2021年読んだ本トップ10
2021年も多くの素敵な本との出会いがあった一年であった。
今年私が出会えた素敵な本のうち10つを取り上げてここで紹介したい。簡単な内容紹介と共に、自分がこれらの本を通して考えたことや新たに沸き起こった疑問についても少しばかり書いた。
順番は順不同で、ランキングはつけていない。そして、残念ながら、紹介できなかったものも数多くある。
私の内容のまとめ方に間違っている部分があるかもしれないことは重々承知しつつも、それでも自分がインプットしたことをアウトプットすることに価値があると考え、本記事を書いた。
反対意見や間違いの指摘も含め、いろんな意見や感想をお待ちしております。そして、ぜひ皆様のおすすめもお待ちしております。
〇柳美里『飼う人』
『JR上野駅公園口』で知られる作家・柳美里による短編集である。本書では奇妙な生き物を飼う人の物語が4つ収録されている。生き物のラインナップは、イボタガ、ウーパールーパー、イエアメガエル、ツマグロヒョウモンである。この中で多くの人にとって耳馴染みがあるのはウーパールーパーくらいであろう。しかも、イボタガとツマグロヒョウモンは幼虫、つまり俗にいう芋虫の段階から飼っているから、なおさらその奇妙さが際立つ。
主人公は、それぞれ子どもができずに夫との関係も崩壊しそうな状態にある家庭主婦、会社にリストラされ仕事も見つからないままコンビニのバイトでなんとか生きている男性、新たに引っ越した地で生活に慣れないなか破綻した子どもとの関係にも向き合わなくてはならない女性、妻に家出をされて鬱を患った男性、である。
本を閉じた後、この本を読む過程で経験した感情の揺らぎが再び一気に甦り、本が閉じられているのにも関わらず、私の心はこの本の世界に引き戻された。しかし、その感情の揺らぎは何も特別なものではなく、絶望や諦め、そしてほんのわずかにみえる希望など、すべての人が日常生活やこれまでの人生で多かれ少なかれ経験したことがあるものばかりである。
この本を通じて改めて日常や我々の生に内在するあらゆる要素が、ありふれたものであると同時に私たちの前に大きく立ちはだかるものであることに気づく。
本書に収録されている「イボタガ」に登場する一文だが、例え「何もない日々」であっても積み重ねによってその日々が別のものに転じうるということに心当たりがある人は多いのではないだろうか。自己啓発系の本やビデオを見ると、よく「行動を起こして自分の人生を変えよう」的なメッセージを目にする。否、「何かがある日々」でも「何もない日々」でも、日常の積み重ねは意図しない変質をもたらす。
(行動を起こして自分の人生を変えるという考え方は、自由意志と行動主義への過剰な信仰なしには成り立たない。)
そして、そんな「何かがある日々」でも「何もない日々」でもありうる日常生活の中で私たちが出会う感情の揺らぎは、我々を打ち砕く可能性があるのと同時に、我々を救いうる一寸の希望をもたらす可能性がある。だからこそ心の奥で起きている感情の揺らぎ一つ一つを我々は大切にした方がいい。4つの奇妙な物語を通じて、私はなんとなくそんなことを学んだ気がする。
こちらは巻末についている解説にある一文である。
そんな心に傷口を抱えた者たちの物語を読んでいると、ふと私たちも心のどこかに傷口を抱えていることに気付かされる。そして、本書の登場人物たちが生き物を飼っているように、私たちも何かで自分たちの傷口を埋めようとするのである。しかし、不思議なことに、その何かで傷口が埋まるとは限らず、むしろ傷が広がったりもする。そんな誰しもが、たとえ生き物を飼ったことが全くない人でも、経験したことがある日常生活におけるありふれた苦悩のプロセスを、作者は奇妙な生き物を飼っている人の物語に託して描いている気がする。
〇Sally Rooney "Normal people"
最近英語圏で注目されているアイルランド出身の若手作家Sally Rooneyの作品である。彼女の小説はまだ三冊しか出版されていないものの、その注目度はすでにかなり高いものとなっている。二作目であるNormal Peopleを出版した時点で、下記の記事のように、彼女をミレニアム世代を代表する作家と呼ぶ声が高まっていた。
これから紹介する"Normal People"はすでにドラマ化されており、もう一つの著作である"Conversations with Friends"も2022年にドラマ化される予定である。
さて、本作はConnellとMarianneの二人を主人公とする恋愛小説である。(すべての恋愛小説とよばれる作品に付きまとう「恋愛小説かどうか」という問いはいったん無視する。)
人間関係が私たちに影響をもたらすというのはすべての人が実感していることだと思うが、本作はかくも人間関係が私たちに様々な異なる影響をもたらすことを描いている。そして、最も強い引力でひかれあう二人の関係が、人間関係による影響のスペクトラムの中でその端にある極値であることを、本作を通じて痛切に実感できる。
残念ながら、本作はまだ邦訳されておらず、日本の読者たちにとっては手が届きにくいものになっている。しかし、平易な英語で書かれているため、英語で何か本を読んでみたいと思う人には恰好な作品であると思う。
さて、本作の内容の紹介に移ろう。
Connellは高校のサッカー部に所属し、クラスの人気者である一方、Marianneはその内向きで反抗的な性格からクラスで嫌われていた。両者はあることをきっかけに交流を持ち、やがて深い関係になっていくが、ここから変容が両者に起き始める。例えば、Connellは人気者である自分の地位に満足していたものの、読書家で博識であるMarianneを通じて、知の世界に惹かれる自分に気づく。そして、それまでの人生プラン通りのそこそこの大学に通うか、名門大学であるダブリン大学に通うかで悩みだす。やがて、ConnellがMarianneを深く傷つける出来事が起き、両者は一度別れる。結局ダブリン大学に進学したConnellは高校時代とは打って変わり、内気で友達がいない人になってしまった。しかし、ある日Connellは、大学に入って人気者となり、自分とはすっかり立場が逆転したMarianneと再会する。二人は再び心の深い部分を通い合わせる関係となり、二人の関係も、二人のそれぞれの性格も、やがて幾度もの変容を経ることになる。
ここで、私たちは人間関係が私たちに与える真逆の二種類の影響をみることができる。つまり、大多数の人との表面的な関係が私たちに与える表層的な承認と、一人もしくは一部の人たちとの間にできる深い関係が与える根本的な変容である。ConnellはMarianneなしには知の世界に惹かれる自分には気づかなかったであろうし、(本記事では時間の都合上割愛しているが)MarianneもConnellなしでは起きなかった数多くの変容を経験する。
本書は一応ある結末を迎える。しかし、Sally Rooneyのほかの著書でも起きる現象だが、どうも結末が結末だと思えないのである。なぜなら、何らかの影響をもたらす、場合によっては深い変容をもたらす複雑な人間関係は今後も登場人物たちに何らかの影響を与えるであろうし、それが物語の終結後も続くような気がしてならないのである。そして、終わらぬ物語が、登場人物が違うだけで、我々の人生と同一であることにはっと気づくのである。
〇余華『死者たちの七日間』
『活きろ』や『兄弟』などで知られる、現代中国で最も影響力が強い作家の一人とされる余華による作品である。
本作は、ある男が不慮の事故で亡くなり、死後の世界で自分と同じように孤独の中で亡くなった方と出会いながら、自分の人生について振り返る話である。本作の主人公は愛し合っていた妻と離婚し、自分を男手一つで育て上げた父が不治の病にかかった後に家出してしまったため、孤独の中で生きていた。そして、生活することもままならない中、不慮の事故に遭う。死後の世界では、自分の家族やお世話になった人たちと再会すると共に、不幸な死を遂げた人たちに数多く出会う。政府に隠蔽された大型火災の犠牲者たち、川に捨てられた嬰児たち、半地下の家で極度の貧困の中で暮らしていたカップル。いずれも荒涼な社会の最下層にいた人たちである。
さて、特に興味深かったのが死後の世界においてもなお貧富の格差、地位の格差があったこと。例えば本作で死後の世界の火葬場が登場するが、火葬場の待合室には庶民席とVIP席があり、さらにVIPの中でも市長といった要人の火葬にかけられる時間は格別に長かった。死してもなお現実世界の格差は存在する描写は、貧富の差と地位の差が未だに根強く誇る中国の現状を想起せずにはいられないものである。
一方で、本作で墓がないが故に安息できない死者が暮らす世界が登場するが、そこではむしろ彼らは自由で、心ゆくままに暮らしている。改めて、現実世界で生きる我々の生とは何か、人間性の意味は何かと考え込んでしまった。
また、本作に登場する度肝を抜くような事件が数多く描写されるが、その多くが実際に中国であった事件だという。例えば、遺棄された27体の赤ん坊の死体が川で見つかったという事件が本書で登場するが、実際にかなり近しい事件があったという。調べてみたところ、少し前まで一人っ子政策を採っていた中国では、堕胎する人が多く、取り出された胎児は"医療ごみ"として大量に廃棄されるという。これは「一人っ子の国」というドキュメンタリー映画でも描写されている。
「現実は小説よりも奇なり」という言葉を作者は本書の帯で載せているが、この言葉はまさに現実の荒誕さの前には大作家の想像力も勝てないと言うことを伝えている。
本作では、主人公と妻が生前別れた話、男手一つで主人公を育て上げた父の苦労話などが登場し、荒廃した現実の中で大切な人を愛しながら懸命に生きる人の魂の美しさを、平易だが心に突き刺さる言葉で綴られている。本作を通じて、人の魂は富の多寡や地位の貴賤では決して計れないということを痛いほど感じることができる。
しかし、荒廃した現実の中で我々はどこまでその魂を持ち続けることができるのか、と問われれば、死後の世界を舞台とする本書はか弱い答えしか与えてくれないのかもしれない。
〇Trevor Noah "Born a Crime" (邦題:『生まれたことが犯罪!?』)
本書は南アフリカ出身で現在アメリカを中心に活躍しているコメディアンTrevor Noahの自伝である。本書は邦訳もされている。
Trevor Noahはアメリカでニュースショーのホストも務めており、わかりやすい英語のジョークを混ぜたショーは英語中・上級者にとって英語の勉強となると同時に、現地のニュースを知る格好のメディアともなる。
さて、Trevor Noahが生まれた当時、南アフリカではまだアパルトヘイトと呼ばれる人種隔離政策が続いていた。彼は白人と黒人の間に生まれたダブルだが、アパルトヘイトのもとでは異人種間の交際が禁じられていたので、彼は生まれたことそれ自体が犯罪であった。それがこの自伝のタイトルの意味である。それに加え、南アでは多くの黒人が貧困に苦しみ、彼はそれを貧困の連鎖(the cycle of poverty)と呼んでおり、いつか自分もそこに落ちるかもしれない恐怖と隣り合わせで育ったといいます。
そんな過酷な境遇の中で育ったTrevor Noahだが、コメディアンらしく彼の幼少期の面白いエピソードをたくさん紹介する。たとえば、彼の母親は敬虔なクリスチャンで、毎週末になると教会に通っていたが、教会に行くのが面倒くさい彼はいろんな理由をつけてはそれを阻止しようとする。ある日、車のエンジンがうまくかからない中、歩いてでも教会に行こうとする母に対し、彼は「神がやめとけって言ってるんだ」としきりに母に主張する。
そんな彼だからこそ、恥ずかしい失敗も含め、自分の経験から率直に学び、あらゆる教訓を引き出せたのかもしれません。例えば、彼の愛犬であるFufiはある日ほかの家の子に誘拐され、母親による交渉を経てやっと取り返せた。しかし、彼は何よりFufiが相手の家から自分たちの方に戻ろうとせず、母親の交渉中もこっちに来なかったことに嘆いて大泣きするのでした。そこで母親にいわれたことで、ふと愛とは所有することではないと気づくのであった。
そんな素敵で面白い話にあふれる本作だが、同時に人種差別への警鐘も随所で鳴らされている。そして、人種差別とは何か大きなものというより、日常生活で随所にみられるありふれたものであることも描かれている。
現在の社会においても人種差別は深刻な問題とされているが、本書は現代社会に生きる我々にとって何か学びとなるのであろう。
人種差別への警鐘から、幼少期の面白エピソードやそこから学んだ教訓までをカバーした本作は間違いなく多くの人が面白く読める作品であり、私もいつの日か本作のように自分の人生を面白く率直に語れるようになりたいと願うものである。
〇安田峰俊『移民 棄民 遺民 国と国の境界線に立つ人々』(『境界の民 難民、遺民、抵抗者。 国と国の境界線に立つ人々』)
本書は、『八九六四』などで知られる現代中国を主なテーマとするルポライター安田峰俊による著書であり、彼が2015年に出版した『境界の民』を2019年に文庫本化したものである。
本書で主題となるのは日本にいるベトナム系難民やその子孫、日本の帰国子女、多くの国に国家として承認されていない台湾の人々など、「国と国の境界線に立つ人々(境界の民)」である。
まず、本書で私の心に突き刺さったのが、境界の民たちが抱えるアイデンティティの葛藤を「わけのわからない黒い穴」と著者が表現した箇所である。あるベトナム難民二世の子は、幼少期より自分は日本語を母語とするものの周囲から日本人ではない者としてなんとなく扱われ、そしてふとしたときに母に「この子はベトナム人じゃない」(この発言自体はなんの悪意もないものである)と言われたあとに、このような感覚を覚えたという。
「わけのわからない黒い穴」は、華人二世という境界の民である私も身に覚えがあることである。(もちろんだからといって私が華人二世、もしくは境界の民という複雑な人が混在する属性を代表できるとは一切思わないが、)
彼の著書をみたことがある人であればわかるが、安田峰俊は我々の持っているステレオタイプ化した見方に現実の複雑さを突き付けて揺さぶるのが大変得意なルポライターである。その技法はこの本でもいかんなく発揮されている。彼がゆさぶろうとした我々の見方の一つに、マジョリティのマイノリティに対する同情、つまりマイノリティの者たちを「かわいそう」と思う感情である。たとえば、ベトナム難民二世として生まれたある女の子は、外国人を取り上げる番組や、他の支援者を排除しようとする一部の支援者について以下のように語った。
実際、本書のほかの部分で普通に日本人の子どもたちと同じように、アニメを好きになったり、就職したりするベトナムの子たちが紹介されており、ベトナム難民の子孫という言葉に受ける印象とは裏腹に、彼らは自分たちの日常を"日本人"と何の変りもなく送っているのだ。
また、日本では外国や外国人に対して語るとき、やたら親日or反日の枠に押し込めたがる人たちも多くいる。「親日」という視線がやたら投げかけられる顕著な一例が、台湾であろう。本書では著者と台湾の学生との以下のやりとりが登場する。
もちろんここに登場した台湾の学生たちの言葉はあくまで一例にすぎないが、現実がかくも我々が思うよりも複雑であることがうかがえるであろう。そして、「国」という枠組みは我々をかくも思考停止に陥らせ、現実の複雑さへの把握を怠らせるのである。
そして、「反日」の被害者もいる。本書では、ベトナム難民の子孫の中に一定数でネトウヨが存在することが取り上げられる。同じような現象は在日コリアンの中でもみられるという。ネット空間上にある醜い言論にさらされた結果、アイデンティティに悩む多感な思春期の子供たちは「自分が過剰に日本人であろうと」する意識や同族嫌悪的な心理に突き動かされ、過激な言論に手を染めるという。
「国」という枠組みに悩まされるのは何も外国人ばかりではない。日本に生まれ、日本を故郷として持つ日本人でも、それによって疎外されてしまうことがある。
たとえば、本書では日中ハーフである美香さんと由紀さんの事例が第四章で紹介されているが、東日本大震災が起きた際に、上海留学中であった二人は上海で義援金を多数集めたという。その活動は多くのハードルを乗り越えながら、最終的には100万円以上の義援金を集め、本国に送ることができたという。しかし、このような活動につきものの、名前だけを出す、顔だけ出す、いわゆる「意識高い系」の学生たちもたくさん来ていたという。やがて、就活になると、すべてをそつなくこなす「意識高い系」の学生は難なく就活でうまくいく一方、日本の就活のルールをよく知らず、履歴書を手書きで提出した由紀さんやピンク色のスーツで面接に臨んだ美香さんは就活でひどく苦労する。第四章でもう一人の日中ハーフである張さんが登場するが、彼は中国の姿を日本に伝えたいと思い、日本のメディアに入ったものの、中国人へのステレオタイプに沿った偏った報道に違和感を覚え、最終的には離れたという。
彼らの話を著者は以下のように総括する。
〇東浩紀『ゲンロン戦記-「知の観客」をつくる』
本書は、哲学者・評論家である東浩紀が、自身で会社ゲンロンを立ち上げ、今に至るまでの苦労を本とした作品である。
東浩紀は大学時代から周囲に注目されており、やがて哲学の研究者としての道を歩みだすと、順調に出世していった。そんな研究者としての出世コースを歩んでいた作者はとあるときに、自らの手で様々な評論を世に出したいと思い、ゲンロンを立ち上げる。会社を立ち上げた後も、自分は文章を書くことに専念し、財務といった経営にかかわる仕事はスタッフに任せればいいと考えた。やがて、これがとんでもない事態を引き起こすのであった、、、、
本書で個人的に特に印象に残っているシーンが、財務を任せていたスタッフが会社の金を着服し、最終的に作者と一部のほかのスタッフで地道に領収書を数えなくなったシーンである。
このような経験を経た作者は、現実社会と浮遊した現在の社会・人文科学のあり方をしばしばTwitterなどのSNSの場で批判する。そのすべてに賛同することはできないが、哲学研究者としてキャリアを出発しながらも、自ら会社を立ち上げ経営するという経験を経たからこそ、現実の複雑さにより寄り添った評論を作者はできるようになったのではないか、とも考えられる。
作者だけに共通することではないが、コンテンツを作る、新規ビジネスを作る、社会を変えるような仕事をするといった、いわゆる”大きなこと”をしたいと思う人は数多くいる。しかし、往々にしてより根幹にあるのは、領収書を数えて集計するような地道な仕事である。
職業に貴賤はない、ということを本書を通じて改めて痛切に感じた。
〇與那覇潤『中国化する日本』
本書のタイトルを目にして何か不気味な感情に襲われた人も多いのではないか。
中国化する日本、日本が中国に乗っ取られるのか!いや、そんな本ではないです。(そして、そういう言説を読みたい方は、そういうお話はインターネットでいくらでもタダで読めるのですから、ここで本記事をパタンと閉じてその手の掲示板かコメント欄にお帰りください(笑))
本書は一般的には「西洋化」とされる「近代化」を「中国化」と読み替え、日本の歴史を「中国化」に抗う歴史として整理しながら、近年のグローバル化をはじめとする潮流の中で日本も「中国化」に抗えなくなるのではないかという内容のものである。
なぜ「近代化」を「中国化」と言い換えられるのかについて、多くの方は首をかしげるであろう。
筆者によれば、中国の宋の時代に近代を構成する多くの要素が中国で成立したという。筆者は、近世宋朝中国=中華文明の本質を「可能な限り固定した集団を作らず、資本や人員の流動性を最大限に高める一方で、普遍的な理念に則った政治の道徳化と、行政権力の一元化によって、システムの暴走をコントロールしようとする社会」(p.60)とまとめる。より細分化すれば、以下のような要素になるという。
これらの要素はすべて近代現代社会にみられる要素であることがわかるであろう。Dは今風にいえば、新自由主義×グローバル化であり、Bは民主主義や人権といった普遍的な価値観が該当するであろうし、現存する唯一の超大国アメリカの大統領はまさにAの権威と権力を併せ持った存在である。そして、いい大学を出たエリートは頭の良さのみならず様々な点で社会的に地位が高い存在とされることが多く(C)、近代化・現代化に伴い地域共同体は解体化しやがて個人が自分で作り上げたネットワークの方が成功の可否を分ける(E: 中国における宗族とは異なるものの、人間関係のネットワーク化という点では同一。)
(一部の読者は、近代において重要な要素である人権や法の支配、民主主義がないというかもしれない。なぜこれらの要素が歴史上他の国よりも進んでいた中国で生まれなかったかという問いについては、本書でも問いとしては提示されているものの、深くは言及されていない。が、上記にあげた要素が近代以降の人間の歴史に広く見られ、近代を形作る重要な要素となっていったことは確かである。)
上記に挙げた五要素をみて気づいた方もいるかもしれないが、日本社会は長い間中国社会とすべての点において真逆であったのだ。
日本近代史を専門とする筆者は、日本は江戸時代に上記に挙げた要素と真逆の社会が確立し、その前後の歴史を、一部中国化勢力が改革を試みたが、結局は反中国化勢力が勝利する歴史として描きなおす。(たとえば、明治維新は前者であり、昭和の軍国主義や戦後成立した日本型雇用制度は後者に該当する。)
驚くべきは本書の内容はほとんどが既存の研究成果をもとにしていることである。既存の研究成果をもとに、著者は歴史を新たなストーリーで描きなおしたのである。粒感が大きすぎてやや首をかしげる箇所もなくはないものの、歴史上にあった個々の出来事とそれに対する研究をもとに新たなストーリーを描く著者の技量にただただ驚嘆するばかりである。
〇國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
本書は、なぜ人は退屈するのか、退屈に耐えられないのか、そして耐え難い退屈からいかに逃れられるか、について、古今の様々な学者の言説を紹介しながら、問うた本である。
ある哲学者が、「豊かな環境で暮らす幸せな西欧の若者は、貧しい環境にいながらも戦っているソ連の若者をうらやましがるだろう(大意)」といったといいます。そう、人は豊かで幸せな環境にいても、何か奮闘する目的がなければ耐え難い退屈に苦しむし、貧しく厳しい環境であっても、何か奮闘する目的があれば、自分を苦しむ根源的な退屈から逃れられ、満足した気分でいるであろう。
それが人類の発展を促した一面もあれば、数多の殺戮や痛苦を生み出してきたことも人類の歴史をみればうかがえる。
我々は生活する中で、よく退屈する。
例えば、電車を待つ間何もすることがなく、周りをみたり、スマホをいじることで、退屈を解決する「気晴らし」を探そうとする。一方で、本来退屈を解決しようとしてくれる「気晴らし」が逆に退屈を生み出すこともある。例えば、暇だったから、知り合いが誘ってくれた飲み会に行ったものの、終わった後にそれがまったく楽しくなかったことに気づく。
これらの根本には、すべて人を苦しめる根源的な退屈がある。だからこそ、我々は、何かの奮闘できる目的や目標をみつけようとする。しかし、たとえ奮闘できる目的や目標を見つけたとしても、電車を待つ時間のように我々を退屈にするものからは逃れられないし、何か気晴らしを見つけてもそれが退屈のもとになったりする。
ちなみに以上の内容は、本書でも取り上げられている、ハイデガーの考えである。このうち、何らかの目的や目標を見つけそれに向けて奮闘することを、ハイデガーは「奴隷状態」と呼んでいる。
さて、それではどのようにしたら根源的な退屈から脱け出せるのか?
ハイデガーは「決断」という解決策を提示した。つまり、自分が身を投じれる何かに身を投じることを決断することである。しかし、作者はこの解決策に強く反発した。それは、まさにハイデガー自身が言った「奴隷状態」にむかうことではないか。
そして、ハイデガーという大哲学者が提示した解決策に満足できない作者は、本書で自らの解決策を見つけようとするのであった。
本書の冒頭で以下の言葉が登場する。
パンとサーカスという言葉があるが、まさにパンともサーカスとも異なる何か特別なもの(バラ)に人生が彩られなくてはならないということを、作者なりに宣言した言葉である。(パン=生活必需品、サーカス=気晴らし)
そんな言葉で始まる本書は、退屈に悩まされる我々の生において、いかに「バラ」を見つけるかについて、ささやかなヒントを提示してくれる珠玉の名作である。
〇フランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける―孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』
ギリシャ哲学や中国哲学を専門とするフランス人哲学者フランソワ・ジュリアンによる著作。タイトル通り、西洋からはカント、ルソー、ニーチェ、東洋からは孟子を取り上げ、彼らの哲学を動員しながら、「道徳」をいかに基礎づけられるか、を問うた本である。
思えば、我々も普段生きる中でいろんな道徳をめぐる考えに出会い、それを信じたり信じなかったりする。しかし、なぜその道徳は正しいのか、つまりその道徳の基礎(根拠)は何なのかと問われたら、多くの人は答えに窮するだろう。西洋と東洋の知恵を双方動員しながら、その問いに答えようとするのが本書である。
しかし、なぜわざわざ東西の比較を行うのだろうか。筆者は次のように答える。
つまり、西洋哲学がどのような先入見によって作り上げられているのか、そして東洋哲学の先入見や理論的な豊かさ、を先に挙げた哲学者たちの比較を通じて解き明かそうとするわけである。
一例を紹介しよう。
まず、西洋では古くから「神」による道徳の基礎づけがなされていたが、近代にかけてそれが瓦解してゆく。そこで神に頼らずに道徳を基礎づけようとした試みとして、ルソーとカントが紹介される。ルソーは人が他者に対して持つ憐みを道徳の基礎づけとした。つまり、我々が大変な境遇にある他者に対して持つ憐みの感情が、我々を道徳的な存在、人間らしい存在にさせており、憐みから「社会的美徳のすべてが」由来する。
しかし、ここでルソーは一つの壁に突き当たる。なぜ人は赤の他人に対して憐みを抱くのか。詳細な内容は省くが、ここでルソーは利己主義の問題、つまり人が他者に憐みを持つのは、結局その利己心からではないか、ということにつきあたる。
ルソーとは全く別の方法で道徳を基礎づけようとしたのが、カントである。カントは憐みといった感情に訴えることなく、純粋に理性によって道徳を基礎づけようとしたのである。しかし、カントもまた一つの壁に突き当たる。それは、道徳を動機づけるものはなにか、つまりどのようにして人々は道徳的な行為に駆り立てられるか、である。ここに憐みを道徳の基礎づけの手段として放棄した、カントの弱みが浮かび上がる。
では、東洋哲学の代表者としてあげられている孟子はどうしたか。
孟子はルソーと同じく、憐みによる道徳の基礎づけを試みた。井戸に落ちそうな子どもがいたら我々は助けずにはいられないという、高校の漢文の授業で習った有名な内容から、孟子は我々の心に潜む憐れみという道徳の端緒を見出し、この端緒を伸ばしてゆけば人は道徳的な存在になれると説いた(また、すべての人に道徳の端緒が備わっているという意味で孟子は性善説を唱えた)。では、なぜ孟子は先に見たルソーの壁にぶち当たらなかったのか。西洋では(ルソーとカント双方において)、個人を他者から独立した存在とみなすのに対し、東洋では個人の存在は認めるものの、個人は他者との相互作用として成り立っているとみなし、それゆえ憐れみも他者に対する「忍びざる反応」として理解する。
このような中国哲学でみられる傾向は、西洋由来の存在(being)に対して、共在(co-being)という風に表現することができる。
こうして、ルソーとカントの比較だけではわからない、西洋では自明とされる前提を、東洋哲学との比較を通じて我々は知ることができ、道徳をどのように基礎づけるかという問いに対する思索をより深めることができる。
すべてのものが人為(もう一人の東洋の大思想家である荀子の言葉を借りれば「偽」)によってつくられたこの社会において、「道徳」というのは時代遅れになりつつあるも、依然として重要な、時として我々の意識に自明の前提として無意識に働くことのある、概念である。
それを問うことはきっと多くの人にとって興味深い思索の旅になるであろうと思い、本書をここに紹介した。
〇アンヌ・チャン『中国思想史』
600ページを超える大作をここにあげることに対して逡巡の念がなかったわけではないものの、やはり個人的に印象に残った本をと思い、本書をあげた。
本書の著者であるアンヌ・チャンはその出自を中国に持ち、フランスで育ち教育をうけた哲学者である。自身のバックグランドから綴った著者の以下の言葉にまず、私は言い知れぬ深い感銘を受けた。
先に紹介した安田峰俊の『移民 棄民 遺民 国と国の境界線に立つ人々』に登場した「わけのわからない黒い穴」に悩むすべての人に刺さる言葉ではないだろうか。同時に、この社会に存在する規範に悩むすべての人にとって励みになる言葉ではないだろうか。
さて、本書は文字通り中国の思想をその歴史に沿って紹介するものだが、個々の思想を紹介すると同時に、著者は中国の思想全般に存在する傾向も明らかにする
ここにも先にフランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける』で述べた存在(being)よりも共在(co-being)を重視するという傾向がみてとれるが、それが世界全体に対する見方にまで及んでいるのである。
本書は中国の思想を学ぶ恰好の教科書であると同時に、著者が訳者陣に投げかけられた言い方を使えば、著者による中国思想への「ヨーロッパ的まなざし」を随所に感じられ、同時に先に述べた著者による「ある文化を継承しつつもその文化に囚われず、批判的距離をとることを決して放棄しない」姿勢を見ることができる。
本書は最後に近代に西洋からの衝撃にさらされ、西洋の思想や科学を学ぶと同時に、自らの伝統の扱い方、それを継承するのか新たに創造しなおすのか、それとも放棄するのか、に中国の思想家たちが直面したところで締められる。
それは勃興する大国としての今日の中国にも当てはまるであろう。西洋(と日本)の蹂躙にさらされた近代を経て、再び大国となった現代において、中国はどのように自らを定義するだろうか。