『ボナペティ! 臆病なシェフと運命のボルシチ』 試し読み 7(全8回)
アンティーク調のドアを開けると、中は雰囲気の良さそうなオーセンティックバーだった。先客がすでに数組、思い思いに過ごしている。四人掛けのボックス席が壁際に三つ。残りはカウンター席だ。
細長いLの字になったカウンターの、短いほうの辺に佳恵は落ち着くことにする。
スツールに腰かけ、ひと息つくと、「EXI○Eのメンバーにいませんでしたっけ?」という感じの渋いマスターがおしぼりを差し出してくれた。どうも、と受け取ってから、佳恵は真っ先にメニュー表に手を伸ばす。
さっきの匂いは……とページをめくっていくと、後ろのほうで視線が釘づけになった。
“ビストロ風ボルシチ”
バーにボルシチ?
あり得なくはないけど、と思った瞬間、はっと気がつく。さっきの煮込みっぽい匂い。やっぱりこの店からだったんだわ。
おまけに――“ビストロ風”という枕詞も、まるで悩める今の私を狙っているみたいじゃない?
佳恵は何か運命めいたものを感じながら、迷わずそれを注文し、マスターが先に作ってくれたジンライムをちびちびやりつつ待った。
「お待たせしました」
数分後、声をかけられると同時につい漏らしたのは、「うわぁ……」という感嘆の息だった。
場違いなほど濃厚な香りに、鼻腔をこれでもかとくすぐられる。
「うちの隠れた人気メニューなんですよ」
運んできたマスターがそう微笑むだけあって、白いプレートに盛られたそれは、レストランにも引けを取らない本格的なボルシチだった。
牛肉はじっくりと煮込まれ、ほろほろと崩れそうである。そのまわりを囲むようにニンジン、玉ねぎ……。少し緑がかっているのは、セロリかキャベツだろう。ボルシチ特有の濃い赤色は、たしかビーツ由来だったっけ? てっぺんでは添えられたサワークリームが白く輝き、こちらを挑発しているようにも見える。
立ちのぼる湯気と香りに気がついたのか、ボックス席で話し込んでいたサラリーマンのひとりが、「おいあれ」と小声で指差した。
ふふん、いいでしょう。
武者震いしそうになるのを抑え、スプーンを構えると、佳恵はそっとスープをすくった。喉の奥でごくりと音がした。
「美味っ……しい!」
息を吹きかけながら口に含んだとたん、佳恵はこらえきれずに声を上擦らせていた。
何これ――。何これ、何これ、何これ。
ボルシチって、こんなに美味しかったっけ。ロシア料理の定番、という程度の認識でいた自分を思わず殴りたくなった。
しっかり味の染みた具に、アクセントの酸味。食べ始めていくらも経たないうちに身体があたたまってくる。スープというより、煮込み料理のように具がメインになっているあたりが“ビストロ風”という名の所以なのかもしれない。
バーでの食事といったら、フィッシュ&チップスとか、具を並べるだけのピッツァとか、アルバイトでも作れるかんたんなものというイメージだったのだけど……。佳恵は皿を見下ろし、考えに沈む。
レストランでも、ダイニングバーを名乗っているわけでもない。そんな一介のバーで出てくるレベルの味だろうか、これが? 視覚と味覚が混乱してしまって頭がくらくらする。
そりゃあ中には、料理が得意なんです、というスタッフがいることもあるだろう。でもはたして、「料理が得意」という程度で、これだけのものを出せるだろうか? レストランにも匹敵する、奥深い味を?
――誰が作ったんだろう。
佳恵は、探偵になったような気分で店内に目を向けた。
先ほどのマスターは、リーマン連れにウイスキーを出している。もうひとりの若手のバーテンダーは、カウンターの奥で丸氷を削っている。
あのどちらかが、このボルシチを?
それとも奥の厨房に、調理専門のスタッフがいるんだろうか。あるいは他の誰か――たとえばマスターの奥さんとかが作り置きをして、営業中はそれをあたためて出しているのかも。
想像を巡らせるあいだも、スプーンは止まらない。
そして佳恵が舌鼓を打ちまくり、皿の底が見え始めたころになって、背後のドアから新しい客が入ってきた。
めかし込んだそのマダムは、四十代後半か五十くらいだろうか。彼女は慣れた足取りで店を突っ切ると、カウンターの反対端にどすんと腰を下ろした。
「今日、彼いる?」
いかにも常連客然とした振る舞いだ。
「ええ、裏に。ちょうどさっき、お使いから戻ってきたところですよ」
「やった! じゃあ“けーくんスペシャル”お願い。もうお腹ぺっこぺこなのよぉ」
マスターはふたつ返事で引き受け、奥に引っ込んでいったのだが、彼がオーダーを通し、ふたたび出てきたところを佳恵は呼び止めた。
「あの、さっきの方が注文してた、“なんとかスペシャル”って……」
「ああ」
マスターは得心したようにうなずいた。
「すみません、正式なメニューではないんですが、たまにああいったご注文がありまして……。そのときの酒とお客さまの好みに合わせて、おまかせで作るんです。対応できるスタッフがいる場合に限られますが」
「そのスタッフっていうのが、あの方の言ってたけーくん?」
「はい」
聞こえてましたか、とマスターは微笑んだ。
「まだ若いんですけど、料理はピカイチですよ」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?