげないで、来たるべく明日のために不遇時代の作品を備えていたとは、よく聞く話だ。
その作詞家、
売れないときは、なぜなんだ、憤っていた、
でも振りかえって読んでみたら恥ずかしいほど未熟だったそうです。
作詞は未熟でも、発想とか心情は初々しく昔のままで、ちょいちょいと手直しして発表していたそうです。

じっさいレイモンド・チャンドラーの探偵物語フィリップ・マーロウの長編は、短編を膨らませたものが多かった。


 まだ午後5時だというのにもうすっかり窓から見える空は暗くなり、伊藤園の抹茶入りこぶ茶をズズッとすする古葉野次こばやじ秀雄にも晩秋が訪れていた 

 いまではすっかり人気文芸評論家になり、「考えないヒント」がベストセラーになって生活も楽になったものの、以前は家庭を持つ身で、朝起きたらいつもどうやって食べていこうか、そのことばかりを考えていたものだった

 読んでいた愛読書「古今東西之古事記伝」をふと横に置いて、窓の外を眺めながら、おもわずつぶやくのだった 

 おれにも一度は、人生とは何かを考えていたときがあった 

(「短編コント」 古葉野次の青春の日 )より


 そんないい気持ちで、道並みをツボウチ逍遥していたら、前方の大きい木の枝に、何かがぶら下がっている
なんだろうと思って近づいて見たら、なんと近くにある禅寺の坊さんがぶら下がっているみたいだった

 両手を使わないで横に下げて、口だけで枝を噛んでぶら下がっていた
曲芸のけいこかな、でも坊さんがこんなバカことをするわけがないし、ふと回って背中を見ると何か紙フダがついている

「いま両腕が使えません、でも人生とは何かを知りました、ふぉー」

 変わってるな、どういう意味なんだろう
でもなんだろうな、人生とは何かを見つけたとは
こっけいな、ぶら下がった坊さんの風景を違和感なしにのんびり見ながら思っていた

 あの坊さんが見つけた人生とは、いったいどういうものか知りたくなった
聞きたいのはやまやま、でもいま両腕が使えないといっている
口を開けば、口が開いて落っこちてしまう、でもカレの人生の秘密も聞いてみたい
そんなことをなんとなく思案していたら、後ろから声がした

「おじちゃん、何してるの」


 ふり返ってみれば、不二家のペコちゃんポップキャンディをしゃぶっている、まだ小学校を上がる前の子ども
何してるのって、何もするわけがなく、答えてもお前なんかのお子さまにわかるわけがないし、ええ、少しばかり人生について考えてまーすなんてシャレにもなんねえゼ

「悩んでいないで言ってみたら、気が楽になるよ」

「ありがとうございます、じつはね、前の木に坊さんがぶら下がっているだろう、坊さんに話を聞きたいと思ってるけど口がふさがって聞けないの、どうしたらいいとキミは思うかな、ご意見をお聞きしたいんですけど、できるかな」

「簡単じゃん、ぶら下がっているときには、お坊さんに聞かないよ」

 そういって、ペコちゃんのポップキャンディをしゃぶりながら、その場をスタコラさっさと立ちさっていった


 ただ古葉野次はそこに立ちすくんで、少年の後ろ姿を見つめているばかりダッタ

(「短編コント」  古葉野次秀雄の青春の日々 )より


 でもと、古葉野次は思った
果たして男が、文学に対して人生をかけるほどの値打ちがあるんだろうか

 このことが一時期、古葉野次を躊躇させていた原因だった
そんな思いをふっ切りさせてくれたのがランボーとドストエフスキーの出会いだった
彼らの本を読んで、
文学は哲学や物理学と同じで、単なる戯言たわごとではないと確信したのだ

 そんな思いを古葉野次は愚風さんに語り、残っていたお茶をグイッと飲みほした

 それから昨今の文芸思潮にもふれて、言葉がはずんでいった

「先生はどう思いでしょうか」
「そうですか、まあお茶でもお飲みください」

 そう言って、カラになった古葉野次の椀に茶を入れた
ところが愚風さん、椀にいっぱいになっても注いでいる始末

「わあっ、いったいどうしたんです、お茶がこぼれていますよ」
「おわかりかな」

「えっ何がですか」

 いっしゅん、なんのことだかわからない古葉野次秀雄
たくの上にこぼれたお茶をふいていたら、
ふと部屋の庭先からチュンチュンする声
あれっスズメかな、
確か、最初この部屋に通された時も見かけたようだった
でも気にもしていなかったので聞こえていなかっただけかもしれない

 ふと顔を上げたら、愚風さんと目があって、
ねっと言って、愚風さんは微笑んでいた
おもわず古葉野次は恥ずかしくなって、どうもお見苦しいところをお見せしてすみません、とあやまった


 それからしばらくのちに禅寺を出て、
心地よい風に吹かれながら、
古葉野次は先ほどの一件について思いをつのらせていた

 そうか、おれはせっかく愚風さんに会えて、
文学についての疑問を尋ねたのに気持ちが先にいって、
目の前の庭にいるスズメのさえずりさえ気づかないで、
あたかもカラになったお茶があふれんばかりに、
おれの考えとか先入観というほどでもないけど勝手にしゃべっていた
おもえば聞こえてくるのはおれの声ばかり

 以前は文学論争相手にあたりかまわずふっかけていた古葉野次、このことがあってから、討論するにも一段のえを見せ始めていた

(「短編 夏のソナタ」 愚風さんと秀雄 あなたの声しか聞こえない )より



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