政教分離原則について
一昨日、衆議院議員会館の多目的ホールで神社本庁の「政教問題を糺す会」に呼ばれ、「孔子廟訴訟について」講演させていただきました。
判例時報という法律家(8月21日号)が読む専門誌に僕の論稿が掲載されたことから、これに基づいて講演しました。日本で3例目の政教分離違反の違憲判決ということもあって担当弁護士の視点からみた孔子廟違憲訴訟についての論稿の掲載がかないました。
靖国神社参拝を支持する右派の弁護士の論文ということで、編集部内でも議論になったようですが、3例目の違憲判決という威光でなんとか掲載にこぎつけました。これも一つの世論の変化を促す成果だと自負しています。
その内容については、また別な機会に書こうと思っていますが、当日の講演の中で、少しひらめいたことがありましたので、忘備の為も兼ねて、ここに記しておこうと思いました。
政教分離原則のことは、それが天皇陛下の靖国神社ご親拝を阻んでいるという意味において、日本国憲法における最大の問題点だと理解しています。あとの問題は、9条のことと、1条のことですが、9条については、既に自衛隊という軍隊があり、集団的自衛権の行使についても、限定的ながら認められることになり、憲法の改正のことも、近い将来に実現する目途が立っていると思います。
1条のことというのは、天皇陛下が国家元首であることを憲法に明記する改正を必要と考えていますが、これについても、国際社会は天皇をもって日本の国家元首として扱っていますので、既に実はとっているともいえます。
靖国神社の英霊祭祀はしかし、愛媛県護国神社訴訟の違憲判決によって、公式参拝は憲法に違反すると考えられており、いまだ、首相の参拝についてさえ、私的か公式かが問題にされるという状態です。靖国神社の英霊祭祀に僕がこだわっているは、これが日本という国家の歴史的・政治的・法的連続性にとって非常に重要な意味をもっていると考えているからです。
現在でも、憲法学者、法律家の大勢は、日本における大日本帝国と戦後の日本国との間では、法的連続が絶たれていると考えています。その論理的な根拠は、8月革命説ですが、憲法無効論に立つ僅少の人たちも、同じように国家の断絶を前提に議論されています。すなわち、国体の連続に対する問題です。僕が、日本政府の公式見解である日本国憲法=大日本帝国憲法改正論を支持するのは、戦後も戦前からの日本の国体が維持されていると考えるからですが、8月革命論者と無効論者は、ともにこれを否定するところからはじまります。
国体の維持は、国家の連続性です。これを担保するのが「天皇」の存在ですが、8月革命論者は、戦後の日本国憲法における「天皇」は、戦前の大日本帝国憲法の「天皇」と別な存在であるとみます。私たち保守派は、両者の同一性を認め、そこに歴史的連続性を積極的に肯定します。無効論者がどう考えているのかはわかりません。
この連続性の障害になっているのが、靖国神社の公式参拝問題ですす。戦前の国家と戦後の国家に連続性があるのであれば、日本国の為に命を捧げた兵士の御霊を顕彰する英霊祭祀が国家的行事でなされることは当たり前のことになります。他方、戦後の日本は戦前の否定と反省の上に成り立っているのだという反省イデオロギーを信奉する戦後左派は、これを絶対に認めません。
そこで。靖国神社公式参拝を支持する論の積極的構築が、戦後と戦前の断絶を埋めるためになすべき、私たちの喫緊の急務だと考えていました。今回の孔子廟違憲訴訟の目論見もそこにあったのですが、そのことについては、最終的に最高裁で勝つまでは明らかにできませんでした。
政教分離という憲法規範の捉え方に関係します。ここに忘備として書いておこうと思ったのは、そこから先のことなのですが、そろそろ本日の裁判の準備に取り掛からねばならない時間になりましたので、中断し、後で執筆をつづけることにします。項目だけ。
1 政教分離原則の意義 ⇒ 啓蒙主義的理解vs多元主義的理解
2 目的効果基準論の意義 ⇒ 宗教の定義 vs 国民の宗教的意識
3 政教分離と公共性 ⇒ 宗教性の相対化と公共性との関連
4 国家儀礼と宗教儀式 ⇒ 靖国参拝は、公共的な国家儀礼なのか。私的な宗教的儀式なのか。
以上
(2021/8/26 MLへの投稿から)