北京の景色とアンビバレントな感情について
2023年9月1日。私は北京に向かう飛行機に乗ろうとしていた。
飛行機の席に座ったとき、私は随分と自分が形容しがたい気持ちを抱えていることに気が付いた。北京といえば自分が幼少期に数年住んだ都市であり、大学時代にも何度も訪れた都市である。つまりは馴染みがある場所なのだ。でも、自分が北京から日本に帰ったあとに中国が経験した様々な経済成長、そして最後に北京に行った2019年の末から始まった新型コロナウイルスによるパンデミックはあらゆる面で北京に限らず中国の人々の暮らしを変えた。もう少し具体的にいえば私が住んでいた時の北京はまだ道端を走る馬やロバをみることができ、これから迎える北京オリンピックに向けて地下鉄の建設が進んでいた状態であった。そして、3年間にわたるパンデミックのもとで数え切れぬほどの激動を中国は経験した。その痕跡をみることを私はそこまで期待していなかったものの、自分の感性を全力で動員してこの街の変化を捕らえたいと思っていた。街の変化以外にも自分自身の変化もこのアンビバレントな気持ちの背景である。社会人を経験し、自分の内面を嫌というほど消耗した結果、自分でも信じられないくらいに自分の人生を自分のものでないような目線で眺めるようになっていた。そんな状態の矢先に決断した北京への留学である。しかも所属するコースは英語が中心である。思い切った決断に至った要素があまりにも幾重に重なっており、決断した自分自身と、まだ混乱し何とか状況を理解しようとする自分が分離していたのだ。
そもそも「理解」とは何だろうか。飛行機の中で読んだ村上春樹の短編小説「中国行きのスロウ・ボート」にこんな一節がある。
そう、私は中国のルーツを持っており、友人からも中国について詳しい人、自分でも中国について詳しくなりたい人と思っているが、どこまで努力しても僕の理解する中国は「僕の中国」にすぎない。私が理解する対象すべてに当てはまることである。この真理が恐ろしいのは、自分自身にもこれがあてはまることである。つまり、自分も自分が理解する自分に過ぎないし、自分を理解しようとする自分も「自分の自分を理解しようとする自分」に過ぎない。こうして、外界、外界を理解しようとする自分、自分を理解しようとする自分、自分を理解しようとする自分を理解しようとする自分、幾重もの疎外の網が自分の外側にも内側にも貼り巡らされているのだ。このオニオンのような構造の中心にあるのはなんだろうか。見当もつかないが、底なしの虚無である気がしてならない。
話を本来の筋道に戻そう。私は何もニヒリズムの哲学を構築しようとしているわけではない。あくまで中国を理解することの難しさ、つまり2年間中国で中国について勉強したところで中国を理解できそうにないということを書こうとしただけなのだ。それでもなぜ中国について学びたいかという問いについて私は今のところこれ以上考えたくない。あまりにも深すぎる深淵をのぞき込むことを躊躇うのと同じように。
北京の空港に着くと、大学側が用意したバスまで時間があったので、昼ご飯を食べたり、ベンチで本を読んだりして時間を過ごした。少しすると大学側が指定した待ち合わせ場所に向かった。一時間前なのにすでにたくさんの学生が集まっていた。みな英語で会話していた。北京の空港でこれだけの多くの外国人が集まり、英語で会話しているのは私にとってとても奇妙な光景であった。もちろんそれは私の中の北京があまりにも目の前に広がる光景と異なるからに過ぎない。そして、この種の困惑が私の中の北京を塗り替えることになるだろう。人生で出会う数々の困惑や混乱は、我々の中にある「何か」を塗り替えるきっかけとなる。しかし、それらはしばしば「恐怖」や「憎悪」にも転換しうる。懸命にその場の会話に入り込もうとしながらも、自分がいつか困惑に対して否定的な感情で支配される人間になる可能性について私は少し思いを巡らせた。
バスから見える外の風景はあまりにも中国的なものに満ちていた。そのうちの一つが、裸の状態でアパートの壁につるされている空調の室外機たちだ。日本ならばベランダ等においてあるはずの室外機たちは、中国だと窓の近くにつるされているか、ものすごく心細い棒や台に支えられているだけである。絶妙なバランスでアパートの壁にしがみついていて、今にも落ちそうなこの室外機たちをじっと見ていると、少し不気味な心持がしてくるのだ。そこにある絶妙なバランスはまるで中国の社会そのものである。もう一つ印象に残ったのが、2008年のオリンピックで使われた通称「鳥の巣」スタジアムだ。私が北京に住んでいたころ、中国全体がオリンピックに向けて高揚感に包まれていた。まるでオリンピックを迎えれば、夢という夢が、願いという願いが、すべてかなえられるかと思えるほどだった(通っていた小学校でオリンピックが決まった時のビデオを見せられ、みんなで一緒に招致スタッフの喜ぶ瞬間に合わせて喜ぶという集団儀式をやったのを今でも覚えている)。でも当然そんなことはない。オリンピックが終わっても、現実は続く。そして、その現実には当然希望も絶望も双方含まれている。多くの若者が競争に辟易して「寝そべり」を唱え、結婚も出産も望まない女性が増えている現在の中国をみると、鳥の巣スタジアムの立派な姿は隔世の感がある。それは、見方によっては、オリンピックで叶わなかった夢やオリンピック後に膨らんだ失望が宿った巨大な宮殿に見えなくもなかった。
大学のキャンパスに就くと色んな手続きを行わなくてはならなかった。中でも最も時間がかかったのが電話番号の設定である。専ら中国語しか話さない、いかにも中国人のおばさんという感じの中国人のおばさんが対応に当たっていた。大きな声で色んなところに電話をかけながら苛立たしく長い手続きをこなしていた彼女たちをみて、私はまた中国を感じざるを得なかった。しかし、最初に浮かんだ彼女たちへの興味をよそにすればこの手続きを待つ時間はいかにも退屈であった。当たり前のことだが、経験したことがあまりにも退屈だと、それに関するエッセイも退屈なことになる。だから、私は何とか、後でこのエッセイを書く決心がこの時点でついていたので、面白いことを探そうとした。だが、何一つ見当たらなかった。苛立たしく仕事をこなしながらも何とか初めて中国に来るであろう外国人たちに親切にしようとするおばさんたちと、中国に来た初日に不可解で退屈極まりないことを経験する外国人たちがいるだけであった。ただ、この退屈さももしかしたら中国的なのかもしれない。どの国にも、どの場所にも、そこでしか体験できない種類の退屈がある。異文化理解という煌びやかな言葉には当然これらの退屈の経験も含まれているはずである。
そういえば、北京首都国際空港の税関を通るときに、手持ちのスーツケースにある本をかなり詳しく調べられた。特に、中国の近代の思想・文化に関する本は文字通り1ページずつ見られた。それは日本語の本だったが、なぜ日本語ができないスタッフがわざわざ日本語の本をこんなにもしつこく確認するかを私は訝しげに思った。ただ、日本語も漢字を使う以上、センシティブな表現があるかどうかくらいは確認できる。こういった経験を今後私はたくさんしてゆくことになるだろうか。こうした不安や緊張に苛まれるような経験も異文化理解の一環だといえるだろう。しかし、いくら努力したところで私は税関のスタッフやこうした取り決めを作った役人たち、さらにはこうした状態を意識的にあるいは無意識的に作り出している中国人全体の目線に完全に立つことはできない。税関で緊張した面持ちで検査を見守りながら、異文化、ひいてはそもそも他者を理解しようとすることの空虚さに私は思い至ったことを思い出した。
携帯電話の手続きが終わった後、その日に出会った留学生たちと食堂で夕食を食べた。17元、日本円にして約340円で美味しいチキンライス(厳密にいうと鶏肉と数種類の野菜をご飯にかきまぜた“拌饭”)を食べられるのはとても信じられないことであった。疲労し切った1日の最後に思わぬささやかな光を見いだせた。
その後訪れたコンビニで買ったジャスミン茶もとても美味であった。ここで私は思わず日本と中国が広い意味で同じ文化圏に属していることを実感した。当時一緒にいたグループは、私を除けば全員アメリカ人だったが(当然コミュニケーションはとても苦労した)、彼らは一つ一つの商品に対してある程度説明が必要だった。手を伸ばした少し先に見つけた馴染み深いお茶は思わぬ温もりを私の心にもたらした。
翌朝少し早く起きて朝食がおいしそうな小さな食堂に入った。そこで買った豆乳のおいしさに私は舌鼓を打った。個人的な所感だが、日本の豆乳製品は無調整の甘くないものか、調整を経て非常に甘くなった豆乳しかない。しかし、中華圏は豆乳製品のバラエティが多く、しかもどれもおいしい。豆乳をすすりながら、私はこれからの留学生活について思いを馳せた。確かに、少しでも気を抜けば底のない虚無に落ちるかもしれない。中国もある一面ではとても危険な国でもある(もちろんどの国もある一面においては危険なのであるが)。それでも私の心には今後の生活への楽しみが芽生え始めていた。確かに不安の方が多いのかもしれないし、この文章でもそういったことばかりを綴った。それでも、北京というのは、食堂やレストランに行けばおいしい食事が食べられ、よい茶製品や思わず舌鼓を打ちたくなるような豆乳があり、そして少し苛立たし気にしながらも親切にしてくれるおばさん達がいる場所である。それは素敵なことではないだろうか。そんな北京での生活を私はとても楽しみにしているのだ。