不増不減、不垢不浄、不増不減が分かった!?
こんにちはトクです。本日もお読み頂きありがとうございます。
今回は、不生不滅、不垢不浄、不増不減について考えてみたいと思います。
皆さんお馴染みの般若心経に出てくる一節ですね。
般若心経と言えば、三蔵法師ですね。三蔵法師と言えば西遊記。西遊記と言えば孫悟空を思い浮かべます。
ちなみに私の母のお兄さんの名前も三蔵です。(笑)
孫悟空と今回のお話は何の関係もありませんが。(笑)
さて、話しがいきなり脱線してしまいましたが、不生不滅、不垢不浄、不増不減の意味はなんなのでしょう?
文字どおり生じることもなく、なくなることもなく、汚れもせず清らかでもなく、増えることも減ることもない、という教えですね。
不という字が六つついているので、これを六不(ろっぷ)の教えと言うそうです。
それは良いのですが、不生不滅。生まれもせず滅することもない。
そんなことを言われても自分は確かに生まれているし、必ずいつか死を迎えます。
もしかしたら、今夜死んでしまうかもしれません。自殺未遂を繰り返している私のことですからマジにありえることです。
そんなことを考えていたら、「命」とはいったい何だろう?そんな疑問が浮かんで来ました。
私の命、あなたの命。みんなの命。人はそれぞれ1つの命を持っている。
1つだけの命だから大切にしないといけない。人1人の命は地球よりも重い。そう教わって来ました。
きっと皆さんそうだと思います。
一人一人別の命を持っているとしたなら、人類だけでも今現在、70数億の命があることになります。
妊娠すると新しい命が宿ったと言われますよね。この場合、双子以上でない限り命は1つと数えられます。
しかし、これは本当なのでしょうか?
赤ちゃんを妊娠するためには、精子が卵子に受精しなければなりませんよね。
精子には命はないのでしょうか?
そして卵子にも命はないのでしょうか?
もし、精子にも卵子にもそれぞれ一つの命があるのなら、受精した時点で2つの命が1つに減ってしまうのでしょうか?
男子が一度に射精する中には数億の精子がある(いる)と言われています。
そうすると、1人の男子が数億の命を産んだ。そういうことになるのでしょうか?
1組の男女のペアが新しい命を産んだ、または、作ったのでしょうか?
人口は日々増えていますし、宇宙でもビックバン以降、星の数は増え続けていますし、宇宙自体が膨張を続けています。
と言うか、そういうことになっています。と言うか、そう言った説が主流です。
そして、やがてはビッグクランチで宇宙は終焉を迎えます。
と言うか、これもそういう説が主流です。と言うお話です。
もっとも私自身は、ビックバン説、ビッグクランチ説は否定する立場ですが・・・。
しかし、一応ビックバンにより宇宙が誕生したとしてです。
宇宙が誕生した。そして、やがてはビッグクランチで終焉を迎える。
そうすると、不生不滅って何?
ここまで考えると。???と、なってしまいました。
確かにお釈迦様は不生不滅、不増不減と言っているではありませんか。
あのお釈迦様の言っていることは間違いなのでしょうか?
いやいやそんなことはないはずです。
そんな怪しい教えなら2,500年以上も伝えられないと思います。必ず間違いを指摘する人間が現れているはずです。
そこで視点を思い切って変えてみることにしました。
これまで書いてきた「命」とは、物質的な肉体のことです。命の数=肉体の数でした。
精子と卵子にしても同じことです。精子も卵子も物質であることには変わりありませんから。
そうすると、「命」とは肉体のこではないはずです。
命=魂なのでしょうか?
私はそう思うのですが、肉体を魂に変えたところで数に関する疑問は解けません。
だって新しい肉体が産まれる度に魂の数も増え続けているからです。
これでは不増不減ではありませんよね・・・。
そして、また、視点を変えてみることにしました。
不生不滅で不増不減のものがあるとしたなら、それは一体なんでしょう。
う~ん。
どうやら、この3次元の物質世界には、無さそうですね。
もしかしたら、お釈迦様は、大いなる存在(神様)のことを言っているのではないでしょうか。
それしか私には思い浮かびません。
この宇宙を創造した創造主。それを、大いなる存在と呼んでもサムシング・グレートと呼んでも、神様と呼んでも良いのですが。
ようは、呼び方は何でも良いんです。
そう考えないと争いが起こります。
今も世界では宗教戦争が絶えません。
キリスト教では創造主をエホバとヤーヴエと呼びますし、イスラム教ではアッラーと呼びます。
両方とも同じ存在のことを違った名前で呼んでいる。ただそれだけの違いで多くの人が殺しあっています。
話しが少し逸れてしまいましたが、「命」の数の話に戻します。
命=大いなる存在。としたならば・・・。
なんと、不生不滅も不増不減の意味も分かった!という気になってしまいました。
オマケに不垢不浄の意味まで解けてしまいました。
大いなる存在=命ならば、宇宙に命は1つだけです。
そして、その命は生まれもしないし、滅びもしません。永遠の存在です。始まりもなければ終わりもない存在です。
私達人間は70億以上の命を持っているのではなく、大いなる存在の命を共有しているのです。
それに、汚れもせず清らかでもありません。
大いなる存在は清らかなもの。
そういう考え方もあるかもしれませんが、私の考えでは、大いなる存在は清らかとか、そうでないとかの次元を超えた存在だと思うのです。
清らかであるとか、汚れているとかを判断するのは人間です。
大いなる存在は、そんな人間の判断出来る次元を超えた存在のはずです。
仏教では創造主とか、神様のことは説かれていない。確かそう聞いた覚えがあります。
しかし、お釈迦様は本当は、この宇宙を創造した創造主=大いなる存在=神様の存在を知っていたのではないでしょうか?
さて、それでは魂はどうなのでしょうか?
私達の肉体に、それぞれ1つづつの魂が宿っているとしたならば・・・。
魂の数=命の数は、不増不減に合わなくなってしまいますよね。
そこで、また、考えてみました。
魂が大いなる存在の一部であることは、間違いのない事実だと思います。
存在の一部と言うことは、大いなる存在と魂は分離しているのでしょうか?
もし仮に、魂が大いなる存在から分離したものであるならば、不増不減に当てはまらなくなります。
と言うことは、大いなる存在と魂とは分離して存在しているのではない。
そう結論することになります。
しかし、私達人間は、自己意識を持っています。
私は私であり、あなたとは違う。私の魂とあなたの魂とは違う。
これはある意味では、そのとおりであり、ある意味では違っている・・・。
魂は、それぞれに違った個性を持っていますから、その点では違った存在と言えなくもないと思います。
しかし、やっぱり、魂は同じ存在なのだと思うのですのです。
例えとして、手のひらで考えてみたいと思います。
親指には、自分は親指だと言う意識があり、小指や薬指とは違う存在だと思っています。
同じように人差し指もそう思っています。
しかし、視野を広げると親指も小指も同じ手のひらの一部です。
仮に右手だとすると、親指も小指も同じ右手のひらであることには変わりありません。
この手のひら全体を、大いなる存在とすして、各指をそれぞれの魂とすれば、魂は大いなる存在の一部であり、分離した存在ではない。
そういうことになるのではないでしょうか。
つまりは、私達の宇宙には大いなる存在と言う「命」が1つだけ存在すると言う結論に至りました。
私達すべてが同じ1つの命を共有している。そう言っても良いのかもしれませんね。
以上、徒然なるままに、不生不滅、不垢不浄、不増不減について書いてみました。
毎度の事ながら、あくまでも貧弱な私の想像力と知識での結論です。
ですから、これが正解だとも、これを受け入れろなどとも言う気はさらさらありません。
気楽な気持ちで、楽しんで読んで頂けたならそれだけで大満足です。
それでは最後までお読み頂きありがとうございます。