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上野千鶴子氏の祝辞に思うこと
東大の入学式での上野千鶴子氏による祝辞が大きな話題になっている。
世間で様々な反応があったが、私自身の感想はというと、「個別の部分に対する(小さな)違和感と結論部分に対する大いなる共感」といったところだろうか。小さなに括弧をつけたのは、結論部分に関する共感の方が僕の中で大きな比重を占めていたため、当初個別部分に小さな違和感しかなかったが、個別な部分に関しては厳しく見れば、いくらでも違和感が浮かび上がるからだ。
ちなみに、全文は以下でみれる。
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html
単純によかった/よくなかったの2元論で論じきれないほど、この祝辞は様々な側面・論点を包含している。
すでに多くの記事で論じられているが、ここでは僕自身の(小さな)違和感と大いなる共感を言語化していきたいと思う。
【1】抑圧される側が権利を主張するとき
僕がまず思いを巡らせたのは、近年のフェミニズム・フェミニストを巡る様々な論争だ。フェミニズムとは何か。大辞泉によると、
「女性の社会的、政治的、経済的権利を男性と同等にし、女性の能力や役割の発展を目ざす主張および運動。女権拡張論。女性解放論。」
女性の権利を男性と同等にすることで、女性のエンパワーメントを目指すものだ。ここで重要なのは、「同等」ということだ。一方で、世の中の自称フェミニストをみると、男性を過度に攻撃する人も多い。そもそもそういった方をフェミニストと呼んでいいのかという議論があるが、彼らがそこまでする背景には何があるだろうか。
これまでの歴史を振り返ったとき、抑圧される側が抑圧する側による抑圧を覆し、権利を得るために、強く主張したり、時には強硬な手段に出ることが多い。例えば、アメリカの公民権運動において、マルコムXは暴力の必要性を訴えたし、彼と立場が違うキング牧師もワシントン大行進など白人の反発を招きかねないような行動に出ていた。彼らがこうするのは、白人の反発を招いてしまってでも、こうするしかないほど自分たちが脆弱な状況に置かれているからだ。その一方で、黒人の差別が法律や制度で徐々に解消されていったのは、ジョンFケネディやジョンソンといった時の権力者の理解や態度の変化があったからだ。そして、その後アメリカで黒人差別が徐々になくなっていったのは、間違いなく白人側の変化があったからだ。つまり、抑圧する側の集団の反発を招いてでも強く主張したり過激な手段に出るフェーズがある一方で、最終的には抑圧する側の集団にも理解者をうまなくては、抑圧される側の権力向上ひいては社会全体の融合・相互理解は生まれない。クーデターや革命などによる強行的な手段もあるが、ルワンダのように相互理解が進まなかった結果、悲劇的な結末を迎えることが多い。
現在のフェミニズムを巡る論争を見る限り、フェミニスト側にも、それに反発する男性側にも問題があるように私は思う。
私たちが理解しなくてはいけないのは、過激な主張をする女性が出てしまうほどこれまでの社会の女性に対する扱いがフェアじゃなかったことだ。例えば、性別を理由に、不当に減点され、長らく志望していた医学部に入れなかったらどう思うか。性別を理由にいくら一生懸命働いても、会社内で正当に評価されなかったらどのように感じるか。自分の身に置き換えると、少しは実感が湧くのではないか。もちろん、こうすることで問題が根本的に解決すると思わない。ただし、こうして違う立場にある「他者への想像力」を持つことが。まず相互理解を成立させる上で必要なのではないか。
一方で、相互理解の成立には双方歩み寄りが必要だ。そのように思うと男性という大きな主語をひとくくりにした過激な攻撃は、ナンセンスではないか。より包摂的な・穏健的な運動も今後必要になってくるのではないかと、私は思う。
【2】男性差別を取り上げるべきか
ところで、上野氏の祝辞に対して、「男性も、飲み会で多く払わされたり、社会で不当に差別されることがある」「性差別をあたかも女性だけの問題のように捉えて、片面的だ」という声がある。
確かに、これに対しては私も実感がある。正直、飲み会で男性が多く払うのは意味わからないし、それを当たり前とする合コンや新歓イベントは消え失せればいいと感じる。社会が求める「男性らしさ」がいかに多くの男性を苦しめてるか、彼らが弱音を吐くのを妨げているか、私も身にしみて感じている。
ただ、ここで上野氏がこれらの「男性差別」的な側面を取り上げるべきかという点に対しては私は疑問に思う。確かに、より多くの視点を含んだ方が、より多くの人が受け入れられるような祝辞になっただろう。ただ、上野氏が「これまでは自分の努力が正当に評価されるような環境にいたが、そうじゃない環境がこれからは待ち受けている」ことをいうために、自分が長年取り組んできた女性差別を引き合いに出したことに僕自身は違和感がない。
このような主張には既視感がある。例えば、日本の戦争被害を語る時に、必ず聞こえてくるのが、南京大虐殺や慰安婦といった他国の被害も取り上げろという声だ。在特会も自分たちがヘイトスピーチ団体と批判された時に、なぜメディアは日本人へのヘイトスピーチを取り上げないのかと度々主張する。これって、どうなんだろうか。
もちろん、もし「性差別」をテーマにする講演だったら、双方の視点があったほうがいいだろう。それこそエマワトソンの国連でのスピーチみたいなのが模範になるであろう。ただ、上野千鶴子の祝辞において特定のテーマが求められていた訳ではない以上、自分が長年取り組み、強烈な原体験をもっている女性差別を取り上げることは、私には自然なことのように考えられる。
もっとも、男性も社会的な「男性らしさ」像に苦しめられているのはいうまでもない。女性が社会的な「女性らしさ」に縛られているのと同様に。男性と女性双方が古来の「男性らしさ」「女性らしさ」に縛られずに生きていけるようにするのが、社会の理想ではないか。この点を意識した上で、我々は性差別について言論を展開していくべきだ。
【3】上野千鶴子という人物
ところで上野千鶴子という人物についてみてみると、この方が学者としてどうなのかという意見がネット上でかなり見られる。実際、過去の発言をみると、この点に関してはうなづけるところがある。過去に『古市くん、社会学を学び直しなさい!! 』で古市 憲寿と対談したパートにこのようなやりとりがあったのだ。
上野「私は経験科学の研究者だから嘘はつかないけど、本当のことを言わないこともある」
古市「つまり、データを出さないこともある?」
上野「もちろんです」
古市「それはいいんですか?」
上野「当たり前よ。それはパフォーマンスレベルの話だから。」
自分の意図するものに反する統計を出さないというのは、研究者としてはあるまじき行為であり、あってはならない姿勢である。
実際、今般の祝辞においても、上野氏は「統計は大事です」という一方で、彼女の統計の使い方に多くの疑問が出ている。統計に対する疑問はすでに多くの方によってなされており、以下の記事がわかりやすいだろう。
この記事に対して、僕自身全面的に賛同とは言い難いが、統計の部分に関しては慎重な検証が必要になると考える。
また、そのほかにも上野氏はこれまで過激で波紋を呼ぶような発言を多くしてきたため、彼女自身に対する悪い印象を多くの人が持っているのは仕方ないと言えば仕方ない。詳しくはここでは言及せず、気になった方は調べて欲しい。もっとも彼女は学者と運動家の二つの面があることにも留意しなくてはいけない。その一方で、運動家としての側面が学者としての品位を下げるようなことはあってはならないため、統計の使い方等に関しては批判的な視点で見る必要がある。
【4】東大男子はモテるのか?
そのほかに、個人的に気になった点としては、東大男子がモテるという部分だ。
「他大学との合コン(合同コンパ)で東大の男子学生はもてます。東大の女子学生からはこんな話を聞きました。「キミ、どこの大学?」と訊かれたら、「東京、の、大学...」と答えるのだそうです。なぜかといえば「東大」といえば、退かれるから、だそうです。なぜ男子学生は東大生であることに誇りが持てるのに、女子学生は答えに躊躇するのでしょうか。」
ここに関しては、実感がある一方で、主語を大きくしすぎている感も否めない。事実、男子の中にも東大を名乗ることを恥ずかしがる人がいるし、東大男子は傾向として「東大っぽい」って言われたくない人が多い(と筆者は感じる)。それは東大であることはステータスにもなり得る一方で、社会に存在する東大に対する偏見があるからだ。つまり、東大女子と異なり東大男子はモテて、東大生というステータスを謳歌していると一概に言うことは難しく、例外が実際にあることにも留意しなくてはいけない。一方で、そのあとの「男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがある」に対しては共感することができ、その背景にある女性に求められる「かわいい」像があるという発言にも納得がいく。結局、何事も主語を大きくすると、例外が数多くみつかり、いくらでも反論できる余地がある。その一方で、主語を大きくすることは、傾向を発見することにもつながり、意義を持つ場合も多い。結局我々がこの部分で留意すべきは、「かわいい」といった社会に存在する女性像の弊害であり、それはこの部分の発言が多くの共感を読んでいることからもわかる。
もちろん、これまで繰り返し強調してきたように、「強くあるべき」「家庭を支える」といった社会に存在する男性像にも同じことをいうことができ、結局いかに固定観念を排して多くの人が自分らしく生きられるようにするかは、男性と女性双方の課題だ。
【5】東大生は恵まれているのか
上野氏の祝辞にたいして、もう一つよくある反発としては、東大生だから恵まれているわけではないというものだ。具体的には、上野氏の「あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。」という発言に対してだ。これに対して、毒親から逃れて東大に入った人もいるという意見もある(上記の記事にもそれが言及されている)。確かに、そのような人は厳しい環境の中で努力したという意識が人一倍強く、上野氏の言葉に反感を覚えるのもうなづける。
一方で、努力が正当に評価される環境・制度の中にこれまでいたことは否定のしようのない事実であり、これを心に留めるべきだと私は思う。例えば、かつてのアメリカには黒人が入れない大学が多数あったし、かつての日本では在日韓国人は本名を隠し日本名で就活していた。人には人の苦しみがあるし、そこを這い上がってきた人に、「あなたは恵まれている」という言葉は何も響かないかもしれないが、その努力を最低限認めてくれる社会・制度があることはある程度留意しなくてはならないのではないか。理想論かもしれないが、私はこのように思うし、上野氏の言葉にはそういったメッセージも含まれていると思う。
【6】結論部分に対する大いなる共感
さて、上野氏の祝辞には多くのツッコミどころがあるものの、それでもこれまでの歴史や上野氏の体験を踏まえた上での、彼女の祝辞の結論部分は力強く、我々の心に訴えるものがある。
「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。」
世の中には恵まれない者も数多く存在し、同時にいくら恵まれている人でも弱い部分や恵まれていない部分が存在する。すべての人が弱さや恵まれていない部分を抱えていて、互いにそれを寛容に許し合い、支え合っていけるような社会。上野氏が提示した理想像は途方もないものかもしれないが、目指さなくてはいけない理想であり、一人一人がこの理想像を自分のあり方に落とし込めていくべきだと私は思う。
「あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。(中略)これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。学内に多様性がなぜ必要かと言えば、新しい価値とはシステムとシステムのあいだ、異文化が摩擦するところに生まれるからです。学内にとどまる必要はありません。(中略)未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。(中略)あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも(中略)生きていける知を身につけてもらいたい。大学で学ぶ価値とは、(中略)これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。ようこそ、東京大学へ」
大学に入学するタイミングでこのようなメッセージを聞けたら、私は大学という場所をとても楽しみに感じるだろう。この祝辞を読んでも、自分が触れる異質性を自分の一部に変え、強みにできるような人でありたいと改めて感じた。
今年入学する新入生たちと同様、これからの人生において、未知なる世界が多く自分を待ち受けていると思う。そのときに、上野氏の祝辞にあるメッセージを自分のあり方や行動にしっかり反映できるような人でありたい。
反発や批判を多く覚悟しながらも、このような強いメッセージを発した上野氏に感嘆の意を示すとともに、これからの人生に待ち構える多くの未知を前向きに迎えていきたい。
【※】追記
この記事の執筆にあたって多くの上野氏の祝辞にまつわる記事や意見を読んだが、中でも面白かったのはこれだ。
これを読んで、こういう視点もあったのかと純粋に感嘆した。現場で生で祝辞をきいたときの印象を軸に、今回の祝辞の肯定的な側面と否定的な側面双方をしっかりとらえている。
今回の祝辞は多くの側面を含んでいるため、単純によかった/よくなかったの2元論で語れないことを改めて感じた。その上で、双方の視点から様々な意見をきけることをこれからも楽しみにしています。