『ボナペティ! 臆病なシェフと運命のボルシチ』 試し読み 8(全8回)
おまかせで作るというだけあって、“けーくんスペシャル”が出てくるまでにはしばらくあった。下ごしらえゼロの状態から始めているのだろう。
よほど空腹なのか、マダムはグラスを傾けながらそわそわと身体を揺らしている。そのさまは料理を待つというより、贔屓のアイドルの出待ちか何かのようだった。真っ赤に塗った唇にグラスをつけては、ろくに呑みもせず戻している。
佳恵もはじめこそ、何食わぬ顔で料理が出てくるのを待つことができた。しかしマダム同様身体が揺れ始めるまで、そうはかからなかった。
「ええっと、お手洗いは……」
ついに痺れを切らして、わざとらしくつぶやいて立ち上がる。そしてトイレへ行くと見せかけ、抜き足差し足で厨房に近づくと、仕切り用の暖簾を少しだけめくった。
厨房の奥に、エプロンを着けた男性の足回りが見える。
おおっ、あれが噂のけーくん!?
中腰でぷるぷるしつつも、佳恵は鼻息を荒らげる。
一方、覗き見されているとも知らないその男性は、重そうなフライパンを軽々とコンロにかけていた。
下処理を終えたのだろう、隣のバットから白身魚をつかみ取ってフライパンに移す。男にしてはほっそりとした手元だけれど、その動作は堂に入っている。
リズミカルにフライパンを揺すり、ときおり皮目の焼け具合を確かめながら、彼は次のオーダー票にも目をやっているようだ。
パチパチと油が弾ける音とともに、香ばしい匂いがこちらまで漂ってきていた。
だがその直後、厨房の奥でオーブンか何かの音がピーッピーッと鳴り、佳恵はぎくっとした弾みでその場を離れた。本当は最後まで見届けたかったのだが、マスターが客のグラスを下げて戻ってくるのに気づいたからだ。
ふたたび席に腰を落ち着け、待つことしばし。
やがて奥の厨房からバーテンダー姿の男性が現れると、マダムは腰を浮かさんばかりに色めき立った。
「けーくん!」
その手にはフライパンに代わって、見栄え良く盛りつけられたひと皿がある。
「いらっしゃいませ、山田さん。こちら真鱈のポワレで……ええと、サラミクランブル添えです。普通、クランブルっていうとお菓子に使われることが大半なんですよね。ですけど、別にそれにしか使えないというわけでもないんです。もともとは第二次世界大戦中、少ない材料でパイに似たものを作れないかと考え出されたのがはじまりだそうで、基本は小麦粉とバターと砂糖。そのくらい素朴な料理なんですけど――」
と彼は生き生きと語り始めたのだが、マスターの視線を気にするように不自然に言葉を切った。
「……ええっと、つまりですね。僕、このサクサクした食感を料理にも使ってみたくって、ちょうど試作してたところだったんです。食事用なので、砂糖を粉チーズに替えて、サラミも加えてます。山田さん、辛党だって聞いてたから、このピリ辛アレンジもお好きなんじゃないかなって……」
「いいのよぉ、けーくんが作ってくれるんなら甘くても辛くても!」
マダムはさっそくひとくち頬張り、表情をとろけさせた。「やだ、今日も最高っ」とかなんとか言いながら身をくねらせていた。
運んできたけーくんはそれを見ながら、控えめにはにかんだ――気がしたのだが、佳恵がいるのはカウンターの反対端だった。照明も薄暗い。声は若そうだが、顔は陰になっていてよく見えない。
「けーくん、上がりは何時なの?」
マダムはホストクラブと同じノリでいるのか、ナイフを動かす合間に落ち着かない様子で聞き出そうとする。
「さぁ……。僕、ここでは手伝い要員みたいなものですから。料理の仕込みが終わって、もういいかっていうときまでですかね」
「でも、こういう店って閉まるの遅いでしょう? 終電逃して困っちゃったりとか」
「いえ。僕チャリなんです」
「やだ初耳!」
けーくんは恐縮したように肩をすぼめている。
「ええー、けーくんもこのへんに住んでたんなら、もっと早く教えてちょうだいよ。近いの?」
「はぁ。駅の駐輪場にチャリ留めてあるんで、そっからだと十分ちょい……かな」
「あらまあ。本当に近くだわ」
マダムは目を丸くし、何か思いついたように含み笑いをした。
「ねぇ、だったらこないだあたし、美味しいお蕎麦屋さんを見つけたのよ。あの駅裏のスーパー、相沢屋からちょっと行ったところなんだけど。ね、ご近所のよしみで今度あたしと……どう?」
「ど、どうと言われましても……」
料理を説明していたときとは一転、声が困惑に揺れている。
「そのお蕎麦屋さん、夜に行ったら、つまみに天ぷらも揚げてくれるんですって。だから、ね。お店のシフトがない日にでも、たまにはふたりっきりで」
「ええぇ……」
あーあー、そんな強引な誘いなんか断ればいいじゃない。蕎麦のあとに自分も喰われかねないわよ?
佳恵はもどかしさを覚えつつ、空いた皿を脇によける。
そうやって中途半端に応じてるから、言い寄られるのよ。脇が甘いというか、危機感に欠けるというか。ありゃあ天性のマダムキラーだね。佳恵の直感はそう告げているけど、あの優柔不断っぷりが母性本能をくすぐるのかもしれない。
ま、私ならこう、もっと身も心もマッチョなのが好みではあるけどね。世間的には、ああいう華奢な男を好む女もわりといるんだよねぇ。
それこそ由布子とか………………………………あれ?
わりと最近、似たようなことを考えたような気が、しなくもない……?
ふいに既視感に襲われ、佳恵は当惑した。すると無意識に動かした手が、皿に残していたスプーンに当たってしまった。
カチャンと音が響いて、けーくんが振り返る。カウンターを挟んでばっちり視線が合う。
「あ」
佳恵は間抜けな声を漏らしたまま、固まっていた。けーくんもけーくんで、呆けたように口を開けていた。
アイドル風の綺麗な顔。いかにも臆病そうな、落ち着きのない視線。
「あーっ!」
佳恵は記憶がよみがえるや立ち上がって、思わず指差した。
「あなた、このあいだの――おどおどくん!?」
「……は、はい?」
<1章・了>
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